447.メイドの胸中2
夜も更け、トランス城の明かりのほとんどが落ちた頃。
客間の扉がゆっくりと開かれた。
「しまった……」
困ったような表情で扉を開け、きょろきょろと廊下を見渡すのはアルムだった。
右を見ても左を見ても真っ暗な廊下が広がっている。壁にかかっている蝋燭の明かりが所々見えるが……夜に呑み込まれるように寂しい。それでいて愛おしいほどの静謐が城の雰囲気にあっていた。
夏だというのに何処か空気は冷たい。
山だからか、この城だからか。それとも……別の理由か。
「トイレの場所を聞いておくべきだったな……」
どちらに行けばトイレに辿り着くのかすら見当もつかず、アルムは髪をかく。
用を足したいが、このまま自分がトランス城を散策すれば迷うのは間違いない。うっかり入ってはいけない場所に入ろうものならミスティにも迷惑がかかるだろう。
だからといって、トイレに行かないわけにもいかない。
迷わない範囲で探すべく……とりあえず、この廊下の先まで歩いてみようと足を踏み出した時。
「そこのあなた何やっているのかしら?」
左のほうから、壁にかかった蝋燭とは違う明かりが歩いてくる。
衣擦れの音と共に歩いて来たのは金髪碧眼のメイドで、手に持ったランプをアルムに向けて来た。
「あなた……今日来た客?」
「はい、アルムといいます」
「ふぅん……?」
名前を聞いた瞬間、そのメイドは目を細める。
下から上まで値踏みするような決していい意味ではない視線。
「私はドローレス。で? 何していたのかしら?」
「お手洗いに起きてしまったのですが、場所がわからなくて……案内してもらえないでしょうか?」
「はぁ……」
面倒臭そうなため息をわざとらしくつくと、ドローレスと名乗ったメイドは振り返った。
「こっちよ」
「ありがとうございます」
ドローレスに案内され、アルムは無事にトイレに辿り着く。
左の廊下を真っ直ぐ行き、階段を下りた一階のホールを右に曲がった先にトイレはあった。
アルムはトイレの広さに驚きながらも用を済ませて、水で手を洗う。
「……カレッラの俺の部屋より広かったな。凄いトイレだ…………」
そんな率直な感想を零しながらトイレから出てくると、
「もういいかしら?」
「あれ」
ここまで案内してくれたドローレスが近くの壁に寄っかかって待っていた。
アルムが出てくると、ドローレスは欠伸をしながら元来た道を戻り始める。
「すいません、待って頂いてありがとうございます」
「いいのよ。図々しくカエシウス家に入り込んだ卑しい平民に……何かを壊されたり、盗られたりしたらたまりませんもの」
ドローレスはにやりと嫌な笑みを浮かべながら、アルムに向けてそう言った。
嫌味の籠った言葉選びと声色。
暗がりなのもあってより一層陰湿に映る。
どんな反応を返してくるかとドローレスが期待していると、アルムは口元で笑った。
「なるほど、ドローレスさんはカエシウス家思いですね」
「は、はぁ……?」
「自分が客だからといって手放しに信用せず、こうしてカエシウス家に被害が出ないように自分をお手洗いのところまで見張っているんですから……そういう事でしょう?」
予想だにしていなかった返しにドローレスは絶句してしまう。
嫌味を言われている事に気付いていないのか? いや、気付けるような言葉選びをしたはずだ。
だというのに、この表情は何だ。
嫌な気持ちになど全くなっていないかのようなこの穏やかな表情は。
「そうなんです。私仕事熱心ですから。こうして夜の見回りをしているところをあなたに邪魔されて苛立っているくらいにはね」
「それに関してはすいません……ちゃんと聞いておけばよかったです」
「いつもそんなにうっかりしているんです? ミスティ様に迷惑をかけないでくださいね」
「お恥ずかしい……ミスティにはいつも助けられてます」
ドローレスは返ってくる答えが全く予想したものにならない事に苛立つ。
平民がカエシウス家に招待されるという幸運に妬み、少しざらつかせてやろうと仕掛けたドローレスの悪意はまるで受け流されているかのようだった。
文字通り、この程度の悪口、悪意などアルムにとってはそよ風に等しい。
よほどアルムの逆鱗に触れるような決定打でなければ、魔法生命の呪詛ですら揺るがないアルムの心に波風を立たせるのは不可能だ。
その証拠に、アルムはドローレスの言葉をただ仕事熱心なメイドさんの忠告と捉えて聞いている。
(なんなのこいつ……)
何故権力を使わないのか。
カエシウス家に招待された客人だというのに、カエシウス家の権力を盾に自分に怒声を浴びせてこないのか。平民がそんな立場になろうものなら、嬉々としてそのような方法をとってくると思っていた。
ドローレスが求めていたのは、そんな他の貴族がやるような当たり前の反応。
貴族も平民も、ただの人間だと実感するのは権力が絡んだ時だというのがドローレスの信条だった。
人間社会にわかりやすく用意された特権。同じ地面に立つ人間が生み出した上下。権力を見せびらかして主張する人間ほどただの人間らしい姿はない。
民に寄り添う王であろうと、聖母と呼ばれるような人物であっても、どれだけの行いをした英傑であっても……権力を吠えた時こそ最も滑稽で腑に落ちる。
そんな姿はどんなに立派とされる人間も、自分と変わらない人間だという証明だから。
「ほら、着きましたよお客様」
「どうもありがとうございました」
投げやりなドローレスにアルムは礼を言いながら小さく頭を下げる。
絶対的に噛み合わない感覚。
未だ出会っていない人間よりも遠くにいるような隔たり。
理解できない精神にドローレスの目付きが険しくなる。
「おやすみなさい、ドローレスさん」
そう言い残して、アルムは部屋の中へと消えていった。
扉が閉まる音が暗い廊下に小さく響く。残されたドローレスはぎりっと歯を鳴らした。
カエシウス家に招待された平民。ドローレスはそんな異質な存在も少しつついてやれば自分が見てきたような人間と同じだと思っていたが、終わってみれば理解できない存在という確証を得ただけった。
「予想以上に、イラつくガキみたいね」
ドローレスは露骨に嫌悪を表しながら舌打ちする。
自分の気持ちに困惑するほどの苛立ちが手に持つランプの灯のように、ゆらゆらと胸の中で揺れていて気持ちが悪い。
お堅いイヴェットや、成り上がりのラナに向けるものとは違う感情。
嫌いではなく、憎い。
絶対に相容れない存在と出会ってしまったかのような。
「起きてるのに悪夢みたい」
ドローレスは焼き付いたアルムの顔に唾を吐きたくなりながら……夜の見回りに戻っていく。
何かをぐちゃぐちゃに壊したくなるような苛立ちと衝動を抱えながら。
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