366.忘却のオプタティオ7
『浅いな……止めを……』
「師匠っ!」
「おい! っ!」
飛び出していた。
ここが山々を俯瞰できる空だという事も忘れて一心不乱に、アルムは堕ちる師の下に駆け付けんと巨鳥の背から跳んでいた。
赤い血と白い羽根、そして師と弟子が橙色の空を舞う。
「ちっ!」
ヴァルフトは血統魔法を操り、出来得る限り近付いてアルムの無謀な跳躍を支援する。
同時に、諸悪の根源である敵にも近付いた。
「ベネッタ! 私と一緒に!!」
「うん!」
ミスティとベネッタがそれに続いて空に身を放り投げる。ベネッタはミスティにしがみつき、ミスティは空中で魔法を使って勢いを殺しながらアルム達の下へと向かった
転落死を感じさせる高さなど彼女達には関係無い。自分達がやるべき事を選択して、迷わず行動に移した。
――初めて聞いた、アルムの泣き出しそうな声。
あれを聞かされて、奮起しないほど……ミスティ達とアルムの距離は遠くない。
『かっかっか! させぬわ! その背中――』
「【雷光の巨人】!」
「【暴走舞踏灰姫】!」
橙色の空にルクスとエルミラの血統魔法が響き渡る。
巨人の形で顕現する雷。そして使い手を着飾る灰のドレス。
唱えた二人の使い手の形相は炎のような怒りに燃え、その瞳は雷が如く敵を刺す。
『ほう?』
ヴァルフトの操る白い巨鳥がアルム達が落ちていった山と大嶽丸の間に入った。
巨鳥の背に乗るルクスとエルミラが悪鬼を前に立ち塞がる。
『かっかっか! どこまでも余の道を阻むか!? 異界の人間達よ!!』
大嶽丸は昂り、享楽の声を上げた。
これ以上無いタイミングで師匠と呼ばれていた女を切り裂けた事を、目の前の人間達の表情から実感して歓喜する。
これこそが人間の敵。これこそが悪鬼。これこそが大嶽丸。
これこそが余であると、夕暮れを浴びながら高らかに鬼は悪辣を誇った。
「ここから先は!!」
「神様だって通すものかぁ!!」
ルクスとエルミラは枯れんばかりの声で敵対を宣言する。
絶対に通さない。
ここだけは通せない。
この鬼がたとえ何者であったとしても――アルムとその大切な人が交わす時間を邪魔させてなるものか!!
「師匠……!」
見た事の無い師匠の体を抱きかかえながら、アルムは呼び掛ける。
白い翼、山羊のような角、いつも持っている杖は剣に変わっていて、瞳も白く変わっている。
人型でありながら明らかに人間と違う容姿だったが、そんな事はどうでもよかった。
『ああ……びっくりさせて、しまったね……いつもと姿が違うから……服で隠れてしまっているけれど、尻尾もあったりするんだよ、ほら見てごらん』
口からは血を流し、白い装束は真っ赤に染めているとは思えないほど穏やかな口調だった。
動かしたのか、裾の下から白い尻尾が出てくる。
その尻尾はまるで子供をあやすかのように、色々な動きを繰り返していた。
『今まで黙っていてすまない……けれど、言うタイミングもわからなくてね……』
「師匠……喋らないでいい……!」
『いいや、喋らないと駄目なんだ……私は、君の師匠だから……』
アルムの頬に一筋の涙が流れる。
師匠はその涙にゆっくりと手を伸ばして、涙を拭った。
「アルム!」
「アルムくん!」
そこに後から飛び出してきたミスティとベネッタが駆け付ける。
空中と着地の時に水のクッションを作って衝撃を和らげたのか、少し制服が濡れていた。
「ミスティ……ベネッタ……!」
「ボクに任せて! 今すぐ――!」
『いや、魔力の無駄だ……しなくていい……』
「し、師匠さんですよねー!? ボク、ベネッタっていいます! 治癒魔法を使えますから!」
自己紹介とともに治癒魔法を使えることをベネッタは伝えるも、師匠はゆっくり首を振った。
『その様子だと……私が魔法生命だというのは薄々勘付いていたようだね……なら、意味が無いこともわかるだろう? 私はもう核を傷つけられた……魔法生命の核に……治癒魔法は効かない……体を、治せても私はこのまま消えていく……』
「そ、そんな……!」
『気にするな。元々、数日程の命だったんだ……私の宿主は死体でね、大分前に魔力の補充をやめてから……ゆっくりと死に向かっていくのはわかっていた。ほんの少し、早まっただけ……さ……』
「……『治癒の加護』」
そんな師匠の言葉を無視して、ベネッタは師匠に治癒魔法をかける。
『お、おい……君……』
「これで、痛く……ありませんか?」
『え……』
ベネッタはポロポロと涙を流し始めていた。
言われて、師匠は自分の体の痛みが和らいでいることに気付く。魔法生命として変化している部分は治癒魔法の"現実への影響力"を受けなかったが、宿主の体だけは傷が塞がっていた。
たとえ、このまま死んでいくのだとしても……痛みをそのままにしていい理由にはならない。
友達の恩人の痛みを少しでも。その一心でベネッタは治癒魔法を師匠にかけた。
せめて、痛みなく……アルムとの会話が出来るようにと。
『優しい友人を持ったね……アルム……』
「ああ……」
『それに、王都であったお嬢さんも……』
「はい……ミスティといいます。師匠さん」
『ああ、君がカエシウスの……こんな美人がアルムの友人とは……』
「アルムさんに命を救われました。あなたが……アルムさんに魔法を教えて私と会わせてくださったおかげです」
ミスティは地面に膝をつくと師匠の手を握り、伝えたかったお礼を口にする。
その真正面からの礼の言葉に師匠は照れくさそうに笑った。
『やめてくれ……アルムのことを褒められると……くすぐったい』
そのまま、師匠は空を見る。
空には大嶽丸を食い止めているルクスとエルミラ。ルクスは巨人の形となっている雷に乗って、空を飛べないエルミラはヴァルフトのサポートを受けながら戦っている。
『上の子達も友達かな……』
「ああ……そうだよ……!」
『あの歳で……あの悪鬼と戦いになっているとは……』
釣られて、アルムも空を見る。
しかし……その視線はルクスとエルミラではなく、大嶽丸に向けられていた。
「――っ!」
ぎりっ、と歯を鳴らす。
師匠を。自分のかけがえのない恩人を。自分が憧れ焦がれた人を傷つけた巨悪が空で笑っている。
自らの欲望で他者に心を踏み荒らす者が悦に浸っている。
何故?
対立ではなく、許容できない。
心の中で知らない感情が黒く渦巻く。瞳に怒りと似て非なる黒いものが宿る。
見上げた広い空の中で、大嶽丸の姿だけをアルムは睨み続けていた。
大嶽丸を見続けるだけで、渦巻く何かが膨れ上がっていく。
黒く。
黒く。
――黒く。
氾濫した川のような荒れ狂う激情がアルムを染めようとする時――。
『私を見るんだ。アルム』
師匠の声が耳に届く。
その声にアルムは空から……大嶽丸から視線を外して師匠を見た。
真っ白な装束に身を包んだ師匠を。
魔法生命の姿を保てなくなってきたのか、白い翼も、山羊のような角も薄っすらと消えかけていた。
『アルム……君はそれで戦ってはいけない』
胸中を見透かされたような言葉だった。
アルムの中で膨れ上がる、アルム自身も知らない黒い感情を師匠は知っているように語りかける。
『君はそれで戦っても、何も得られない。それは君の道じゃない』
「俺……の……?」
『そうだ。君はずっと……君の道を走ってきただろう?』
微笑む師匠の表情は温かかった。
もうすぐ日が落ちるというのに、まるでこの場所だけが陽だまりのような。
『真っ直ぐ、君はその道を行くべき子だ……立ち止まったっていい、走らなくたっていい。それでも……道をそれたら君が君ではなくなってしまう』
師匠が何を話しているのかが、ようやくアルムにもわかった。
教えてくれている。
師匠は師匠だから。アルムという少年の師匠だから。
死がそこまで迫っていても、師匠はその在り方を選んでいる。
きっとそれが、師匠が在りたかった自分。
『思い出したまえ、君は私と初めて会った日に……私を信じた。嘘で夢を壊されたはずの君は私の言葉を嘘だと断じたってよかったんだ。だって恐かったはずだ、また嘘をつかれているのではと思って当然だったから。それでも、君はそうしなかった……。傍から見れば愚かな選択だったかもしれない。けれど、それでも君は君が歩きたかった道をちゃんと選んでいた。君は小さい時からずっと……自分の道を選び続けているんだよアルム』
「師匠……」
『君はこれからもずっと……自分の道を歩いていく。だから、"憎しみ"なんかに囚われる必要なんか無い。そんな暗い感情で別の道に行く必要は無い』
アルムの中に膨れ上がっている感情を師匠は当てる。
今まで知らなかった負の感情。心で渦巻いている全てを空で笑うあの悪鬼にぶつけたい。
怒りによる対立ではなく、ただ在る事が許せない。
『あんなのに君の未来にケチをつけさせるな。怒るのはいいが、憎む必要は無い。思い出せアルム……君が何になりたかったのかを。君はあんな奴のために、自分の在り方を変えてしまうのかい?』
声が溶けていく。
思い出せ。自分は何になりたかったのか。
『思い出せアルム。君が何に憧れた?』
憧れたのは本の中で描かれる魔法使い達。
そして、目の前にいる大切な人。
『周りを見てごらんアルム……君の周りには誰がいる?』
言われて、一歩引いた位置で心配そうに見つめるベネッタを見た。
師匠のために泣いてくれている。
次に空で戦うルクスとエルミラを。
自分のために怒って、戦ってくれている。
最後にミスティを見た。
自分と師匠のために、何も言わずに寄り添ってくれている。
『周りを見渡してごらん。君が出会った人達の事。君を助けてくれる人達はいないかい?』
アルムの脳裏に浮かぶのはベラルタ魔法学院に通い始めてから出会った人達。
ガザスまで来てくれたシラツユにラーディス、ネロエラにフロリア、ロベリアにライラック。
王都シャファクで一緒に戦ったサンベリーナやフラフィネ、それにここまで連れてきてくれたヴァルフト。住民を避難させているヴァン先生だって。
もう……師匠とシスターしか周りにいない人生はとっくの昔に終わっていて。
自分の周りには何故か、自分や自分の大切な人を助けてくれる人がこんなにもいっぱいいる。
隣を見れば、絶対に誰かがいてくれる。
『思い浮かべられたのなら、それが君がずっと自分の道を歩いて来た証明だ。君の在り方は純粋で他の誰かにとって眩しくて……思わず手を伸ばしたくなるようなほどに真っ白に輝いているから』
「白……?」
『そう……私もそんな君だから、本気で君を助けたくなったんだ。君の願いを叶えたくなったんだ。君の在り方があまりに純粋で、師匠と呼んでくれる君が愛しかったから。私の願いは、君が魔法使いになることだ。私の仇をとってもらうことじゃない』
白い翼も山羊のような角も消え、眼球や瞳の色も元に戻る。
だが、語り合うアルムも師匠も互いの声に耳を傾けていて外見の変化などどうでもよかった。
師匠が見ているのはアルムで、アルムが見ているのは師匠だという事は変わらない。
「だから、君は君のまま……動きなさい」
師匠はそう言って空を仰ぐ。
アルムも空を見た。大嶽丸の姿が目に入る。
けれど今度は……大嶽丸と戦っているルクス達のほうに目がいった。
「アルム、君は何のために戦いたかった?」
「……誰かを、守るために」
「アルム、君は何のために戦ってきた?」
「誰かを救うために……!」
「アルム。君は……何のために、ここを出た?」
「"魔法使い"に……なるために!!」
もう問いはいらなかった。
ここに戻ってきたのは、この場所を守るため。
大切な故郷を。大切な人を。大切な思い出を。自分の原点が刻まれているこの場所を。
そう、決して仇をとるために戻ってきたんじゃない。
自分の在り方。自分のなりたいもの。
魔法を駆使して戦い、守り、救う"魔法使い"としてここに来た!
「そう、君ならなれる。出来損ないだった頃からずっと真っ直ぐだった君なら。たとえ……世界中の誰もが否定したって……君はずっとそうだったから」
アルムの中に渦巻いていた黒い感情は自分の中にずっとあった輝きによって消えていく。
瞳に宿る意志から濁りは消え、見つめる先は大嶽丸ではなく自分の歩むべき道。
そんなアルムの姿に師匠は安堵して。
「さあアルム……私の願いを叶えておくれ」
魔法使いアルムを送り出す。
夕日が落ちる。闇が訪れる。
それでもここには、決して忘れない白い光がある。




