358.ガザスの魔法使い
人の肉を喰らった。
……何の味もしない。
人の血を啜った。
……酒と比べるべくもない。
自分の率いた鬼の手下達は美味そうに人の肉を喰らい、血を啜っていた。
これは俺がおかしいのか?
そう思いながら、俺はいつも最低限の肉だけ喰らって、後は山で実る果物を肴に酒ばかり飲み続けていた。
その姿は手下にとって、何よりも酒を優先する酒好きに見えたのだろう。
だから……こんな名前で呼ばれたのだ。酒を呑む鬼。酒呑童子。
酒好きの鬼の中でも更に酒を好む鬼であると。
……本当は、それしか共有できなかっただけだった。
手下といっても鬼は自由だ。序列があるだけで普段から統制をとっているわけではない。
それでも手下達はよだれを垂らしてその日狩った人の肉と血を献上してきたりしていたが、自分でとったものは自分で喰っていいと俺は言った。
人を殺すことに抵抗は無かったが、俺自身は人の肉を求めているわけではない。
手下の欲望を俺が止める理由は無かった。それが自然だ。それが生きるという事だ。
なにより……手下達が喜んでいる姿を見るのはなんとなく好きだった。
鬼という生き物は飢え渇く。
手下の鬼達はその欲望を満たすための行動をしているだけに過ぎない。享楽を求めるのは鬼という生き物の自然な行動だ。鬼というのは奪い続けて生きていく生き物なのだから。
ああ、それなら――俺の欲望は一体何なのだろうか?
生きたまま喰らっても、死肉を喰らっても満たされない。
酒に血を混ぜて飲んでもただ不味い酒が出来上がっただけだった。
鬼なら満たされるはずなのに、俺は満たされない。
いくら注いでも満たされない底の抜けた盃のように、俺は空っぽのまま生き続けている。
俺は本当に鬼なのか?
天を突く二本の角。肉を喰らう牙に肉を引き裂く爪。
何より、人の血肉を好んでいないだけで忌避しないのがその証明。
人の世ですら稀な美貌と言われた容姿を除けば、俺が鬼であることに疑いは無かった。
「俺は鬼か?」
手下の中でも特に俺を好いていた茨木童子という鬼に問うた事があった。
「これだけの鬼を纏めるあんたが鬼じゃなかったら何だというんです?」
「……そうだな」
「そうですなぁ……鬼でないなら神が相応しい! 鬼か? 神か? なんとも酒呑様に相応しい贅沢な二択だ! 無礼を承知で申しますが羨ましい! あなたのようになればこの飢えも容易に満たせましょう!」
その声が俺の耳には痛かった。
違うんだよ茨木。俺は満たされたことはない。
どれだけ殺しても、喰らっても、啜っても……お前達の悦楽にずっと共感できないままだった。
これから一生このままなのか。
そんな靄のかかった感情を酒で誤魔化し続ける日々が続いたある日――あの男は来た。
源頼光。
修行僧の姿に扮し、数人の部下を連れて、俺と俺の率いる鬼達が住処としていた大江の山にそいつは訪れた。
手下達は気付かなかったが……俺はすぐにこいつらが修行僧でない事に気付いた。
特に……頼光と名乗ったその男の纏う空気は尋常では無かった。
修行僧というには無理がある、人とは思えぬ研鑽された風体。
なにより、京の都での噂はすでに俺の耳にも入っていた。大江の山に巣食う鬼を成敗すべく京一の武将がこの山に向かったと。
だが、そんな男達を俺は饗応した。
何故なら彼らは極上の酒と人の血肉を土産として持ってきており、手下の鬼達の詰問も男達は難なく誤魔化していたからだった。何より、手下達はその酒を飲みたいと口々に言った。
……手下の欲望を俺が止める理由は無い。何より、ここで追い返した所でこの男達が手を変えて近付いてくるのはわかっていた。
ここで終わるのもこいつらの欲望の果てだろう。
そう思った俺も男達を迎え入れた。
そして……その男は俺と一緒に盃を交わした。
初めてだったのだ。
自分の身の上を話すことが、楽しかった。
あの山に住んでいたと言って、
「あの山なら行った事がある。秋時の紅葉が枯れる直前の色合いが何とも美しい」
そう返ってくることに胸が躍った。
そうなのだ。あの山は秋の終わり際が一番美しい。
ならあの山は知っているか?
「登ったことはないが、遠目に見たことがある。朝靄の中にずっと続いておった」
そうそう。その山だ。どこまで続くのかと暇潰しに歩いてみたことがある。
そう言えることが心地よかった。
それでどうだった?
そう聞かれることを待っている自分がいた。
「麓の村で作られる米は中々に美味でした」
酒も美味だぞと言うと、私は修行僧ですから、と白々しい答えが返ってきた。
それすらも……嬉しかった。
自分がここに至るまでの足跡を誰かが知り、自分が過去訪れた場所を誰かと共有する喜び。
他愛のない話を酒を飲みながら語り合い、知らない事に耳を傾け、知っている事を共感する。
自分が何者で、相手が何者かを共有し合う時間。
自分がここにいるのだというかつてない充足感。
何をしても満たされなかった空っぽな俺がただ話すだけで満たされていく。
「ギハハハハ! 頼光の旦那も中々に波乱な人生を送っておられる!」
「あっはっはっは! 酒呑殿に比べれば私の人生など波風立たぬ水面でしょうな!」
あの日、あの時、酒呑童子という鬼と源頼光という人間は確かにそこで語らった。
その時間がたまらなく愛しくて、たまらなく短くて。
自分達が殺されると知っていながら、俺はその時間をくれた頼光の旦那の策通り……毒の入った酒を飲んで寝床についた。
何をしても満たされなかった空っぽな俺を今日だけでも満たしてくれた、恩人のために。
「酒呑殿」
神が頼光の旦那に授けた毒酒は見事俺の、鬼達の動きを封じた。
寝床で痺れる俺の前に、修行僧の格好を捨てて甲冑と武器で武装した頼光の旦那が立っていた。
最後に満たされた自分を知れた俺に後悔は無かった。
「そなたが人の味方であったなら……! 次に、そんな人生を送ってくれたなら……! 我らはもう一度……もう一度地獄で共に……!」
暗がりの中、そう言って頼光の旦那は俺の首を斬った。
麻痺した体には痛みも無かった。
斬られても少しの間あった意識が、無かったはずの心残りを残した。
何故、あんたは刃を躊躇った?
何故、あんたは俺を殺す時泣いていた?
ああ、わからない。
あんなに楽しかったじゃあないか。
最後にそんな一時を過ごしたじゃあないか。
何であんたは泣きながら俺の首を獲ったんだ? それがあんたの仕事だったんだろう?
何で、もう一度、だなんて言ったんだ?
「シュテン! シュテン!」
目を開けると、エリンが泣いていた。
『エリン……か……奴は……?』
大嶽丸は? どうなった?
「倒した! 倒したわよ! シュテン!」
『そうか……他の……?』
「ラーニャ陛下もマルティナも無事だわ! セーバは今陛下が……! でも生きてる!」
よかった。俺の命と大嶽丸の命の交換なら安いものだ。
人間は強い生き物ではあるが、鬼なんかより数段脆い。
「今治癒魔導士を呼んでるわ! それまで……!」
『いや……核は……治癒魔法で治らない……俺じゃなく、あのセーバというほうを……』
「っ……!」
『何故……泣く……?』
奴と同じ魔法生命が一体消えるだけの話だ。元々この世界にはいない生命が消えて、ほんの少し元に戻るだけの話。
だから、この役目は俺がやるべきだと思った。
それなのに……エリンは何で泣いている?
「そんなの……あなたが死ぬのが悲しいからに決まってるでしょう……?」
『なんで……?』
「もっと、あなたと話たがった……! あなたの好きなお酒を一緒に飲みだかっだ……! あなたと平和な国をずごして……! もっと一緒に、この国をざざえたかった……! あんだといっしょに……なんでもない日を、すごじ、たかった……!」
『エリン……びじんが……台無しだな……』
「いいのよ! こんなどきぐらい!」
ああ、そうか……そういうことか。
頼光の旦那……あんた、だから泣いていたのか。
お前らにとっては、当たり前のことだから。
あんな風に語らう事は何ら特別なことではなくて、当たり前にあるべき幸福だから。
俺と、一度しか酒を飲めなかったことを……あんたは惜しんでくれたのか。
だから、もう一度って言ったのか。
俺にとっては生涯で初めて満たされた時間だったけど、本当は……あんな日がずっと続いたっておかしくない日を過ごせると知っていたから。
『ああ……そうだ……ここに来てから……そうだった……』
それを俺は、二度目の生でようやくそんな当たり前を知れたのか。
ガザスに来て、ラーニャの側近になって、ウゴラスに気に入られて、ヨセフに嫌われて……エリンと出会って。
そうだ……この国に来てから、そんな日々が当たり前だった。
俺が死ぬ前の夜のように、俺はこの国に来てからずっと満たされていた。
『エリン……悪いな……先に、逝く……』
「シュテン! シュテン!」
最後の別れだけでも言えてよかった。
エリンは特に、俺の世話をしてくれた友人ともいうべき人間だったから。
言葉遣いをしっかり整えろだの、制服はしっかり着ろだの、休みでもきっちりしろだの、口煩くもずっと一緒にいてくれた女だった。
そんな女に惜しんで貰えたんだ。後悔はない。
意識が遠のく。あの時と同じ死が俺の事を迎えに来た。最初の時よりも死の感触におぞましさは無い。俺という命のカタチがこの体から消えていく。
俺を名前を呼ぶエリンの声がどんどんと遠くなっていって、
「ありがとう……! あなたがいてくれて、よかった……!」
それなのに、最後に聞こえてきたエリンの声は何よりも鮮明だった。
……ああ、後悔は無い。今度は本当に。
鬼らしからぬ欲望。それでも、酒呑童子という鬼の欲望を俺はきっと貫いた。
頼光の旦那、信じられるかよ?
俺、人間の味方をしたんだぜ。
あんたの知らない世界だけど、戦ったんだ。
見ろよ。鬼が死んだってのに人間が泣いてやがる。
まるで……俺を殺した時のあんたみたいだ。
頼光の旦那、見てるかい?
俺は……俺はちゃんとできたかよ? あんたが望んだ、人の味方になる俺の姿を見せられたか?
"どうだった? 酒呑殿?"
……幻聴か。意識が途切れる寸前、そんな声が聞こえた気がした。
……悪くなかった。悪くなかったよ。
ラーニャがいて、ウゴラスがいて、ヨセフがいて、……エリンがいて。
楽しかった。楽しかったんだ。
ああ、そうだ。ここは決して地獄なんかじゃあなかった。
なあ、頼光の旦那……聞いてくれるかい?
話したい事がいっぱいあるんだ。あんたと一緒のとこにいけるかわからないけど……もし一緒の場所にいけるなら。
俺が暮らした国の話をしよう。
土産話がいっぱいだ。きっと酒の肴になる。
なんてったって人間の味方になった……馬鹿な鬼の……話なんだ……。
まぁ、でも……そんな鬼が一人くらい……いても……いいだろ?
人間と話す時間が欲しい。そんな馬鹿な鬼がいたってさ。
大江の山に巣食う鬼の軍団その頭目。この世界で綴られるは鬼の絵巻その番外。
かつて京の都で悪逆の限りを尽くしたと伝えられ、人を害していたとされる鬼は再びその名を刻む。
悪鬼よりガザスを守った"魔法使い"――酒呑童子ここに在り。
いつも読んでくださってありがとうございます。
次の更新で一区切りとなります。




