363.忘却のオプタティオ4
私は本の上のインクだった。
サルガタナスという悪魔はありふれた人間が想像した空想に過ぎない。
その存在は透明になる事で人の目を欺き、私の前では部屋の鍵など意味をなさず、秘めた本心を暴き、そして……記憶を忘却する。古代の王が契約していた悪魔。
ああ、こんな悪魔がいたならどんなに恐ろしいだろう。
そんな私を書いた誰かの恐怖と空想が、サルガタナスというカタチを生み出した。
世界に数多と存在する伝承に記された、かつて存在した生き物とは全く違う。
ただその記述が人々に信じられ、幻想の中に作られただけの……存在しない生き物だった。
私にとって生きるとは、ただそこにいること。本の中で人々に信じられるだけのことを指した。
どこの誰に信じられているのかすらわからず、本が開かれたら目を覚まして、本が閉じられたら眠りにつく。
……ただ、それの繰り返しだった。
そんな私と、私と同じ本に記されていた悪魔達の敗北はすぐに訪れる事になる。
古代の王に由来すると言われていた私達の事を記した本は、近代の人間が記したただの本とされ私達の神秘はあっさりと失われることになる。
当然だ。私自身、古代の王の記憶などこれっぽっちも持っていない。
私が覚えているのは、インクで記されていく自分と紙の感触。そして人間に読まれるものであるという認識だけ。
だから、人々に信じられなくなり、自分が消えていく感触も――死ぬのも特に恐くなかった。
信じられている間が私にとっての"生きる"だったのなら、その時間はあまりにも何も無い。
生きる喜びも無ければ、死ぬ恐怖も無い。生きるも死ぬもどちらでもよかった。
ただ……私は一体何のために生まれたのだろうか?
そんな疑問を抱えながら本の中で消えていったのが、私の一度目の生の最後だった。
「あら、成功した」
次に目を覚ました時……私は人の体の中にいた。
「ぁ……!? っ……!?」
体を持つのが初めてだった自分は混乱しながら起き上がった。
まるでその体の使い方を最初から知っているかのように動き、声の出し方にだけ苦戦したのを覚えている。
そして……自分ではない誰かの記憶があった。
サルガタナスというカタチを受け入れた宿主の記憶だった。
「ふむふむ、死体の状態がよくないと生命として認識されないってわけね。ご苦労様、カヤちゃん。お手柄よ」
「■■■■様……流石に、遺体に核を宿すというのは……」
「あら、これだけ死体に色々実験しておいて……うふふ、今更? カヤちゃんは本当に可愛いわねぇ……」
「……っ!」
傍らには二人の女がいた。一目で互いの文化が違うとわかる服装で見分けやすかった。
空想と恐怖から生まれたからか恐怖には敏感で、■■■■様と呼ばれている女が頭を撫でているというのに、撫でられているカヤという女は怯え切っていた。
頭を撫でていた女が私に呼び掛ける。
「おはようございます? それともおかえりなさい? ようこそ、ワタシの世界へ。歓迎するわ、魔法生命」
「ぁ……。 せ……い……?」
「そう、あなた達のことを私達はそう呼ぶ。元の世界での記録は頭の中で再生できるでしょう? ここはその記録とは違う世界。信じなくてもいいけど、どうせ信じることになるからワタシから説明することは特にないわ」
嫌な感じのする女だった。
私を人間の体に入れてまで蘇らせた癖に、どうでもいいと思っているかのような。
「な……ぜ……?」
だから、精一杯声を出して聞いてみた。
「何で私をって? 意味なんてないわ。たまたま核になっていたから、拾っただけ」
どうやら私は、二度目の生を得て尚、何で生まれたのかという疑問を拭えないようだった。
蘇ってまず、私は私の宿主の記憶を確認した。
どうやら私の宿主は数百年前に没落した光属性創始者の家系であるヴァルトラエル家に嫁いだ女性のようだった。
創始者の血筋はすでに才能が先細っており、ついにこの女性の代で子供への血統魔法の継承が出来ず、夫が死んだことで家名の血筋も途切れ……それでも何とかならないかと色々な国や場所を回り、とある資料から魔法使いとして家を存続させる手段に辿り着いたものの、息絶えて常世ノ国に流れ着いたらしい。
体の年齢は二十七。何らかの手段で体が保存されていたのか状態は良好だった。
記憶によれば最後の最後まで子供の事を思っており、その記憶には無念さが残っていたが……その感情は私にはわからなかった。
だが、この女は最後まで"生きた"のだということはわかった。
それから、魔法生命と呼ばれた私が一体何なのかを、最初の四柱であるファフニールの魔法生命の宿主、トヨヒメという幼い少女に教えてもらった。
この時にしか話すことは無かったが、まだ十歳だというのにしっかりとした少女だった。
「あなた方は常世ノ国を守るためにクダラノ家が復活させたのです。常世ノ国は魔法使いの数が年々減少しておりまして……海の向こうにある列強の国々に対抗するために一人一人の魔法使いの質を向上させるべく、魔法組織コノエとクダラノ家のカヤ様の力によって実現致しました。当初は魔法に意思があるなんて思いもよりませんでしたが、最初の四柱である皆様の意識が覚醒し始めてから、私達も徐々に受け入れるようになったのです」
「最初の四柱というのは察するに……最初に復活した魔法生命のことかい……?」
「はい、その通りでございます。トヨヒメの中にいらっしゃるファフニール様もそのお一人でございます。なんでも異界で宝物を守護する竜であらせられたとか! そんなお方の宿主になれてトヨヒメは幸せでございます! それに、ファフ様は意識を取り戻してからというもの、私のような幼い女に色々と異界のお話もしてくださるのでトヨヒメは毎日がわくわくなのです!」
「そう……なのか……」
自分の中に違う何かがいるというのは居心地が悪いように思えたが、トヨヒメはそうでもないようだった。
自分の祖国を守るのに協力してくれる異界の生命がいるということをとにかく喜んでいるようだった。
「あなたはどのような生き物だったのですか?」
興味津々にそう聞かれて、私は何と答えたらいいのかを困ったのを覚えている。
なにせ、私は本の中で過ごしてきただけのいわば幻想。
何故、魔法生命としてここにいれるのかすらわかっていなかった。
私はこの時、喋るのも苦手だったので……本の中で微睡むだけだった私という悪魔の短く、そして空っぽな生きた時間をそのまま話した。
「まぁまぁまぁ! ファフ様聞きまして!? ただ本に書かれていただけの方がこうして命を持つだなんて! なんと夢のあるお話でしょう! ファフ様もそうは思いませんか!? ええ、やっぱりそう思いますよね!」
ファフ様と呼ぶ自分の中にいる魔法生命とあれこれ会話してから、トヨヒメはこう言った。
「それなら、あなたは二度目の生でようやく、自分の生きる時間を探しにいくのですね」
「そう……なるのか……?」
「はい、一度目の生に何も無かったというのなら二度目の生で詰め込んでしまえばよいのです。ここは生憎あなた方のいた世界ではございませんが……あなたを満たすような生きる時間がこの世界にあることを祈っております」
その会話を最後に、トヨヒメと会うことは無かった。
一年半ほど経って起きた常世ノ国のとある貴族の反乱によって最初の四柱ファフニールの核は破壊され、トヨヒメは常世ノ国を去ったのだという。
それがトヨヒメの生きる時間だったのだろう。
その後、自分のことやこの世界のこと、そして魔法生命についてを調べながら常世ノ国で数年過ごした後……私も常世ノ国を出た。
この時、すでに私は魔法組織コノエの……魔法生命の本当の目的である神の座について知っていたのもあって、常世ノ国の霊脈を喰いつくす最初の四柱達が常世ノ国を滅ぼすのも時間の問題だと思っていた。他の魔法生命の味方をする気も無かったので、巻き込まれないように私は早々と常世ノ国を出たのである。
最初の四柱と私の力の差は大きすぎる。私が神の座につくにはやつらとは違う方法をとる必要があると感じ、常世ノ国にいたまま神の座につくにはあまりに無謀だと感じていたゆえの決断だった。
別に神になりたかったわけではない。
自分が何故この世界で生命として蘇ったのかがわからないのなら、わかるような存在になってみようと思っただけのことだった。
それが果たして、私の生きる意味なのかはわからなかったが、ただ日々を過ごすよりはと思った。
私の宿主は何とかして家を存続させようと色々な場所を旅していたようで、旅をするのに困らなかった。
海を渡ってガザスに辿り着き、ガザスには私がどうこうできる霊脈は存在しないのを確認すると……魔法大国と言われるマナリルへと向かうべく私は国境のほうへと向かった。
その途中で霊脈の存在を感じ取った。
魔法生命としての能力ではなく、宿主の力だった。
私は感じ取った霊脈を目指して山の中に入った。
入った山は驚くほどに、私という存在に馴染んでいた。山に入る前と同じ世界とは思えないほどに空間は隔絶されていて、一種の異界が形成されており、私は困惑しながらも宿主の体の感覚に従って山の中を進んだ。
その山にはカレッラという村と呼ぶには小さすぎる村があった。
互いの干渉をほとんどしない、同じ山間部で暮らすという共通点があるだけの人々の集まりだった。
そして私は――彼と出会った。
辿り着いた山奥の、カレッラという村とすら言えない集落……そこに住んでいる唯一の子供。
この世界では叶うはずのない夢を見て、大人の嘘にその夢を踏み荒らされた五、六歳頃の少年。
「今のままではなれないね」
気付けば、声をかけていた。
霊脈の中心でうずくまる……アルムという少年に。




