343.毒の世界に
「!?」
「なんだあれは……?」
屋根の上に立つビクターの周囲に、光すら届かないような黒い穴が開く。
そこから徐々に、ゆっくりと……紫色をした粘ついた水飴のようなものが現れ、そして現実に生まれ落ちていった。
ぼと。
ぼと。
……ぼとぼと。
黒い穴から出てくる毒々しいその塊は、落ちると同時にビクターの立っていた屋根を、そして家を溶かしていった。
緩慢に、氷が徐々に水に戻るような速度で家という場所は地へと還っていく。
紫の粘つく泥は地面に落ちても広がりを見せ、ビクターの周囲に空いた穴からは粘ついた塊が次々と現れ、空気を淀ませながら広がっていく。
「私の魔法は少し不格好でしょう? 珍しいだけで名だたる魔法使い達のような華やかさは持ち合わせておりませんからな。歴史も無いので大した血統魔法ではありませんからご安心を」
ビクターは変わらぬ老紳士の笑みをシラツユとラーディスに向ける。
周囲の異様な状況とは似合わないその表情に背筋に寒気が走った。
(珍しい……?)
徐々に広がっていく粘ついた紫の液体が地面に広がっていく。
ビクターの血統魔法を見てシラツユは気付く。
まさか、この相手が使っていた魔法は水属性では無いのか――?
「初めて見ますでしょう? 水属性が変質した希少属性……"毒属性"の血統魔法は?」
ビクターの手が動く。
地面に広がる紫の液体が蠢く。
紫の液体は意思を持ったようにゆらゆらと蛇のような形で立ち上り……そのままラーディス向けて飛び掛かった。
「『守護の加護』!」
シラツユは咄嗟にラーディスの前方に防御魔法を展開する。
飛び掛かってきた紫の液体はその壁に阻まれるが――
「――ッ!?」
「シラツユ!」
壁にぶつかった紫の液体がそのまま飛び散り、シラツユの腕に紫の液体がひっかかった。
毒々しい水はシラツユの着ていたマナリルの女性衛兵用の服を溶かし、腕の皮膚にまで届く。
「そういう事ですか……!」
『守護の加護』は下位の防御魔法。本来なら、この魔法で血統魔法を防ぎきれるはずもない。
だが、今目の前でビクターが操る紫の水はいとも簡単に弾かれた。
それが意味するのは――
「おかしいでしょう? これで世界改変魔法なのですよ?」
「はあ?」
訝しむようなラーディスの反応にビクターは笑う。紫色をした毒々しい水溜りの上で。
「"放出"の段階で領域を改変するのではなく……"放出"後、徐々に領域を拡散していく世界改変魔法ということですね……。その紫の水を広げた場所が改変した場所なのでしょう。紫の水自体はただの防御魔法に防がれてしまう程の威力しかありませんが……その代わり、紫の水が触れた所は彼の世界。結果的に毒は広がり、相手を蝕んでいく」
「御明察! シラツユ殿でしたかな? 常世ノ国ではさぞ名のある魔法使いだったとお見受けする。あなたのような女性の腕が失われる事が不憫でなりません……」
「腕が……!?」
ラーディスは先程、紫の水が引っかかったシラツユの腕を見る。
袖は解け、白い肌はビクターの魔法にに汚染されたせいか徐々に変色し始めていた。
「シラツユ! 大丈夫なのか!?」
「ええ、動かせないわけではありませんが……腕が痛みます。不運ですね」
使い手のビクターにはわかっている。平然と話しているように見えるが、あの変色し始めた腕からは脈打つような痛みが走っているだろうと。
ああ、毒をやせ我慢する人間の何たる美しい事か。
ビクターはそんな自身の性癖を楽しむような意地の悪い笑みを浮かべた。
「いや本当に。不運なお嬢さんだ。私が相手でなければ――」
「勘違いしないでください」
「?」
だが、すぐにビクターの表情から笑みが消える。
何故なら――
「あなたの事を言っているんです。本当に不運ですね。私との相性が――最悪ですよ」
――毒の痛みを我慢するはずのシラツユという女のほうが、恍惚の笑みを浮かべていたのだから。
「"私は駆ける"」
「なんと――!」
声を発し、シラツユは躊躇う事なく紫の水が広がる場所に足を踏み入れる。
靴が焼け溶け始める音と、水場を走る音がシラツユの足元から聞こえてきた。
その躊躇の無さに流石のビクターも狼狽する。
ビクターが自身の魔法を開示したのは、決して気紛れでも余興でもない。
人は毒を遠ざける。
それが当然。それが常識。
毒とは人を害するものというのは、生き物としての意識に刷り込まれているはずだ。
だからこそビクターは自分の属性を開示した。毒と聞いて敵が躊躇えば、それだけで自身の血統魔法の領域は広がっていく。
見た目は不格好、"放出"の速度も緩やか。それでもビクターの血統魔法は世界改変魔法。
毒属性の特性である"汚染"を象徴する紫の水――毒で支配されるこの世界に入れば生き物はただではすまない。
毒属性という魔法ゆえに現実の毒のように解毒薬も無いというのに――!
「いかれて……いるのか――!?」
ビクターは知らない。
シラツユという女は常世ノ国で行われたコクナ家の血統魔法を適合させるための実験によって幼少から肉体を弄られている。
肉をぐちゃぐちゃにかきまぜられ、喉を焼き、骨を砕いて作り変える……そんなマナリルではすでに禁止されている非人道的な実験を日常的にうけていた。
その実験の苦痛すらも利用できるように、シラツユの体は変えられた。苦痛を魔力に変えることのできる特異な力。
いわば人工的に作られた特異体質をシラツユは備えている。
つまり――
「じわじわと痛みが走るあなたの魔法は……とてもいいですね」
シラツユにとってビクターの世界は、魔力を底上げし続けてくれる夢のような世界となる。
それこそ、笑みを浮かべてしまうような。
「化け物か――!」
生き物なら恐れるだろう。それがルールだろう――!
そんな心情がビクターに口汚く罵らせながらビクターは地面に広がる毒を操り始める。
毒は蛇のような形を象って、ビクターに向かってくるシラツユへと放たれた。
「『白神ノ鱗』!」
向かってくる蛇のような形をした毒の塊にシラツユはそのまま突っ込む。
唱えたのは信仰属性の防御魔法。駆けるシラツユの周りを鱗形の装甲が覆う。
蛇の形をした毒の塊はシラツユに向かうも、その防御魔法で覆われたシラツユの突進を止められない。
ましてや、毒の痛みで最高潮に高まっているシラツユの魔力とあらば――!
「はあああああああああ!!」
「ぬ――! ッ――!」
弾く。弾く。弾く弾く弾く――!
次々と向かってくる毒の塊の衝突。周囲に散る毒の飛沫など気にも留めない。
駆けるシラツユは足を汚染されながらビクターの前まで到達し、
「ふふ」
「!!」
微かに笑った。
「何を笑う? お嬢さん?」
その微笑につい、ビクターは問いたくなった。部下の顔を見て誰だったかの判断がつかないとわかっているのに毎回自問する彼の癖がそうさせる。
今までこの世界に足を踏み入れたものは苦しみに満ちていたが――何故笑う?
服を、靴を焼かれて痛みに悶える姿しか自分は見たことが無かったのに。
「私を見て化け物だなんて……本当の化け物を知らないんだなと思いまして」
問いはすぐに返ってきた。
シラツユの目には恐れなど一片たりとも無い。
ビクターはその涼やかな瞳の奥に……自分の主人と同じ影を見た。
そして、もう一つ。
「本当に、不運な人」
心底からの、自分に向けられた憐憫を。
「小娘が――!」
「『自霊祈願』!」
強化を唱えて肉薄しようとするシラツユ。
怒りの声こそ上げるものの、感情に任せず毒を操り防御となる壁を作るビクター。
シラツユの狙いは間違いなく接近戦。その思惑を外すべく何重もの毒の壁を自分の周囲に作り上げる。
その展開された毒の壁そのものが毒の世界。展開されたのは不格好だとしても世界改変魔法。
いくらシラツユが痛みに耐性があったとしても容易に突破できるものではない。
「ラーディスさん!!」
ビクターがその毒の壁を展開したその瞬間、シラツユは後方のラーディス向けて叫ぶ。
「何だ。いい所を全部持ってかれるのかと思ったぞ」
後方で待機していたラーディスは嬉しそうに口角を上げる。
名前を呼ぶのが合図。
それがラーディスの決断の時。
荷車の中でどれだけの時間揺られていたと思う? 毒を使う敵を何度想定したと思う?
「また毒の壁とは! ははは! 芸が無いな! 想定内だ!」
さあ、諦めるがいいビクター・コーファー。カンパトーレの魔法使い。
この二人はすでに……勝利へのビジョンが見えている――!
「自分の魔法が不格好といったなビクターとやら! なあに気にする事は無い! 俺の魔法も少々美しくないからな!!」
叫ぶラーディスの額に浮かぶ脂汗。
魔力を限界まで絞り出し、二度目のチャンスが訪れない"充填"と"変換"をラーディスは完了させた。
「【水幻馬の気紛れ】!!」
その魔法の合唱は荒々しく響く波。黒い渦がラーディスの立つ地面に現れる。
"放出"とともにその黒い渦から現れるは、上半身が角を持った馬、そして下半身が魚の姿をした三メートルほどの大きさをした幻想。
迸る青い魔力光に照らされながら、ラーディスはその馬に備わる水の手綱を握り背に乗った。
「"私は見える"」
発せられるシラツユの声。
その言葉の通り――シラツユの目は毒の壁の中にいるビクターの姿を捉えた。
「ラーディスさん!!」
名前を叫び、シラツユは捉えたその姿目掛けて指を指す。
その指先こそ勝利への道筋。
目を吊り上げた水馬の嘶きがビクター向けて響き渡り――
「いくぜええええええええ!!」
ラーディスを乗せたその怪物は、毒の壁に覆われたビクター目掛けて一直線に突進する。
トラペル家の血統魔法。それは使い手に残存する魔力のほぼ全てをつぎ込む事で"放出"される……ただ一発、たった一撃だけの誇りである。
いつも読んでくださってありがとうございます。
今年の更新は明日が最後となります。