469.過去を見る
私が見た悪夢は決して、記憶を穢して作られる有り得ない世界などでは無かった。
「おいで、ミスティ」
なんて、優しい声だろうと泣きそうになる。
夢だとわかっていて、私はその声に溺れるしかなかった。
両手を大きく広げて私の名前を呼ぶその人に、子供の体になっていた私は思いきり抱き着いた。
「お母様!!」
「あらあら、もう九歳なのに甘えん坊のままなのね。冬になるとこうなんだから」
「いいんです。お母様の前だけですから」
優しく温かい声に、夢だとわかっていても縋りたくなってしまう。
私が見ているのは私の過去であり、これは魔法による精神攻撃に違いない。
抱き着いて顔を埋めたら甘く心地のいい匂いがして、思い出の中でしか聞けなくなっていた声がとても近くて、泣きたくなるほど懐かしくて。今の私にはあまりに得難い幸福がここにある。
……けれど、破らなければいけない。
私は今年十七になるミスティ・トランス・カエシウス。決して九歳の子供では無いし、お母様が床に伏しているのがわかっている。幻覚だとすぐにわかってしまう望んだ光景。
カエシウスの血統魔法ならば瞬く間にこの光景を雪と氷の中に閉じ込めることができるだろう。
「じゃあそんな甘えん坊なミスティを今日は私も甘やかすとするわ、ミスティの好きなミルクティーも淹れてきてあげる」
「いいんですか?」
「ええ、でもちゃんと歯磨きはしないと駄目よ?」
「はい!」
髪を撫でてくれるこの優しさも偽り。記憶の作った夢。
私の大好物のミルクティーを持ってきてくれる世界一のお母様は、記憶の中だけの姿。
動かないといけない。
唱えないといけない。
私の記憶に無秩序に踏み込んで見せてくる、この悪質な魔法の力を拒絶する為にも。
早くやらないと。外ではきっと何かが起きているのでしょう。
「お母様! 今日は一緒に寝て御本も読んで頂けますか?」
「もう読み聞かせという歳でも無いでしょう?」
「いいんです。言ったでしょう? こんな姿を見せるのはお母様の前だけだって」
「あらあら……仕方のない子ね、ほらおいで」
そう言ってお母様は私に笑い掛けながら手を引いて、ベッドまで連れて行ってくれた。枕元には私の好きな絵本がもう置いてあって……私とお母様は一緒にベッドに入っていった。
ベッドの中で伝わってくるお母様の温かさに、私の決意は瞬く間に溶けていく。
「こうして、お姫様と魔法使いは幸せに暮らしていくのでした」
「ふふ、いつ聞いても素敵なお話ですねお母様」
「ええ、そうね。とっても素敵なお話だわ」
お母様はとても優しくて、私に甘くて、でも厳しい時は誰よりも厳しい人。
お願いします。どうかこの先の言葉が記憶の中と違いますように。
この先も記憶通りでなければ、私はこの夢を取るに足らない作り物として壊すことができるのです。
無理だと諦めてしまった弱い私でも、決断することができるのです。
「でもね」
………………。
「ミスティ。あなたはお姫様に憧れてはいけませんよ。あなたは何かに負けてはいけません。あなたは絵本のような悪者を自分で倒せる人間でなくてはならないんですからね」
先程までと一転して険しい表情で私にそう言ってから、お母様は静かに絵本を閉じた。
目の前にいるお母様は私が知っている、思い出の中のお母様。優しくも厳しい私の未来を考えてくれる人。
――――ああ、無理だ。
絶対に、できない。
目の前の光景を雪と氷に閉じ込めるなんて、夢だとわかっていても出来るはずがない。
だって、本当にそうなるまでには後一年あるのだから。
私が十歳になる日まで、この幸福な光景が続くのを私は知っている。
「でも、もしお姫様のほうに憧れてしまったのなら……自分の在り方を今一度見つめて悩みなさい。悩んで悩んで、そうして出した答えがきっとあなたの歩むべき道を示してくれる」
「はい、お母様」
「忘れないでミスティ。ミスティ・トランス・カエシウス。あなたはこの家名を背負う貴族で、素敵な女の子でもあるのだということを」
そこで、私の夢は途切れた。
わかっているんです私だって。
何故今見せられた記憶が悪夢になるのかなんて、わかっているんです。
だって私はこの翌年、血統魔法を継いだ日に……この幸福を本当に凍らせてしまうのだから。
ごめんなさいお父様。
ごめんなさいグレイシャお姉様。
ごめんなさいアスタ。
お母様を昏睡させたのは、恐らく未知の病気などではありません。
ずっとずっと思っていたんです。関係ないって言い聞かせてきたんです。
それでもやはり、思ってしまうんです。
本当は、私のせいなんじゃないかって。
だって、おかしいでしょう?
私が血統魔法を継いだ次の日の朝に、お母様が起きなくなったなんて。
おかしいでしょう?
ガザスから帰ってきてから私はいつの間にか……お母様が凍ってしまったことを知ってしまっているんです。
何故私がアルムを想いながらでしか血統魔法を使えなくなったかも……本当はわかっているんです。
私は恐いんです。私が操るこの血統魔法の力が。
恐くて恐くて仕方なくて、私を救ってくれる魔法使いがいないと唱えることすら恐ろしいんです。
けれど今では、アルムの傍ですら唱えるのが恐い。
膨らむ不安がさらに恐怖を助長して、そんなことあるわけないと思っていても、考えてしまうことがあるんです。
いつか、お母様のように誰かを凍らせてしまうとしたら。
今度はもし、私の前に現れてくれた魔法使いを凍らせてしまったら。
想像しただけで震えが止まらなくなるんです。
本当にそうなったら私はまた一人で、雪原を歩く事になるのでしょう。
いいえ、今度そんな事があったとしたら私は――歩く事すらできなくなる気がするのです。
『うずくまってただ泣くだけならばお前はまた、一人で雪原を歩く事になるぞ』
夢の途切れた暗闇の中、誰かの声が聞こえてきた気がしました。
優しくも厳しい……私の知らない誰かの声が。
いつも読んでくださってありがとうございます。
第七部も半分くらいまで来ました。これからも応援よろしくお願い致します。




