436.灰姫はここにいる7
魔力は毒。
重圧は充分怪物。
その体躯は決して大きくこそないが、纏った紫の鱗は異質。
生えた尾はその存在が人ならざる者だと知らしめ、口の先に集中する魔力の塊に至っては放たれる前から大気を焼き始めている。
だというのに、やはり目の前の敵に恐れは無い。
灰の中、泰然と立つエルミラの姿はもはや最初に会った時とは別人。
――だからどうしたというのでしょうか。
トヨヒメは内心で吐き捨てる。
敵が何者であろうと関係ない。自らが操る力が何だったのかを忘れたか、とトヨヒメはエルミラに放つであろう最後の一撃に、信仰を込めた。
『躱そうとしないのですね』
「ええ、躱す気なんかない」
二人の距離は十数メートル。
トヨヒメの龍の息が到達する速度は瞬きの間だろう。
荒野のように荒れ果てた中庭に立つ二人。
トヨヒメの魔力が集中し終わった際に一瞬の静寂が訪れる。
その静寂が、合図だった。
「【文明の落日】」
声とともに放たれる最大の火力。最大の呪法。
敵を倒すためにと放たれたためか、先程とは"現実への影響力"も比べ物にならない。
その気になれば百人を呪える龍の息がただ一人の命を奪うために放たれる。
大気を焼き、空間にすら呪いを残す黒炎。
本来ならば魔剣か聖剣、もしくは聖人の御業でなければ防げないであろう呪詛の奔流。
到達まで数瞬。今にも龍の声が轟きそうな災害がエルミラ目掛けて向かっていく。
「――」
その先に何を見たのか。
災害に向かって、無言で駆け始める影があった。
声が出れば誰もが無謀だと止めただろう。
だがその影もまた灰を纏い、炎と化した"魔法使い"。
自分の道が前にしか無いのだと知っているからこそ、少女は災害に向けてその足を踏み出した。
かつん、と鳴るヒールの音と共に、災害と少女は衝突する。
『終わりです』
ゴウッ!! と龍の息がエルミラを灰の爆発の音ごと呑み込む。
魔力濃度はこの場の霊脈以上。鬼胎属性の魔力による精神への負荷は想像すらできない。
背後にあった半壊済みの校舎はその余波で今度こそ全壊する。
荒野のような中庭は毒々しい煙を上げながら徐々に融解していった。
見ている者全員がエルミラの死を悟る。
周囲の生徒達が涙を悲鳴を上げる中、少女は呪詛の中心で呼吸した。
『!?』
「ぁ――! ぁああああああ!!」
盾となった灰のドレスが血とともに飛び散る。
その呪詛が大気を焼くように、少女の炎は呪詛を焼く。
流れ込んでくる無念。
肉を喰われる咀嚼音。
砕かれる頭蓋。
毒に焼かれる苦悶。
だが、流れ込んでくるのがどれだけ鮮明な死の光景であっても、少女の心は折ることは敵わない。
「な、める……なぁああああああ!!」
その全てを焼き尽くし、エルミラはただ一点を目指した。
自分の在り方を示し、大事な人を救う道を進み続けて――!
『ば、かな――』
龍の息を突っ切る人型の炎。
灰のドレスは無くともその命は健在。
見てわかるほどの鮮血を散らしながら、エルミラはトヨヒメの前に現れる。
信じられないと零しつつも、トヨヒメは警戒を解いてはいない。
この距離で拳か蹴りか。はたまた炎を放たれるのか。
エルミラの攻撃に備えて爪と尾を身構えるが――これ以上無いほどトヨヒメは不意を突かれた。
『な――に――?』
トヨヒメに放たれた攻撃は拳や蹴りでもなければ、炎でもない。
いや、それどころか……攻撃と呼べる行為ですら無い。
エルミラは向かってくる勢いのまま殺意も見せず、ただ手を大きく広げて――トヨヒメを抱擁した。
「あんたの敵は私でも……私の敵は、あんたじゃないのよ」
『――!!』
困惑した次の瞬間、トヨヒメの呼吸が一瞬止まる。
気付いてしまった。
エルミラが一体何をしようとしているのかを。
『やめ、て! やめてえええええええ!!』
「やめるわけないでしょうよ!!」
エルミラの炎がトヨヒメの体に広がる。
その炎はトヨヒメの全身を余すことなく燃やし始めるが、トヨヒメに焼かれる痛みは全く無い。
エルミラの炎が焼く敵はトヨヒメではない。エルミラの炎が焼くのはトヨヒメに宿る力。
ルクスに送られる呪詛そのものであり、トヨヒメの信仰によってこの世に在り続ける……魔法生命ファフニールの魔力残滓を灰に変えていく――!
『トヨヒメから、トヨヒメからファフ様を奪うなあああああああああ!!』
先のトヨヒメの攻撃が魔力と信仰を集中した一撃ならば、エルミラもこの一撃に魔力と全霊をかけた。
自らの在り方。大事な人を救いたいという思い。
エルミラのエゴを乗せた抱擁が、炎となってトヨヒメを包み込む。
トヨヒメの体は傷一つ付く事無く、痛みも無い。
だが、エルミラの炎はトヨヒメの心の疵を埋めていた力を容赦なく燃やしていく。
紫の鱗も、爪も、尾も、炎に巻かれた龍の証は灰と変わって――
『ファフ様……ファフ様あああああ!!!」
「悪いわね。私のハグって――痛いらしいの」
それはいつか言われた友達からの声。
エルミラはトヨヒメにとってもっとも残酷でもっとも優しい結末を与える。
魔法生命の力に囚われているトヨヒメを救う、そんな独善的な結末を。
「あ……ああ……」
龍人だったトヨヒメの体が人間に戻る。
エルミラの抱擁から解放され、トヨヒメは膝を折った。
ふるふると手を震わせて、トヨヒメは自分の手を見た。
何も感じない。
さっきまで感じられた鬼胎属性の魔力が。
ファフニールの魔力が。
この体に、確かに宿っていたはずなのに。
「いや……いかないで……! ファフ……様……!」
空に上っていく灰に、トヨヒメは手を伸ばす。
その先にファフニールの存在など無い。いや、元からいるはずがない。
トヨヒメはただ自分の記憶と力の中に幻影を見ていただけ。
核を破壊された時から、ファフニールという魔法生命はもう、この世界の何処にもいない。
宿主だったトヨヒメには、それが痛いほどよくわかっていた。
「ファフ様……!」
その事実を改めて突き付けられて、トヨヒメは子供のように泣き出す。
それは別れの時に流したのと同じ涙。
仮初で埋めていた心の疵が痛み出す。
二十年前に止まっていた時間が進む。
誰かがいつか気付かせなければいけなかった時が、たった今訪れた。
「ねぇ、あんた……」
崩れ落ちたトヨヒメの前に立つ者の声。
鬼胎属性の力は無くとも、トヨヒメの瞳には憎悪の色が浮かんでいる。
ファフニールの力を奪った敵が、目の前にいる。八つ裂きにすべき敵が。
トヨヒメが自分の爪に血を滲ませるほど土を握り、エルミラに再び襲い掛かろうとするその瞬間、エルミラはどうしても最後に聞きたかった事を投げかけた。
「あんたがそんなに慕ってた奴が……本当に復讐を望んでたの?」
「――――」
言われて、トヨヒメは思い出す。
二十年前……核が破壊され、ファフニールのカタチが消えていく感覚を味わう中――泣きじゃくりながら聞いていた声を。
『さらばだトヨヒメ。君がいつか、君だけの財宝を見つけることを願っている』
それが、ファフニールが遺した最後の言葉。
去り際に宿主の……トヨヒメの未来を憂いていた魔法生命の声。
「あ……ああ……! ファフ様のおごえ……!」
あれだけ聞きたかった声が、鮮明に聞こえてくるようだった。
何故、今まで気付かなかったのだろう。
幾度も記憶の中で再生した声の真意に。
そうだ。最後の最後まであの御方は魔法生命でありながら――トヨヒメの事を気遣っていた。
トヨヒメが歩けるように道を示し続けてくれていたのに。
トヨヒメは握りしめた土を離して顔を見上げる。
その瞳から憎悪はもう消えていた。ただ涙だけが止まらない。
「復讐に後悔はありません。けれど……申し訳ありません、ファフニール様……トヨヒメはまた、飛び立てなかったのですね」
天を仰ぎ、トヨヒメは呟く。
痛む心の疵を抱いて、トヨヒメは敗北を受け入れた。
トヨヒメが支配していた霊脈の光が色を失い、立ち上る光が徐々に収まっていく。
「勝った……の?」
収まっていく光を見ながら、エルミラは呆然と呟いた。
自分のエゴを貫いた結末を彼女はまだ実感していない。
「でき……た……?」
自分の成し遂げたことがどれだけのことかも。
自らが、理想に追いついた事実でさえ。
「もう……死なない……?」
敵は消失し、勝者として立つ自分に困惑していた。
やがて、舞い散る灰に勝利の痕跡を見る。
全てが終わったことを悟ると、エルミラの体は小さく震え出した。
「私、にも……でぎだんだ……!」
エルミラが見せるのは勝利の雄叫びではなく、安堵の涙。
何度も戦って、何度も守って、それでも届かなかった最後の一歩。
自分の手で友達を……大事な人を救えた事実が温かい涙を流させる。
ずっとずっと、その涙は止まらない。
さあ、立ち上がれ弱き者。これこそは理想を目指した少女の輝き。
理不尽も不条理も跳ねのけて、真っ直ぐに走り続けた――灰姫はここにいる。
いつも読んでくださってありがとうございます。
トヨヒメ戦決着となります。例の如く後書きは控えておりました。
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