338.幻影
「はぁ……。はぁ……」
熱い。
呼吸が荒い。
傷がもたらす熱は夜気すら跳ねのけて、彼を苦しめている。
「はぁ……。はぁ……」
額に置いた濡らしたタオルはすでにぬるくなっていた。
傍らの棚に置かれた容器には、冷たい水が張られていた。
自分の予想通り、アルムは熱に苦しんでいた。持ってきてもらった水とタオルで体を冷やしながら眠りについたが、眠ってもその苦しみが和らぐことは無い。
傷が原因かはわからないままだが、発熱した体は安眠を妨げた。
「はぁ……。はぁ……」
月光が五月蠅い。
夜闇が鬱陶しい。
汗で髪と服は体に張り付いていて、寝る前にかけた毛布ははだけていた。その呼吸は荒く、眠りの中でも苦しんでいる。
それでもアルムは起きなかった。大嶽丸との戦いに無意識に備えているのか、体力を回復せんとその体は眠りに落ちたまま。
部屋にいるのはアルムだけ。
荒い呼吸だけが部屋の夜の中に存在感を持たせていた。
そんなアルムだけの部屋に来訪者は現れた。
扉はゆっくりと開き、一人の女性が入ってくる。
「……」
「はぁ……。はぁ……」
月と星の光に溶けるような白い装束と白い髪。
自らを魔法使いだと象徴する大きな杖。
そんな特徴的な外見を持っているにもかかわらず、ベッドで眠るアルムとは対照的に、存在感の無い女性はアルムの傍らまで歩み寄った。
その白を纏った姿と生気の無い肌は、見る者が見れば佇むだけの亡霊のよう。
その女性はミスティが第三区画で出会った女性にして、アルムに魔法を教え、アルムに師匠と呼ばれる女性だった。
アルムのいる旧居館は当然この時間は鍵がかけられている。さらにエリン・ハルスターの結界が張られていて選んだ人間以外を弾くはずだった。それにも関わらず、この侵入者は当然のようにこの場所にいる。
「アルム……」
ベッドで苦しむアルムの名前を呼びながら、師匠はアルムの頭に手を伸ばした。
手を伸ばした先はぬるくなったタオル。ゆっくりと、まるで起こさないように慎重にアルムの額からとると、そのタオルを器に張られた水に浸した。
ぬるくなったタオルが冷たさを取り戻すと、師匠はタオルの水を絞った。
ぼちゃぼちゃ、とタオルから追い出された水が、容器に張った水に落ちていく。
師匠は適度にタオルを絞ると、再びアルムの額にのせた。
ひんやりと水の冷たさを持ったタオルが、熱を持ったアルムの体には気持ちがいい。
「頑張ったね、流石は私の弟子だ」
その声はアルムには届いていない。
師匠はアルムの頬を撫でるように触れた。
「君の傷は私に任せたまえ。全て、無くしてやる」
師匠はアルムの頬に触れた手を、アルムの胸の辺りに翳した。
「『治癒の加護』」
胸に翳した手の表面が銀色の魔力に輝き、球体状となってアルムの胸に届く。
「……これでは無理か。小通連に刺されたからか、鬼胎属性の魔力が残留している。今も、悪夢を見ているのかな」
師匠は抑揚の無い声でそう言うと、杖をアルムの胸に向ける。
「『黒傷と治癒の矢』」
杖から放たれた銀色の矢がアルムの胸に突き刺さる。
突き刺さっ銀色の矢の輝きは月の光に混じって薄くなると、徐々にアルムの胸に溶けていくように沈んでいった。
「これで大丈夫だろう」
師匠は杖を戻し、再びアルムの頬に触れた。
その指はひんやりとしていて、熱を持った頬に伝わっていく。
「少し、早かったかもしれないね。けれど、よくやってくれた……これしか、私には思いつかなかった。私の願いを叶えるために……君を利用するしか無かった。君を利用して、あの悪鬼を倒すしか無かった。こんな私を君は軽蔑するかい? 君が傷付くとわかって利用した私を」
「はぁ…………。はぁ……。ぅ……。」
問いの答えは返ってこない。アルムの意思は眠りの中。
だが、荒い呼吸の間隔は少しだけ短くなっていた。先程使った治癒魔法が効いてきたようだった。この様子なら熱も朝になれば引いていくだろう。
「だが、君に軽蔑されたとしても……私の願いは叶えなければいけない。誰にも邪魔はさせない。たとえあの悪鬼がどれほどの力を持っていたとしても、これから先、君の前に何が立ちはだかろうとも、君以外のどれだけの人間の犠牲を払おうとも……私という生命の願いは、絶対に叶えなければいけないのだから」
月の光に照らされる部屋の中で響く決意。
少しの間、眠るアルムを愛おしそうに見つめると……師匠はアルムの頬から名残惜しそうに手を離す。
一度手を離して、アルムの頭を撫でた。
撫で終わって手を離したかと思うと、もう一度……アルムの頭を撫でる。
「この国の者には申し訳ない事をした。けれど、後悔はない。私達は元より自己の在り方を確固たるものにするべく、神の座を目指したような生き物。私の願いを叶える為なら、私は何でもしよう」
そして今度こそ、師匠はアルムから手を離した。
最後に、はだけていた毛布をアルムの体に掛け直す。
「もう行かなくては……。私の役目は終わったが……あの悪鬼の所に戻らなければ怪しまれてしまう」
師匠は名残惜しさを振りほどき、アルムのベッドから離れる。
扉へと戻っていくその歩みは、アルムのベッドに歩み寄った時とは打って変わって重かった。
「後は、あの悪鬼を滅ぼすだけ……。ガザスの連中がやってくれれば都合がいいが、そうならなかった時はアルム。再び君の力を借り……いや、君はきっと私がどんな思惑を持っていようと、立ち向かうだろうね。君は魔法使いを目指しているから。ずっと、その夢に向かって走っていたから」
誰も気付かない。
誰も見ていない。
誰も知らない。
全てを見続けている夜すら忘れさる、短い時間は終わりを告げる。
「さようならアルム、可愛い可愛い私の弟子……もう、会う事は無いだろうが、君の夢が叶う事を、私はずっと、ずっと願っているよ」
「ん……んん……」
柔らかい朝日を浴びながら、アルムは目を覚ます。
カーテンの隙間から朝日が部屋を照らしていた。
起きてすぐに、一晩経ってぬるくなったタオルをアルムは額からとった。
毛布の中を確認すると、服とベッドは汗で湿っている。一晩中汗をかいたからか熱はすでに引いていた。
「なんだ……?」
気のせいか。
起きてすぐに、懐かしさを感じた。頭と頬に幼い記憶の中の温もりがあるかのような。
「……ん? ん?」
アルムは異変に気付いて、すぐに胸に手をあてた。
昨日まであった痛みが無い。まだ完全に塞がっていなかった傷も無い。背中側を確認しても、大嶽丸の武器で貫かれた傷は跡形も無く消えていた。
昨日のベネッタは魔力がほとんど枯れていて、自分の顔の傷すら治せていなかった。まさか、寝ている間にガザスの治癒魔導士が治癒してくれていたのだろうか。
「師匠……?」
治癒魔法を使える人物の中で、何故かアルムは師匠の顔を思い浮かべていた。
どこに行ったかわからない、この国にいるかどうかすらもわからないというのに。
「いや、そんなはずないか……」
アルムはぼやきながら自然と扉のほうに目をやりながら、胸に手をあてる。
閉まった扉と降り注ぐ朝日の中……傷のあった場所にアルムは恩人の幻影を見続けていた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
傷痕編終了です。
ここで一区切りとなります。明日は幕間の更新となります。