332.言ってよかったと、気付いた
それはアルムと師匠の掛け替えの無い記憶の一幕だった。
――何故?
覚えてほしいと言われたけれど、師匠の事は何だって覚えている。
何処から来たのかもわからない。名前すら知らない。それでも……その記憶だけで充分だった。
遠慮の無い正直な物言いも、優しく抱きしめてくれる時の撫で方も、シスターと顔を合わせた時に喧嘩した事も、俺が魔獣を狩ったのを初めて見た時に拍手してくれた時だって何だか嬉しかった。
山を一緒に歩いた時に、俺の真似をして深呼吸しながらむせていた時やシスターの作ったシチューを初めて食べた時に舌を火傷した時は、いつもクールな師匠が慌てる様子が新鮮でおかしかった。
師匠は何年たっても外見が変わらなくて綺麗だねって言った時、悲しそうに笑った事も。
けれど、今この記憶を思い出したのは何故だろうか。怪我をしているのを隠した記憶を何故?
無意識に、記憶を遡ったのだろうか。
それとも、思い出すべき時が来たのだろうか。
未だに、あの記憶の中で自分が何を教えられたのかわからずにいる。
きっと――大切な言葉だったのに。
朝日が差し込んでくるのがわかる。
山のひんやりとした空気の中とは少し違うけれど、温かい。ぼんやりとした頭でも朝の空気だという事は何とか理解する事が出来た。
最後の記憶は、あの魔法生命の武器を叩き割った所まで。
(生きてる……?)
死んだと思っていたが、どうやら自分は生き残ったらしい。
あの状態からただ生き残れるとは思えない。誰かが助けてくれたのだろう。
胸の傷が痛む。死の匂いがする場所。
間違いなく自分の傷は致命的だったが、どうやって命を拾ったのかが予想もつかない。
ならば、先程の記憶は走馬灯というやつだろうか。死に際にはそういう事が起きると聞かされた事がある。もしくはただの夢だったのか。
俺は目を開いた。朝なのだから自然だが、あの傷でよく目覚められたなと自分でも思う。
朝の日差しは目を開けた瞬間に体に飛び込んでくる。淡いように見えて、一日の始まりを知らせる何よりも強い合図。
その合図を全身で感じ取りながら、俺は天井を仰いでいた。
天井に描かれた彫刻の美術性が自分にはわからない。空じゃない事を残念がる事もなかった。
「っ……!」
目を覚まして最初に……聞こえてきたのは、驚いたような息遣い。
その息遣いに首だけを横に動かすと、そこには見知った友人がいる。
宝石のような青い瞳に何よりも美しい青みがかった銀髪をした女の子だった。
寝起きの微睡みと、胸の痛みを後回しにして……言わなければいけない事をまず伝える。
「おはよう……ミスティ」
そう言うと、ミスティは静かに涙を流しながら笑って。
「おはようございます……アルム」
震える声で、そう返してくれた。
握られている手は朝日よりも温かくて、ずっと傍にいてくれていたんだとわかって少し嬉しくなる。
俺は思うまま、その小さな手を握り返した。
ミスティはその握った手を見て嬉しそうに笑ってくれる。
「今日も、いい天気ですね」
そして涙を自分で拭うと、まるで学院での朝に交わすような会話をミスティは投げかけてくれた。
「そう……だな、いい天気だ」
束の間の日常をくれているのだとわかって、胸の痛みを無視して俺も普通に答えた。
部屋のカーテンから差し込んでくる日差しは誰かの祝福と勘違いするほどに柔らかい。
目が覚めたのはきっとミスティがいてくれたからに違いないと、俺は根拠の無い確信を持っていた。
「ああ――」
見知らぬ地。見知らぬ部屋。見知らぬ天井。その中で隣にいてくれる――見知った人。
どこにいてもわかる繋がり。
自分が生きてきた中の出会いがこの手の温もりにあるような気がして俺はずっと、ミスティの手を握り続ける。
ミスティもまた、俺の手をずっと握っていてくれた。
わかっていたつもりだった。けれど、わかっていなかった。
俺の周りにいる人達はただ優しいだけじゃなくて、俺が傷付いた時に悲しんでくれるんだって。
だから、助けるんだ。助けてくれるんだ。
それなのに俺は一度も言っていない。恵まれているからとただ甘えていた。
そうだ。俺は知っていたじゃないか。
助けて欲しい。
そんなありふれた一言を、俺はいつでも言っていいんだ。
「本当ですね!? 酒呑!? エリン!?」
旧居館の廊下を、品位よりも時間が大事と言わんばかりの速度で歩きながらラーニャは後ろにつく酒呑童子とエリンに問う。
周りを飛び交う妖精達はけらけらとそんなラーニャを笑っていた。
「ああ、さっきルクスから伝えられた。あの傷で一日で目覚めたというのは俄かには信じ難いが……」
「何にせよ、容体が悪化するより遥かにいい知らせですよ。陛下」
「エリンの言う通りです。本当によかった」
ラーニャ達が廊下を曲がると、その先にはアルムの部屋の前で壁を背に座っているルクス達がいた。
ヴァンやファニアだけでなく、昨日まで寝ていたエルミラとベネッタまで椅子を運んで座っている。
「どうしたのですか? こんな所で? それにエルミラさんも……大丈夫なのですか? 怪我のほうは?」
「ベネッタが付きっ切りで治癒魔法かけてくれたんで何とか……」
どこか気まずそうな空気が廊下に漂っている事にラーニャは気付く。
そもそも何故部屋に入らないのだろうか? ヴァンやファニアはともかくアルムを含めた五人の仲睦まじい姿はタトリズ魔法学院で過ごしていた時に、ラーニャも時折見かけている。
アルムが目を覚ましたとあらば真っ先に部屋に駆け付け、無事を喜ぶだろうに。
「もしや、アルムさんはまたお眠りに?」
ラーニャが聞くと、ルクスは首を振る。
「そうではないんですが……」
「えっとー……やめたほうがいいというかー……」
「まぁ、入りにくいのよ」
しかし、詳細に関しては言葉を濁している。どう伝えればいいものかとベネッタやエルミラも言葉を選んでいるようだった。
ラーニャとしては、急いでアルムの無事をこの目で確認したい。
エリンはそんなラーニャの様子を察したのか、腕の通っていない袖を揺らしながら率先して前へと出た。
「起きているのなら失礼させて頂きます。急いで聞かなければいけない事もありますもの」
「あ……」
ルクス達は何か言いたげな雰囲気を醸し出しながらも、積極的に止めようとはしない。
ガザスの状況に慌てていたのか、それともラーニャの為にと急いでしまったのかエリンはノックも忘れてアルムが寝かされている部屋を開けた。
「定期的にお父様にお手紙を出すのですが、いずれ落ち着いたらアルムを招くようにとも言われているんです。ですので、帰郷期間にご一緒できないかと」
「……うん、いいな」
「アスタも楽しみにしているんですよ。あの子ったらあなたに憧れているとか」
「……ははは、それは光栄だな」
「帰郷期間なので、私は数日忙しくしてしまいます。アルムを待たせる事になってしまうかもしれませんが……待っていてくださいますか?」
「ああ、勿論。楽しみだ」
「……はい、私もです……!」
そこには帰郷期間の予定を立てているアルムとミスティ。
ベッドの傍らに座るミスティは身を乗り出すようにアルムに話しかけており、アルムは首をミスティのほうに向けて優しく相槌を打っていた。互いの瞳は相手しか見えていないようで、エリンが入ってきてもなお互いを見つめ合っている。
何より目を惹くのは、固く握り合っているその二人の手。
その二人の姿があまりに、友人とは思えない関係を彷彿とさせてエリンはその場で固まってしまう。
旧居館というガザス側としてはさして珍しくも無い部屋に作られた別空間。
エリンが部屋に入ってきた事にすら気付いていない二人だけの空気に、エリンはつい頬を赤らめた。
「何をやってるんだエリン。……ん?」
「まぁ」
その横から酒呑童子とラーニャは部屋の中を覗くと、二人とも少し驚いたような顔をする。
エリンはつい部屋の扉を一旦閉めてしまった。
「ああ……あの二人そういう関係なのか……。平民と貴族。この世界ではいいのか?」
「ほらエリン、あるんでしょう? 聞かなければいけない事が。早く聞いてきませんと!」
「あの空気の中に割って入れと!? 王命でしょうか!? 王命でなければ私には無理です!」
予想外の光景に部屋の前で騒ぐラーニャ達三人。
ラーニャと酒呑童子の二人はエリンのように頬を赤らめるような初心な反応は見せなかったが、何故ルクス達が部屋の前で待機しているのかはすぐに理解する事が出来た。
「私は見なかった事にしますのでご安心を」
「空気が甘ったるいんだよ……」
ヴァンとファニアはぼやき、ルクス達はそれに頷く。
ミスティが部屋の前の騒ぎに気付いて開けに来た時、エリンが気まずい思いをしたのは言うまでもない。
いつも読んでくださってありがとうございます。
わかりやすく甘い空気を出してる人達っていらっしゃいますよね。この季節はそういう方々も増えてきて幸せそうで何よりだと思います。