419.イプセ劇場にて9
生き物が好きな女の子だった。
「ママ! うにょうにょ! うにょうにょー!」
「ま、まぁ、芋虫さんね……」
きっかけは夏にお母さんと散歩していた時に見つけた芋虫だった。
当時は気付かなかったけれど、お母さんは声を上擦らせていて……私は立ち止まって芋虫をじっと見ていた。
「く、クエンティ……芋虫さん好きなの?」
「うん! 好き! おおきくなれー! がんばれー!」
枝を一生懸命這って、葉っぱを食べる芋虫を見て喜んでいたのを覚えてる。
それからというものの色んな生き物が見たいって両親にせがんで、色々見せて貰っていた。
お父さんが帰ってきた時に貰って来た蛸が動いたことに目を輝かせて、飼う飼うなんて言っていた。
豊かでは無かったけれど、貧乏でも無かったと思う。
両親は二人とも綺麗なアッシュブラウンの髪をしていて、お父さんはちょっとごわごわでお母さんはさらさらだった。自分の髪も同じ色をしていたから嬉しかった。
「パパ! パパ!! こっちはたこさん! こっちは!?」
「こっちはイカっていうんだ。どうだ、たこさんと似てるだろ!?」
「うーん、でもたこさんよりかわいくないね」
「ええ!? き、きらいか……?」
「ううん、かっこいい!」
「そ、そうかそうか!」
「でも、たこさんのがすきー」
「そ、そうか……」
お父さんは密偵の仕事をしていたから家にいない事が多かったけれど……帰ってきてくれることが嬉しくて仕方なくて、ずっと一緒にいてくれるお母さんは大好きだった。
お父さんは私の好きなお土産や買ってきたり、近くに海が無いから海の生き物を持ってきてくれたりした。
…………お父さん、忙しかったのに。
「ママ! ママ! またいこ! おさんぽ! おさんぽ!」
「はいはい、ほら帽子被ってクエンティ。慌てなくても大丈夫よ。ほら、お弁当もちゃんと持って」
「うにょうにょさんがいっちゃうかもしれないでしょ!」
「大丈夫よ、私達は芋虫さんよりずっと足が速いんだから」
「わからないよ! うにょうにょさんだってすーぱーうにょうにょになって、びゅーんってにげちゃうかも!」
「ぶふっ! ふふ、あはははは! なあにクエンティ、すーぱーうにょうにょって!」
お母さんは料理が好きで自分達が生き物を食べるおかげで生かしてもらっていることを教えてくれた。生き物が好きな私に付き合って、一緒に林にお出掛けしてくれた。
…………お母さん、虫嫌いだったのに。
密偵の家系だから領地は無くて、貴族っぽい生活とは程遠かったけど……きっと私は愛されていたと思う。
「ママ……これなあに?」
何度目か数えきれないある散歩の日。
枝にくっついている塊を私は見つけた。
生き物みたいだけど、動かないから死んじゃってるのかと思って、ちょっと悲しくなっていた。
でも、そんな私の頭を撫でながらお母さんがすぐに教えてくれた。
「ああ、これはね……蛹っていうの」
「さなぎ?」
「ほら、クエンティが好きなうにょうにょさんがいるでしょう?」
「うん! うにょうにょ! いもむしさん!」
「それがこの蛹さんになるの」
「えー!?」
目をまん丸にして驚いた。
あのうにょうにょがかちかちにって。
「もう……うにょうにょしないの……!?」
「ええ、大人になるためにこの中で準備してるのよ。クエンティも大人になる時のために魔法のお勉強を頑張っているでしょう? 芋虫さんも同じようにこの中で大人になるための準備をしているのよ。大人になったらもううにょうにょしないの」
「そ、そう……なんだ……」
「どうかした? クエンティ?」
私はお母さんから聞いた話に不安になって、手をもじもじさせていた。
お母さんがすぐに気付いてくれたっけ。
「私も……大人になったら……むしさんとか好きなのやめたほうがいい……?」
「え? な、なんで? 急にどうしたのクエンティ?」
ママはこういう時、しゃがんで目線を合わせてくれた。
「だって……ママはむしさんにがてでしょ? たこさんも……ぬめぬめするのパパもすきじゃないみたいだし……大人になったら好きじゃなくなるほうがいいのかなって……いもむしさんも大人になったらうにょうにょしないんでしょ……?」
好きなものを好きでい続けてはいけないのかと不安になっていた。
当時の私は芋虫が好きでうにょうにょしていたのだと思っていたらしい。
そんな子供の疑問をお母さんは笑い飛ばす事無く、優しく私に諭してくれた。
「何言ってるの。芋虫さんはうにょうにょする必要が無くなるからうにょうにょしないだけよ。あなたが大人になったからって好きなものを変える必要は無いし、私達が虫が苦手だからってあなたもそうなる必要は無いの。お母さんとあなたは家族だけど、違う人なんだから」
「ちがうひと……?」
「そう、色んな人がいるからいいの。私みたいに虫が嫌いな人もいればあなたみたいに虫が好きな子もいる。どんな人になるかはみんな自由なの」
そう言うと、お母さんは私を蛹のほうに向かせて、背中から抱き締めてくれた。
「あなたがどんなに大きくなっても、大人になっても……好きなものは好きなままでいいの。逆に嫌いになったっていいわ。あなたが大人になるまでに知る全部があなたを作り上げてくれる。変わるのもそのままなのも全部自由。自分がなりたい自分はあなたが決めていいのよ」
「じゆう……?」
「そう、あなたがどんなに変わっても……あなたはあなたよ。忘れないでクエンティ、あなたはお母さんとは違う人になる。ううん、他の誰でもない人になる。どんな蝶々さんになるかはあなた次第よ」
「ちょうちょって……?」
「ああ、そっか。芋虫さんが大人になったら蝶々さんになるのよ」
お母さんは私に優しく笑って、蝶々が飛べることを教えてくれた。
うにょうにょしていた芋虫が蝶々になったら飛べるようになるって知って私は――生き物は何にだってなれるんだって思ったんだ。
この時、お母さんが私に教えてくれたから。大人のなり方を教えてくれたから。
(私は……私……)
子供だった私にはよくわからなかったけれど……きっと大事な言葉だった。
だって、死にかけてる今になって思い出すことなんだもの。
どれだけ変わっても、私は私だって。ずっと昔からお母さんは言ってくれてた。
「国のためじゃなくて、誰かのために頑張りなさい」
お母さんがダブラマに行くことが決まった夜も……お母さんは最後まで私に教えてくれた。
暖炉の前で、身を寄せ合って、寒い日の夜だったけれどずっとずっと温かった。ここにお父さんがいたらどれだけよかっただろうと思いながら私とお母さんはずっと手を繋いで抱き締め合っていた。
「いいの、お母さん? カンパトーレの魔法使いがそんな事言って……」
「いいのよ。国なんておっきなものを見続けてると……近くにあるものが見えなくなったり、どこからか来た幸運を見過ごしてしまうかもしれない。だから、カンパトーレで魔法使いになったからって必ずしもカンパトーレのためにって義務感で頑張る必要はないわ。でも、あなたがこの国を好きになって、守りたいって思えたら……それを全力で頑張りなさい」
「私、この国嫌い。他国から逃げて来たのに偉そうな顔してる人ばっか」
私が成長して血統魔法を継げる歳になってから少しした時のこと。私が自分の家が他の家に蔑まれていると気付いたくらいの頃だった。
密偵の家系だからと、アコプリス家はずっと他の貴族から馬鹿にされてきたらしい。
そんなこと私はずっと気付いていなくて、お母さんもお父さんもそんな風に言われているとは思えないほど明るく振舞っていたから。
「そう、あなたが嫌いならそれでもいいのよ。あなたの幸せのなり方はあなたが決めるの。離れていても私達はずっと、あなたを見ていてあげる。あなたがずっと自分を好きでいられるように」
「お母さん……」
「忘れないでクエンティ。あなたはなんにだってなれる。私達より才能がある凄い子だから。でも、いつだって私達のクエンティよ。他の誰でも無い、いつだって私達が愛しているクエンティなんだから」
覚えてる。お母さんが撫でてくれた髪。
覚えてる。お父さんの瞳の中にあった私の顔。
覚えてる。二人と抱き合った私の体。
ああ、捨てただなんて嘘だ。
ただ……忘れていただけ。
私はずるい子だから。弱い子だから。
お父さんとお母さんが死んだことが悲しくて、悲しくて、悲しくて――!
だから、お父さんとお母さんと一緒に過ごしていた……私自身の体を記憶の中に置いていっただけだった。
我武者羅に頑張って二人との日々を忘れるように、私は自分の体を忘却していただけなんだ。
(ああ、駄目だ)
ここで死んだらきっと後悔する。
「止まった……?」
「わからん……」
のたうち回っていた大百足の体が止まる。
クエンティの体の変身が止まる。
不気味な静寂が続き、アルムとベネッタの二人は息を呑んだ。
『流石は儂の星……再会はまたの機会にしておこう』
呟きは呪いの発する別れ。
ボロボロと古い外壁のように大百足の体は崩れていき、劇場に降り立とうとしていた伝承が崩壊した。
「あ、アルムくん!」
「ああ!」
「はっ……! はっ……! はっ……!」
瓦礫と座席の木片でぐちゃぐちゃになった客席に、一人の少女が落ちる。
見た目はアルム達と同じくらいの年齢だろうか。アッシュブラウンの髪が流れるように舞う。
客席に落ちた少女はその体を起き上がらせたと思うと、その場に座り込む。
少女は悪夢から醒めたことを喜ぶように震えている自分の手を見つめ、そして自分の体の至るところをぺたぺたと触れていた。
「生き、て……生きて……!」
息は荒いが、体中に走る激痛は無く、頭の中をぐちゃぐちゃにする声も無い。
勝手に体が変身する感覚も消え、自分を証明する記憶もそのまま。
脳内にしみ込んだ光景はいつの間にか消えている。
自分が何も失っていないことに気付いた少女――クエンティは恐怖から解放された。
そんなクエンティにアルムとベネッタは駆け寄る。
「クエンティ!」
「あ……あ……」
アルムがクエンティのそばでしゃがみ、座り込んだクエンティと同じ目線になってから名前を呼ぶと……クエンティの目から涙がボロボロと流れていく。
死に纏わりつかれていた恐怖からのものではなく、自分が誰かに名前を呼ばれ、この世に生きているという事を実感した心の底からの安堵だった。
「わたし……クエンティ……?」
クエンティは自分の名前を確認する。
両親が付けてくれた、自分の名前。
「ああ、そうだろ?」
「わたし、わたし……クエンティだよね……?」
震える体は誰かに繋ぎ止めてもらいたがっている。
もう一度、クエンティはアルムに問いかけた。
「そうだ。ここで自己紹介しただろう、クエンティ」
「ふっ……っう……! ふ……! う……うえええええん!!」
両手を大きく広げ、クエンティはアルムへと抱き着く。
自分の存在をアルムを通じて感じ取るように強く、強く……子供のように泣きながらアルムを抱きしめて離さない。
先程まで敵同士。一瞬アルムは警戒するが、クエンティにもう敵意が無いことは誰にでもわかった。
なにより、体を震わせて泣いている今のクエンティを引きはがすのはあまりに残酷なことだろうと受け入れる。
「大丈夫。大丈夫だよ」
「ひぐっ……ごわ、ごわがっだ……! ごわがっ、たの……!」
「ああ、頑張ったなクエンティ」
「ふっ……うう……! うえええええええ!」
涙と鼻水で濡れていく制服など気にすることなく、アルムはされるがままにクエンティに体を貸し、安心させるようにその背中を撫でてやった。
「ベネッタもよく付き合ってくれた、ありがとう」
「ふう……ひやひやしっぱなしだったよー……」
自分のやる事を見守ってくれたベネッタに礼を言いながら、アルムはクエンティを落ち着かせるように頭や背中を撫で続ける。
破壊されつくした劇場に訪れる決着。
少女の泣く声は劇場を満たすまでずっとずっと響いていた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
ここで一区切りになります。
『ちょっとした小ネタ』
クエンティが体を捨てたのは十七歳の頃なので、最後は記憶の中にある当時の体になっています。
他にもよく変身するものは両親との思い出から無意識に引っ張り出してたりします。




