381.貴族の名前
「はぁ……」
心休まるであろう自宅で好きな紅茶を飲んでいるというのに、ミスティからは憂鬱なため息が漏れた。
ソファの上で物憂げな雰囲気を漂わせるそんな姿は、そのまま絵画に出来るほどに文字通り絵になっている。
「ミスティ……大丈夫か?」
対面に座るアルムはミスティが肩を落とす様子を見かねて問いかけた。
「大丈夫ではありません……せっかく帰郷期間はアルムと羽根を伸ばせるかと思っていましたのに……まさかこんな命令がアルム達に下るなんて……」
「まだ行けないと決まったわけではないし……行けなくてもこればかりは仕方ないだろう」
アルムの物言いに、むっ、とミスティは表情を変える。
「アルムは仕方ないですませてしまわれるんですね……」
「え? いや、そうとしか言えないだろう。事情も事情だし、魔法生命に関することなら何度も接触している俺達が適任なのは間違いない」
「そういうことを言いたいのではありませんわ……せっかく、服も新調しましたのに……」
「服……? それならまた別の機会に着てもいいんじゃないか?」
急に服のことを話し始めたミスティにアルムは首を傾げた。
良くも悪くも……言葉を表面上だけで受け取ってしまうのがアルムという少年だった。今回はそれが悪い方向に働いてしまったようである。
かちゃん、とティーカップがソーサーに置かれた音が部屋に響いた。それは小さな音だったが、普段そんな音すらほとんど立てないミスティがその音を立てたせいか妙な迫力がある。
「アルムはわかっておりません! アルムと約束してから私がどれだけ楽しみにしていたか!」
「み、ミスティ……?」
「私がお誘いしたのですから、アルムと私の期待は確かに違うのかもしれません。けれど、仕方ないで済ませられるほどの事だったのでしょうか……? アルムは、楽しみではなかったですか……?」
「いや、ま、待ってくれ。違う。勿論俺だって楽しみにしてる。俺が言いたいのはそういう事じゃなくて……」
そんな二人を横で見守るルクス、エルミラ、ベネッタの三人。
アルムとミスティの言い合い……にもなっていないが、間に入ることも無く二人を静観し続けている。
「おー……これが痴話喧嘩ってやつー?」
「これは止めなくていいやつでいいんだよね?」
「いいでしょ別に。傍から見たらこんなんただいちゃいちゃしてるだけにしか見えないし……幸せそうな喧嘩だもの」
「ちなみに……この喧嘩、悪いのどっちだと思う?」
中々無い機会なので、参考がてらルクスは女性であるエルミラとベネッタに聞くと、
「アルム」
「アルムくん」
「ああ、やっぱりそうだよね……」
二人とも間を置く事無く即答した。
薄々ルクスもそう思っていたようで、自然とやっぱり、という言葉が出てきていた。
「まぁ、アルムとミスティは置いておいて……ダンロード領ってどんなとこかわかる?」
「ローチェント魔法学院があるね」
「ああ、そういえばそうね。あそこって霊脈は?」
「あるね」
「じゃあそこも調べなきゃか……」
マナリルには三つの魔法使い教育機関が存在する。
一つはマナリル有数の教育機関であり魔法儀式と実地での実戦経験を積ませ続ける事で、卒業まで生き残った者は例外無く一線級の魔法使いとされるベラルタ魔法学院。
二つ目は王都にある少数精鋭で感知魔法が必須である宮廷魔法使いの育成を行う教育機関デュカス。
そして三つ目がダンロード領にあるローチェント魔法学院である。ローチェント魔法学院は通常の教育のように魔石研究や魔獣の生態学、魔力学などの貴族向けの授業が行われており、魔法使いとしての才能が乏しくとも魔法を活かせるような幅広い教育を施している学院だ。
「そういえばベネッタは何でベラルタにしたんだい? 治癒魔導士志望ならローチェントのほうがいい気はするけど?」
「治癒魔導士だからってただ治せるだけだと駄目だなー、って思ってたから、魔法使いとしての経験も積めるベラルタにしたかったの。自分の身は自分で守れるくらいの実力はつけておかないとってー」
「じゃあ狙い通りだね。ベネッタが魔法使いとしても優秀なのは言うまでもないわけだし」
「え、えー? ルクスくんみたいな強い人に褒められると照れるなー……」
本当に嬉しかったのか、ベネッタはこそばゆそうに身をよじらせながら口をにやにやとさせている。
「ローチェント魔法学院には南部以外の貴族も入っていいわけ?」
「いや、四大貴族とか一部の上級貴族はダンロードの庭の規定があるから無理だね。そもそもローチェントに行くべきじゃないし」
「そりゃそうか。本来は下級貴族や私みたいな没落貴族とかが魔法使い以外になるために行くとこだもんね」
「エルミラはベラルタで正解だったけどね」
「……そりゃ私だからね。当然よ」
何故か、笑い掛けてくるルクスのほうをエルミラは向けなかった。
今朝見てしまった夢のせいだろうか、少しだけ自分が揺らいでいるような気がする。まるで蝋燭の火のように。
「ベラルタ以外の魔法学院は私も興味がありますね」
「あ、終わったのミスティ?」
「その、一応は……終わりました……」
少し言葉を詰まらせたエルミラの間を埋めるようにミスティが会話へと入ってきた。
拗ねたような表情のままな辺り、和解とまではいかなかったらしい。
当のアルムは腕を組み、首を傾げながら何かを考え込んでいる。彼が女心を少しでもわかる日は果たしてくるのだろうか、とエルミラとベネッタは少し心配になった。
「ええと……南部にはベラルタ以外の魔法学院があるのか?」
「うん、こことは方針が違うけどね」
アルムとミスティの痴話喧嘩(?)は一先ず終わったため、アルムも話に参加する。
元より、今日ミスティの家に集まったのはマナリルについての知識が比較的乏しいアルムのためだった。
「本当は私達も着いていきたいですが……私とルクスさんは三人のお土産話をお待ちしましょうか」
「そうだね、ダンロードの庭は普通の町ですらしっかり名前確認するからこっそり入るのすら難しいし……今回は我慢しないといけないね」
「名前を確認……偽名使ったりしたら感知魔法とかでばれるのか?」
アルムが素朴な疑問を口にすると、ミスティ達四人は驚いたようにアルムのほうを向いていた。
何故そんなに驚かれているのかがアルムにはよくわからない。
「な、何か変なことを言ったか?」
「いや、そうか……アルムは平民だからそういう発想も出てくるのか……」
感心するようにルクスは独り言のように呟く。
そんなに驚くほどの発想だっただろうか、とアルムは不思議に思う。
「平民か貴族かが関係あるのか?」
「あるのよ。貴族だったら偽名なんて発想はまず出てこないもの」
エルミラが言うと、ベネッタも頷いている。
ミスティはわざとらしく咳払いをすると、この場で唯一わかっていないアルムに貴族ならではの常識を教え始める。
「アルム、私達貴族は偽名を使えません……というよりは使ってしまうと貴族として終わってしまうんですよ」
「どういう意味だ?」
「貴族が名を偽るというのはその血筋に連なる自身の否定そのものなんです。偽名を名乗り続けたりするのは私がミスティ・トランス・カエシウスであることを放棄したということ……つまりミスティ・トランス・カエシウスという私が継承した血統魔法を放棄するのと同義なんです」
「放棄……つまり、血統魔法を使えなくなるってことか!?」
「はい、なので貴族は偽名が使えないんです。意図的に家名を名乗らなかったりすることはできますが……基本的に名前が変わるのは家名が変わる時だけですわ。その家名も変わってしまえば以前の血統魔法は使えなくなってしまいます」
それなら偽名を使うなんて発想が出てくるはずがない、とアルムは納得する。
血統魔法。それはその貴族の血筋が積み上げた歴史そのものに等しく、家名の象徴であるのと同時に、通常の魔法とは一線を画す魔法使いとしての切り札でもある。
偽名を名乗り続ける代わりに失うものとしてはあまりに大きすぎる代償だ。
「一時しのぎのためだけに血統魔法を放棄するのは割に合わないからね……今回の件も南部に行くために血統魔法を失ったらそれこそ意味がない」
「そりゃそうだ……なるほどな……ダンロードの庭っていうのは基本的に四大貴族や上級貴族が引っ掛かるやつだから名前さえ聞けば感知魔法を使うまでも無いってことか……」
納得するように何度も頷くアルム。
アルム自身には縁の無い制約ではあるが、貴族特有の魔法事情に興味は沸いているようだった。
「まぁ、私やルクスさんはほとんどの貴族に顔を知られてしまっていますし……たとえ偽名を使えたところですぐにばれてしまうでしょうね。そうなったらいらないトラブルを作ってしまうことになりますので、今回は大人しくお留守番させて頂きます」
「わかってはいたが……貴族も大変なんだな……」
「……そうね」
ぼやくアルムに、エルミラは無意識に頷いていた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
血統魔法は名前との結び付きが強いというのは所々のお話でふんわりわかって頂けたと思いますが、しっかり言及したのは初めてか二回目くらいでしょうか?
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