432.灰姫はここにいる3
「嘘……なん……で……?」
エルミラの瞼に裏に浮かび上がってきたのは、今いる空間とは違う場所の光景だった。
その場所はさっきまでいたローチェント魔法学院の中庭。
相変わらず龍人となったトヨヒメは真ん中に佇み、黒い輝きを放つ霊脈を統べている。
だが、そこにいる人達を見てエルミラは驚愕を口から零す。
「戦え! 戦えぇええ!!」
「絶対にやらせるな! 動けるやつらは歯食いしばって唱え続けろ!!」
「相手だって人間だ! 魔力切れはあるはずだ!!」
聞こえてきたのは、モルグアや他の生徒達の声。
自分が敗北したことで、トヨヒメを止められる者はいなくなった。彼女を邪魔する者はもうおらず、鬼胎属性の恐怖がその場を支配したとすれば、ローチェントは静まり返っていてもおかしくはない。
だが、予想に反して中庭にはローチェントの生徒達が数十人降りていた。震える足で走りながら必死そうに叫んでいる。
中庭を駆け、不器用ながらも布陣を展開し、ローチェントの生徒達はトヨヒメを取り囲んでいた。その中にはエルミラが校舎に吹っ飛ばされた時に見えた顏もちらほらいる。
「『光刃』!」
「『炎の矢』!」
「『水流の渦』!」
次に聞こえてきたのは、誰かが魔法を唱える声だった。
下位や中位の魔法だが、唱えている者は目尻に涙をためていたり、唇を震わせて何とか唱えられるようなものばかり。
普段の半分ほどの"現実への影響力"しか出ていないだろう。
それでも、彼らは必死に魔法を唱え続けていた。数十人が連続して唱える波状攻撃がトヨヒメを襲っている。
『出鱈目に動いて出鱈目に魔法を撃ち続けるとはなんとも……まるで、夏に飛ぶ羽虫のようですね……』
「あ、がぁあああああ!!」
「接近戦は無理だ! 取り囲んで削り続けろ! 魔力を使わせるんだ!!」
その魔法の数々を涼しい顔で弾き続けるトヨヒメ。
強化で接近戦を仕掛けている生徒もいたが、その怪力と渡り合うのは不可能と判断した生徒達はすぐさま切り替える。
トヨヒメは涼しい顔のまま、飛んでくる魔法をものともしていない。
『一斉に校舎から下りてきたかと思えば……随分と鬱陶しいことをなさりますね。トヨヒメに通じていない事くらいわかっているはずでは? あなた方はファフ様の魔力を増幅させるための餌に過ぎません……大人しく校舎の中で引きこもっていれば、あと数分は長生きできるのですよ?』
「うるせえ! お前に勝てねえことなんて見りゃわかる! でも、でもよ! ここで黙って見てたら俺達は……二度と貴族でいられなくなっちまうんだよ!! ローチェントのやつらがベラルタのやつらに黙って守られて、よかったねですましていいはずがねえんだ! あんなになるまで戦い続けたやつを見て……ただ引きこもっていられるわけねえだろうが!!」
恐怖で呼吸を荒げながらもモルグアは叫び、圧倒的な力の差を持つトヨヒメに再び魔法を唱え始める。
鬼胎属性の魔力に精神が蝕まれながらも、退かない意志が今の彼にはある。
エルミラと初めて会った時には決して無かった何かが宿っている。
「逃げれるなら逃げてって……言ったじゃない……!」
そして戦っているのは、トヨヒメに立ち向かう者だけでは無かった。
倒れるエルミラの周りにも、戦う生徒達がいる。
「いっづ……! なに、この黒い……の……纏わりついて……!」
「でも少しづつ治ってる! あ、い……! せ、せめて、動けるくらいに……!」
「こ、こんな聞こえてくる悲鳴も……痛い、のも……どってことない!」
倒れるエルミラの周りには治癒魔法を使い、ボロボロとなったエルミラの体を治癒する女子生徒達がいる。
呪法の刻まれたエルミラの体に纏わりつく鬼胎属性の魔力が、治癒魔法を通じて女子生徒達に死に際の苦痛を流し込み続けるが、女子生徒達は治癒の手を止めなかった。
「絶対に、駄目なんだ……! この人を、死なせたら……! 私はもう二度と……! 前を向く資格を失くしちゃう気がする……!」
その中には、エルミラが頭を撫でてやった女子生徒もいた。
あれだけ震えて、恐怖で立つ事すらままならなかった子が……中庭に下り、エルミラの体に必死に治癒魔法をかけ続けている。
そんな光景が、目を閉じたエルミラの視界に広がっている。
「あの子も……なん……で……?」
『あんたが動かしたのよ』
校舎に引きこもり震えて動けなかった生徒達のことごとくが、中庭に飛び出してトヨヒメと戦っている。
恐怖の中唱えた魔法は当然トヨヒメに通用するほどの力は無い。呪法の刻まれたエルミラの治癒の速度は牛歩のごとく遅い。
それでも、彼らは動いた。
決して動かすことのできなかった足を動かした。
「わたし……が……?」
『そうよエルミラ。あんたが、動かしたのよ』
何も出来ない自分達を守ってくれた、少女の背中に輝きを見て。
『あなたは確かに普通かもしれない。けど、けどね……それでもあなたは正しい道を歩んできた。大好きな母親が出ていく時も、あなたはけして着いていくとは言わなかった。母親が大好きでも、母親のとった選択が正しくないと知っていたから』
閉じた目に涙が滲み、瞼の下に広がる外の光景が涙で歪む。
子供の頃、母親を引き止められなかった自分。
自分が無価値なのだと突き付ける最も苦い記憶……だったはずなのに。
『あなたは子供の頃からずっとずっと、正しく在りたかっただけだった、その在り方こそが、あなたの価値そのもの。だから、あなたは信頼されているのよ。あなたならきっと正しい事をしてくれるとあなたのお友達は確信しているから』
「っ……!」
その苦い記憶が、エルミラ自身を肯定する。
引き止めようとしても引き止められなかった。母親すら引き止められない自分は母親の言う通り無価値なのだと思っていたのに。
そんな苦い記憶に束縛されていた価値観が、ゆっくりと解けていく。
『前だけ見過ぎよ二番ランナー。たまには、後ろを振り返ってみないとね』
そう、少女はずっと前だけ見ていた。
子供の頃からずっとずっと、何があるかわからないまま歩いてきた。そしてようやく憧れを見つけて、走り出した。
それだけが、何も無い自分に出来ることだと知っていたから。
振り返った先には苦い記憶があると決めつけて、一度も振り返ろうとしていなかった。
『特別でなくても弱きを守り、普通でありながら前に進むことを決して止めない……そんな正しい道を走り続けるあなたの背中に憧れる人達がいる。あなたの姿に心動かされる人達が大勢いるの。不条理と理不尽の中、正しさを忘れず、真っ直ぐに歩み続けてきたあなたの人生は決して、無意味なんかじゃなかった』
振り返った先にはエルミラの在り方に突き動かされた人達の姿がある。ローチェントの生徒達、常世ノ国のマキビ、ガザスのセーバ、ベラルタにいるサンベリーナやフラフィネまで。
エルミラが歩んできた道そのものが、紛れも無いエルミラの価値そのもの。
人間らしくありながらも正しく、特別でなくとも真っ直ぐに前に進むその姿は追いかける者の理想像。
頂点に手を伸ばす者、伸ばす事に疲れた者、諦めた者達……その全てにあと一歩を踏み出させる特別な背中。
エルミラ自身がずっと気付いていなかったエルミラだけの輝きだった。
「わたし、の……人生……」
とっくにエルミラは、自分の在り方を持っていた。持っていたのに気付けず、自分には何も無いと思い込み続けてきた。
エルミラにとって正しい事をするのは当然で、決して特別な事では無かったから。
「わたしにも……あったんだ……!」
瞼の下から温かい涙が零れ落ちていく。
無価値だと思っていた自分は無価値などではなく、自分の歩んできた人生は無意味なんかじゃなかった。
自惚れかもしれないけれど、誰かの目から見た自分の姿はもしかしたら……アルムやルクスのように、綺麗に見えていたのだろうか?
我武者羅に走ってきただけだけど、もしそんな泥まみれの自分の姿が誰かの目に美しく映っていたのなら――
「そうだったら……いいな……!」
情けない姿など見せられない。
自分を卑下するのはもう終わりにしなくちゃ。
自分が見せるべきはきっとあの時の……逃げるしかなかったあの山で見た、かっこいいあの人のような背中だから。
『もう大丈夫でしょう?』
「う゛ん……!」
エルミラは目を開けて、止まらない涙をぐしぐしと拭う。
夢のような現実を見る時間は終わり。
『もう、戦えるでしょう?』
「うん!!」
シャロンはエルミラの背中を思いっきり叩く。
小気味いい音が暗い空間に響いて、エルミラは前へと踏み出した。
『ぶっ潰してきなさい!!』
「ええ!!」
それは先祖から末裔への優しい激励。
真っ暗な空間が赤い光で塗りつぶされていく。
夢の時間が終わる。エルミラの意識が現実へと向かっていく。
『最後の助言よエルミラ。何で……ドレスが灰になるんだと思う?』
それは血統魔法を通じ、時代を越えてエルミラを助けに来たシャロンの最後のエール。
赤い光と舞い散る灰の中、エルミラは真っ暗な空間から現実へと戻っていく。
『鬱陶しいですね』
トヨヒメの一声が中庭の空気を急速に冷やす。
トヨヒメに魔法を撃ち続けていたローチェントの生徒達は皆が一斉に危険を感じ取った。
それもそのはず。ゆっくりと開けた口の先には、先程校舎を半壊させた時と同じように魔力が集中し始めていたのだから。
「全員固まれ! 防御魔法だ!!」
「モルグア! 俺の人造人形を盾にする! その後ろに!!」
「わかった!!」
モルグアの指示でエルミラの前方に生徒達が集まる。
中庭にいる数十人全員が防御魔法や血統魔法で壁となる人造人形まで召喚するが、これだけの人数が構えていても、背筋から寒気は消えなかった。
「治癒を止めて私達も防御を!」
「うん!」
エルミラを治癒していた女子生徒達も一旦治癒を中止し、魔力を防御魔法に"変換"する。
この人だけは、とその内の一人がエルミラの体を庇うように抱き締めた。
「「「『守護の加護』!!」」」
「【文明の落日】!」
エルミラの周囲に展開される防御魔法。そしてその前には数十人による防御魔法と人造人形の壁。
だが、それでも……トヨヒメが放つ龍の息の前では不十分。
トヨヒメの口元で圧縮された魔力の解放と同時に、その全てが融解する。
盾となった人造人形は跡形も無く消滅し、数十人の防御魔法も紙のように燃えていく。
黒い魔力の奔流がローチェントの生徒達を襲い、毒々しい煙があちこちに上がった。
「い、でえ……!」
「あ……か……か……!」
「あれだけ……あって……!」
「みえねえ! みえねえよお!!!」
集まった生徒達は龍の息の衝撃で散り、腕や足、顏から毒々しい煙を上げている。
心を折るに相応しい恐怖の一撃。
人間では決して敵わないと思わせる圧倒的な"現実への影響力"。
生きているか死んでいるかわからない意識を失った者達もおり、ローチェントの生徒達は中庭に無残に転がる結果となった。
「あっづ……!」
「じょうだん、でしょ……! ほんとに……怪物……!」
エルミラを庇うようにしていた女子生徒も背中が焼け、毒々しい煙を上げている。
他の女子生徒も同じような結果だが……それでも、エルミラに新しい傷を増やすことだけは防いでいた。
この中庭で無事なまま立っているのは当然、トヨヒメただ一人。
『あなた方全員に呪法を刻みました。これで先程のように我武者羅に魔法を撃つ事も難しいでしょう』
ファフニールの龍の息はそれそのものが呪法。
対象が死ぬまで蝕み続ける毒の呪い。
一撃で心を折り、呪法を刻み恐怖を生産させるために飼い殺す。
ファフニールの力にはそれが可能だった。
『さあ、トヨヒメの目的が済むまで大人しくして頂きます。トヨヒメが去った後は……呪法に苦しみながら、トヨヒメに逆らった事を後悔しながら生き……て……』
トヨヒメの声が途端に言い淀む。
目的であるルクスの呪殺も目前。勝ち誇った表情の中……信じられないものを、見てしまった。
「え――」
「うそ……!」
それは突然だった。
エルミラを庇うようにしていた女子生徒達も驚愕で少し後ろに飛び退く。
『そんな……馬鹿な……』
「うお!? 起きたのか!?」
この場にいる者全ての視線が、一人の少女に注がれた。
それは肩で息をしながら、血塗れの制服で立ち上がるエルミラ。
治癒魔法を受けたとはいえ、左腕には依然として毒々しい傷があり、刻まれた呪法は体中を這っている。それでも、彼女は立ち上がった。
敵味方関係なく、エルミラが立ちあがったことに驚き……まるでエルミラがこの場を支配したかのようだった。
「……」
エルミラは無言で、一人の女子生徒のほうを向く。
その女子生徒は先程怯えていた中でエルミラが頭を撫で、そして今エルミラに治癒魔法をかけていた女子生徒だった。
「あ、あの……」
「ありがとう」
エルミラはお礼を言って、自分を治癒してくれていた中の一人を抱きしめる。
「違い、ます……! わたしのほうこそ……!」
そのお礼が申し訳なくて、その女子生徒から涙が零れる。
自分が動けたのはあなたのおかげだと、そう言いたいのに……声が上手く出ないほどに嬉しくて、エルミラから貰ったお礼を抱きしめるように、その女子生徒はエルミラを抱きしめ返した。
「私が守られちゃったわね」
エルミラはそう告げてその女子生徒から離れた。
「今度は約束通り……私があんたらを助けないとね」
そして驚愕するトヨヒメに向かってエルミラは歩き出す。
いくら治癒魔法をかけたからといって、ボロボロなのは変わりない。歩く度に体が軋み、折れた骨が激痛を走らせる。
それでも、エルミラの足はよどみなく前へと踏み出していた。
「ありがとう、モルグア」
「だからモルグ……! あってるな……」
歩く途中で倒れるモルグアにもお礼を告げて、エルミラはこの場にいるローチェントの生徒数十人の視線を浴びながらトヨヒメの前に躍り出る。
それは生徒達にとっての英傑の帰還。
自分達を奮い立たせた少女は生徒達の期待と羨望を受け止めてこの場に君臨する。
自分を死の間際まで追い詰め、大切な人を呪殺しようとしている怪物の目の前で――!
『不死身……ですか……?』
「なわけないでしょ。私はあんたと違って普通の人間よ」
何故立ち向かってこれる?
エルミラの体には複数の呪法が絡み合い、トヨヒメを殴ろうとしただけでも傷が開くだろう。
いやそれ以前に……目の前の少女はどう見ても体が限界を超えている。少し治癒魔法をかけられたからといって回復できる状態じゃないのは明白。
その、今すぐにでも死にそうな怪我で、何故逃げようとしない――!?
「それが私」
そんな、泥まみれで足掻く自分を少女は誇る。
それが、誇っていいことなのだと……気付かせてたくれたから。
後は、自分に足りないのは一つだけ。最後を踏み出すための、覚悟。
「私は……エルミラ・ロードピス」
言え。
ずっと言えなかったことを。
無意識に言うのを避けていた……あの言葉を。
「あんたをぶっ潰す……」
言ってしまえ。
伸ばせその手を。
足りなかった覚悟を掴め――!
「あんたをぶっ潰す……"魔法使い"よ!!」
無意味だと思っていた、無価値だと思っていた自分。
そんな自分とはもうさよならしよう。
自分に輝きを見てくれている人達のために……自分を信じてくれる大切な人達のために。
これからもずっと……自分のいたい場所にいるために――!!
「【暴走舞踏灰姫】」
踏み出す一歩を証明するように、高らかにヒールの音が鳴り響く。
普通の少女が、理想に追い付く音がした。




