393.イプセ劇場にて5
「肉体なんて固定してたら邪魔なだけだもの。魂だけを固定すればほら……私達はもっと自由になれるのよ」
今度の変化は手足ではなく背中だった。クエンティの背中から巨大な翼が生える。
鳥のような柔らかさはそこから感じられない。硬質化し、一枚一枚が刃のように光る羽根を持つその翼をクエンティは羽ばたかせた。
「ぐっ……! なんでもありか……!」
羽ばたき一つで射出される羽根の刃。
飛んでくる羽根をアルムは必死に両手の爪で弾く。防ぎぎれない刃はアルムの皮膚を僅かにかする。
絶えず鳴り響く金属音。ひび割れる自身の魔法。"変換"を続けて『幻獣刻印』の"現実への影響力"を上げ続けてはいるが、まだクエンティの魔法には追い付かない。
「ほら、よく言うでしょう? 大切なのは中身だって、ね?」
肉を引き裂くような音とともに、クエンティの輪郭が再び溶ける。
注視しても、次の瞬間にはクエンティの姿は別の誰か、もしくは何かに変わっている。
瞬きすら迂闊になりかねない。すればその瞬間に何度クエンティは姿を変える事ができるのか。姿どころか見失ってもおかしくない。
アルムが厄介だと断じたのは変身の多様さではなく、その変身の速度だった。
クエンティが能力を見せた時、クエンティがサンベリーナに変わった瞬間が本当に一瞬だったことにアルムは気付いた。
そこに、制約を無視する自由な変身能力が加われば……次にどの姿に変わっているかわからない恐怖と圧力を生む。
たかが変身……されど変身。
クエンティは自身の血統魔法を何段階も上のステージへと引き上げている。
「私は私をこれ以上無いほどに信じている。ならば、肉体を枷にする必要なんて私には無い。私の魂は間違いなくこの世界にある」
顔は狼のような魔獣に、右腕は巨大な刃。両足は再び蛸の触手のように這い、バルコニー席を呑み込む。
変わる体。変わらぬ自己。
その魂だけで自身の存在を確固たるものにする姿は確かに、クエンティ・アコプリスという存在をこれ以上無いほどに主張している。
「信仰、属性か――!」
「当たり」
横から振るわれた刃となった右腕を防いだその瞬間に触手に巻き付かれるアルム。
圧倒的な手数にアルムの対応が追い付かない。血統魔法によって自由に変えられる姿は魔法の"放出"のために唱える必要すらなく、暴力的な変身の手数によって畳み掛けられる。
「アルム!」
「全身の骨を折ってあなたも自由にしてあげる。ほんの少しね」
触手に込められる怪力。
万力のようにアルムの体がしめあげられていくが――
「待たせたな」
一閃とともにアルムを締めあげようとしていた触手は斬り刻まれる。
切断面から蛸にはない赤い血が噴き出した。
アルムの手足には煌々と輝く獣の爪。体中に刻まれた魔法式が白い魔力が光を帯び、"現実への影響力"が一定の領域まで高まったのがわかる。
「あら、思ったより早い――?」
「これでようやくいける」
間をおかずに、アルムはバルコニーの床を踏み砕くほど強く床を蹴り、触手を斬り刻みながらクエンティへと接近する。
狂暴化の魔法ゆえに制御できないその突進は単調ではあるものの、その単調さこそがこの魔法における武器。
通常の人間では反応できないほどの速度、生半可な魔法では止められない爪の斬撃。膨大な魔力によって実現しているその"現実への影響力"は地上を走る隕石のように光り輝く。
劇場内に放たれる一筋の光は空気を切り裂き、この場に恐怖をもたらす元凶にその爪を届かせようと駆ける。
「やっぱりそれが一番厄介!」
高速で懐に入るアルムに反応し、クエンティは右腕の刃を振り下ろす。『幻獣刻印』に対応できるクエンティの体がとっくに人間を越えている。
右腕の刃をアルムの爪が引き裂く間に、クエンティの左腕は血で染まった一メートルはあろうかという鋏へと変わった。
「っ――!」
そのままアルムの首を狙い掛けるが――鋏と変わったクエンティの左腕はその刃を閉じることなく止まる。
クエンティはアルムを殺せない。許されているのは、戦闘不能の状態にまで壊すことだけだった。
「……?」
今まで淀みのなかったクエンティの挙動が一瞬ぶれた事にアルムも気付く。
たとえ鋏が閉じようとしても防ぐ算段はあったものの、あまりにタイミングがおかしい。
(一撃で――落とす)
だが、そんな事を理由に攻撃を止めることはない。否、止められない。
この相手に時間を与えてはいけないとアルムは判断している。
瞬時の変身速度と自由自在の変身能力。時間を与えれば与えるだけクエンティの思考とイメージによって選択肢が増す。
ならば――速やかに。そして一撃で。
凍り付いたように止まった鋏の両刃を弾き、異形に変身していない体へと爪を向けた。
三本の爪がもたらす殺意の光がクエンティへと振り下ろされる――!
「――え?」
まるで空を斬ったような手応えのない感覚。
ばしゃ、っという音と共に、アルムの目の前で引き裂かれるはずのクエンティの体が消えた。
あれだけ巨大な鋏も刃も、バルコニーを這っていた触手もない。
悪い夢であったかのように……滅茶苦茶になったバルコニーにアルムだけが立っていた。
「何処に……!」
アルムは周囲にある壊れた椅子を警戒する。
あれだけ自由に、そして瞬時に変身できるというのなら椅子に変身して隠れるなんて芸当ができてもおかしくない。
両手の爪が近くの椅子全てを引き裂くが、その手応えはやはり椅子そのもの。
床か?
アルムの視線が下に向くと、ぱしゃ、と自分の両足が水を弾いた。
「違う――!」
アルムは急いで白い爪を床に突き立てる。
狙いは床では無く水。先程クエンティに振るった手応えの無い一撃と音がアルムを答えに辿り着かせた。
だが、クエンティが水に変身したと気付いた時にはもう遅い。
アルムが引き裂いたのはクエンティではなく、水に変身したクエンティの流血。
すでにそこにクエンティの本体はいなかった。
「ごめんなさいね、できれば今日戦闘不能にしてあげたかったけど……やっぱりあなたみたいに素敵な人相手だと難しいみたい」
劇場に声が響き、正確な位置が掴めない。
どれだけ周囲を見てもクエンティの姿はなく、ただ声だけが不気味にアルムに届いていた。
「流石はカンパトーレを支配していた大嶽丸を倒した平民……私も甘く見ていたわね」
「何処だ……!」
「くっ……! 感知魔法に堂々と引っ掛かっているというのに……!」
確かにいるはずなのに目視もできず、ファニアの感知魔法によって存在は確認できているがどこにいるのかはわからない。
残っていた客は全員劇場を出ており、劇場に残っているのはアルムとファニアの二人だけ。だが、声だけは確かに三つあった。
「また会いましょう。最後に聞くけど、私の恋人になる気はない?」
「断る」
「フフッ! 残念ね。気が変わったならいつでも歓迎するわ。あなたの居場所は私が責任をもって用意してあげる……私の故郷カンパトーレにね」
それを最後に、クエンティの声は聞こえなくなる。
だが、本当に消えたのかすらもアルムには判断がつかない。
本当に去ったのか? それとも奇襲を狙っているのか?
クエンティが存在するというだけで、その二択の判断に思考を奪われる。
「……どうやら本当に去ったみたいだな」
しばらく警戒を続けていると、ファニアが安堵したように息を吐く。
どうやらイプセ劇場に張り巡らせていた感知魔法から反応が消えたらしい。
「そのようですね」
アルムの立つ床の水も、白い爪から滴る水滴も赤黒く変色していく。
水から血へと戻ったということは、魔法そのものを解いたということだろう。
「戦いにくい相手だな……」
まるで魔法生命と戦う時のような疲労がアルムを襲った。
魔法生命のような圧倒的な力ではない。ただひたすらに厄介だと舌打ちしたくなるような相手だった。
「宿に戻るぞ。カンパトーレが関わってくるとなれば……陛下に連絡しなければ」
「はい」
「私は劇場の職員に説明してくる。事後処理はディーマ殿がしてくれるだろう。アルムも早く魔法を解け」
ファニアの言葉にぎくり、と心の声が漏れる。
アルムは気まずそうに明後日の方向を見つめながら、立ち尽くしていた。
「どうしたアルム? 傷が痛むのか?」
「あ、いや、その……もうしばらく待ってもらっていいですか。戦う時間が短かったので普段よりは早いと思うので……」
「何を言っている。いいから早く魔法を解け。安心していい、少なくともクエンティは去っている」
「そう、なんですけど……そのですね……」
周囲の物を壊さないよう一歩も動かず、アルムは言いにそうな前置きをしてから『幻獣刻印』の欠点を話す。
ファニアは「な、なんだそれは……」と呆れながら……アルムの魔法が解けるのを一緒に待つことになる。
「お前といいクエンティといい……極端な奴らしかいないのか……」
「お手数かけます……」
いつも読んでくださってありがとうございます。
ここからバルコニーをこれ以上壊さないよう五分くらい棒立ちし続けました。




