330.その手に願う
「……アルム」
ただ手を握り、名前を呼び掛ける事しか出来なかった。
シャファク城の旧居館の一室。
ベッドに寝かされているアルムの傍らに椅子を置き、ミスティは座っている。
先程までは治癒魔導士の人もいたが、気を利かせて出て行ってくれたようだった。
ミスティはまるで世界に二人だけになったかのような寂しい背中をしている。
「……」
一命を取り留めたとはいえ、アルムは目を覚まさない。
アルムの右腕は未だボロボロで包帯が撒かれている。胸の傷も完全に治ったわけではなかった。治癒魔法は外傷を治すという点においては万能に近いが、大きな傷にはそれ相応の"現実への影響力"が必要であり、時間もかかってしまう。それどころか、使い手の腕によっては体内の傷は治せなかったりもするのだ。
今回はアルムの体を治癒し慣れているベネッタのお陰もあって、死ぬ事は無いという所まで回復している。
「……あたたかい」
静かに、ひっそりと流れていく時間の中でミスティは呟いた。
握るアルムの手は自分よりも大きい。温かいと感じられるこの体温にミスティは心から感謝した。
空でアルムが貫かれたあの光景。
体がどんどんと冷たくなっていって、自分もどこからか血とともに温もりが消えていくかのようだった。
母親が動かなくなってしまった時と似た感覚。
母は眠っているだけだけれど、あの時アルムは――
「っ……!」
もう枯れたと思った涙がまた溢れる。今の今まで泣いて泣いて、目は赤く泣き腫らしているというのにまだ止まらない。
想像するだけで恐かった。
思い出すだけで胸が張り裂けそうになる。
春だというのに凍えそうで、握る手から伝わる温かさが無ければ死んでしまいそう。
寒い。
ミスティの体が震える。
――自分の体がどんどんと冷たくなっていく。
「アルム……」
それでも、握る手だけはずっとずっとあたたかいまま。
ミスティは涙を流しながら、白く儚い指先でアルムの手を強く握りしめた。
「アルム……スノラでは冬以外もお祭りがあるんですよ」
自然とそう語りかけていた。
「丁度、帰郷期間の頃になります。スノラに流れる川があったでしょう? そこで舟を並べて、お店を出すんです。魚介類だけじゃなくて、色々な店が川に店を出すんですよ。変わっているでしょう? 去年は、継承式のお話もあって私も参加できませんでした」
語りかけながら、ミスティはアルムの手を握っていないほうの手でアルムの頭を優しく撫でた。
彼は、アルムは――自分の在り方のまま戦った。魔法使いとして前を進み続けるアルムという人間の在り方をずっと貫いている。
そんなアルムだからこそ、惹かれた。
ミスティ・トランス・カエシウスを助けてくれる私にとっての魔法使い。
何の見返りを求めるわけでもなく、ただただ自分のいる優しい世界の為にと戦える人。その姿は私のちっぽけな理想を飛び越えていた。
愛しくて、愛しくて、自分が自分じゃないかのようにふわふわとしてしまう時があるくらいに、彼と一緒にいる時間が……幸せ。
隣にいるだけで心臓が鳴って、触れられれば自分の意思と関係なく頬が染まってしまう。
笑ってくれると嬉しくて、素直な言葉を口にするあなたの真っ直ぐな声が耳に心地よくて。
そんな自分の知らない自分を教えてくれた人。
――この人に、自分は何かを与える事が出来ているのだろうか。
あの日、スノラの城でこの人はミスティに救われたと言ってくれた。
それでも、あの日の出来事は自分が彼にした事に比べれば余りにも些細すぎる。
「お客さんも舟でこぎ出したりして、川の上で渋滞しちゃったりするんです。でもお祭りだから仕方ないねって笑って、ぶつかって川に落ちちゃても笑って……うふふ、スノラの川は冷たいから笑いごとではないんですけどね」
……薄々気付いてはいた。今回の事で確信を持ってしまった。
アルムは当然のように無茶をする。そうしなければ魔法使いになれないと知っているから。
走って走って走って走って、ただひたすらに――走っている。
その先にある夢を見つめ続けているせいか、自分を省みない。
自己犠牲の精神で自己を後回しにしているのではなく、最初から自己を省みていない。
それがアルムと他の人との決定的な違いだと。
だからこそ、不安になってしまう。自身を犠牲に人々を守ろうとする時……彼はきっと自身を天秤にかけようともしない。
アルムという人間はアルムという人間を軽んじている。きっと誰よりも。
だから、自分の為に彼が怒ることが無い。
自分よりも、周りの人が大切だから……彼はその時だけ怒りを露にする。
敬愛する師匠を貶す人、大切な友人を馬鹿にする人、見知らぬ命を軽んじる人。
時折感じる。貴族だから平民だから、とたまに口にする彼の引いている線引き。
本人は身分差を弁えているつもりなのかもしれない。けれど実際には、自分を低く見ている意識がきっと根底にはある。
「そういう時は、落ちてしまった方を皆で引っ張って引き上げるんです。悪い悪い、なんて川に落ちた人は震えながら謝って、いいから体拭いて、なんて事を周りの人は言いながらタオルや服を投げたりして。その光景がとても温かいんです。次の帰郷期間……スノラでそのお祭りにいきませんか? 一度、あなたに来て欲しいです」
だから、惜しませたい。
あなたから貰った優しさからすれば小さい恩返しかもしれないけれど、私があなたに出来るのはこれくらい。
あなたのいる穏やかな日常は、あなたがいないといけないのだと知ってもらいたい。
あなたは約束を大切にする人だから、些細な約束をきっかけに自分を大事にして欲しい。
恥ずかしくて、今はあなたが眠っている時にしかあなたを誘えないこんな私だけど……それでも、夢の中で覚えていてくれたら。
ほんの少しでも、あなたは自分を大切にしてくれるでしょうか?
「あ、お祭りの名前はラフマトレーネって言うんですよ。帰郷期間ですから私は少し忙しいかもしれないですけれど、お祭りは三日間ありますから……あなたと、一緒に……一日だけでも……」
あなたが起きて、この事件が終わったら……もう一度。あなたにこのお話をしたいから。
恥ずかしくて、言葉が出てこないかもしれないけれど、あなたは待っていてくれる人だって知っている。
私がどんなに黙っていても、嫌な顔を一つせずに私の言葉を待ってくれるような、そんな人だから。
まずは小さな約束から、あなたが大切だという事を知って貰いたい。
「起きてください……アルム……」
ねぇ、アルム。私、会いましたよ。あなたの事を愛してずっと後悔している人を。
ねぇ、アルム。私、会いましたよ。あなたの事を助けてくれと言う人を。
ねぇ、アルム。知っているでしょう? あなたの友人があなたを心配してくれている事を。
あなたがいなくなったらきっと悲しむ人がいっぱいいます。
「ねぇ、アルム。私、あなたにずっと……生きていて欲しいです」
ほんの少しでも、自分を大切にしてくれるようにと願いを込めて。
ミスティはアルムの手にそっと口づけをした。