321.■■日13
「もう少しですよー! 王城にはお医者さんもいますから!」
避難する人々の一番後ろで、ベネッタは後押しするように毒に侵された住人達に声を掛け続けていた。
それどころか、タトリズ魔法学院に来て学んだ召喚を使いこなし、ベネッタが召喚した騎士のような人造人形は毒に侵された住民達を馬車に乗せて運んでいる。
ベネッタの明るい声に少なからず王都シャファクの住人達も元気づけられているようで、最初よりもその足は軽かった。
「お城は安全ですから そこまでちょっとだけ頑張りましょー!」
「あんた、どこの人だい? タトリズの方々と制服が違うようだけど……」
「ボクですか? マナリルから来たんですよー」
「そりゃ……せっかく来てくれたのに巻き込まれて大変だなおい……」
「何言ってるんですかー! 皆さんのほうが大変に決まってます! ほらほら、ボクの心配なんていいですって!」
住民との雑談で心を掴みながら誘導するその姿にセーバは頼もしさすら感じていた。
今日待ち合わせした時は二人で出掛ける事を恥ずかしがる可愛らしい少女だったというのに、今は人々の心をその行動と振舞いで元気づけている。
何人か第三区画で避難誘導を手伝いに来たタトリズの生徒もいるが、この場で一番積極的に住民達を勇気づけているのはこのベネッタという少女と言ってもいい。
(まだ、俺は震えが止まっていないのに……)
セーバはそんな震えながら歩く足を恥じる。
そして、動いてるだけ上出来だと甘い思考を持っている自分にも。
「セーバさん大丈夫ですかー?」
「え? あ、ああ。大丈夫ですよ」
「疲れたら私がおぶるの変わりますからねー」
セーバの背中には大嶽丸と出会う直前に声を掛けた女性がいた。
大嶽丸の鬼胎属性にあてられたのか、今は意識を失っている。
「このくらい大丈夫ですよ。俺だって魔法使い志望ですから。いざとなれば強化使って走っちゃいますよ」
「はい、お願いしますー!」
恐怖を誤魔化し、空元気を見せるセーバ。
鬼胎属性の魔力を初めて浴びた事でその体は未だ震えで動かしにくい。
それでも、ベネッタに精一杯の笑顔を見せた。
「もう少しで第三区画を抜けますね」
「ほんとですかー?」
「ええ。第一区画には直属の魔法使い達もいますし、もっと避難が早くなると思います」
「よかったー」
見れば王城も近くなり、遠くにはタトリズ魔法学院も見え始めている。
その景色が王城のある第一区画が近くなってきた証拠だ。
住人達ももう少しだと毒に侵されていない人々にほんの少し活気が戻り始める。
「ほう、何がよかったのか……余にも聞かせてもらいたいものだな」
「!!」
それは一時の、幻だった。
活気が戻りかけた住人の心を容易く振り出しに戻すような、悪意と嘲笑の入り混じった声。
ベネッタとセーバが振り返った先には先程見た男。男の手には闇を体現したかのように黒い刀が握られている。
その武器からも尋常じゃないものを感じるが、その後ろを歩く五メートルほどの黒い靄にどうしても目がいってしまっていた。
靄の塊? 否。それは頭部に角を生やした人型の怪物。
その声を聞いてしまった住人達の足がまるで命令されたかのように止まりかける。
「止まらないで! 進んでくださいー! もうすぐ家族の方を診て貰えますから!」
しかし、止まりかけた人々の足をベネッタの一声が動かした。
避難している間ずっと声掛けをしてくれた、元気づけてくれた少女の声。それが人々の心を恐怖だけに囚わせない。
この子はあれが恐くないのか?
セーバはベネッタの表情を情けなくもちらっと見る事しか出来なかった。
「あ……」
そんなはずはない。
ベネッタの表情は明らかに先程より青ざめていた。この怪物が追い付いてきたその事実が、残してきたエルミラの安否をベネッタに嫌でも想像させてしまう。
それでも、ベネッタは大嶽丸と対峙するべく振り返る。
ベネッタは少し唇を震わせたかと思うと、大嶽丸にこう問いかけた。
「エル……ミラは……?」
問わざるを得なかった。
時間を稼ぐと言って、この怪物に立ち向かった自分の友人についてを。
ベネッタの瞳は大嶽丸からの答えを聞くまでも無く、湖面に浮かぶ月のように揺れている。
「余はどうもいい女に甘くてな。いい女には一度だけ猶予を与える。止めは刺していないが……まぁ、あのままでは死ぬだろうな。誰かが助けてやっているのを祈るとよい。
あの女はいい女だった。あの灰で余の術を防いだのは見事だったが……」
そう、さっき空に響いた爆炎。
空に広がる見知った灰の魔法はこちらに向かってくる氷の雨は全て防いでくれた。
ベネッタはあれを見た時、期待してしまったのだ。
あれは、エルミラが……ボク達を守ってくれて。
こいつと互角に戦ってるんだって、そういう事なんだって。
「捨て身だった。お主らの命を数分引き延ばす為に、あの女は命を捨てた。雹を、礫を、氷剣を、氷針をその身で受けながら守っていた。余には理解できぬが……その姿には一筋の輝きがあったのは認めよう」
「そ……んな……」
「そんな女が守ったお主らは、何か余に見せてくれるのか?」
「こ……の……!」
初めてかもしれない。
少女は人生で初めて、血液が沸騰しそうなほど誰かを憎んで――
「絶対に……! 許さ――」
エルミラの顔が頭によぎり、すぐに自分が何を為すべきかを取り戻した。
「セーバさん逃げて! 一人でも多く避難させて!」
「し、しかし……!」
「ボクが相手します! けど、エルミラみたいに長くはもたせられない!」
「ま、待――」
制止しようとするセーバを振り切り、ベネッタは大嶽丸に向かって駆けだす。
あんな怪物に立ち向かうべきではない。
セーバとて貴族。魔法使いを目指している者。
あの男一人だけでも体が竦んだというのに、今はその後ろに巨大な黒い怪物がいる。
なんなんだあれは――!
セーバの本能が大嶽丸から目を逸らさせた。
向けない。もうあちらを向きたくない。
そんな恐怖が、ベネッタから与えられた逃げてという声にセーバを従わせる。
「皆さん落ち着いて! パニック、になる必要はありません! 王城は、その、もうすぐです!」
ベネッタと大嶽丸に背を向けて、住民を背負い駆ける。
大嶽丸が視界に入らない事でかろうじて、パニックになりかけているセーバに言葉を喋らせた。
少したどたどしく、噛みそうになりながらも、住民に声を掛け始める。
「きゃああああ!」
「!!」
そんな少女らしい悲鳴にセーバは振り向いてしまう。
振り向いた先にあるのは……大嶽丸に髪を掴まれ、体を吊り上げられているベネッタの姿だった。
「いだい! いっ……だ……!! いやあ!!」
「ふむ……余に立ち向かう精神力はあるが……先程の者らよりは落ちるな」
大嶽丸は残念そうに呟くと、吊り上げたベネッタの腹部に事も無げに拳を打ち込む。
防御力の高い信仰属性の強化を纏っているはずなのに、その怪力はまさしく暴力となってベネッタの体を襲う。
「か……が……!」
大嶽丸の怪力を撃ち込まれれば当然、人間の体がただですむはずがない。
纏った強化の上から伝わる衝撃にベネッタ言葉にならない声を漏らした。
ぶちぶち、と髪がちぎれた音を立て、ベネッタの体は近くの壁に思い切り叩きつけられる。
「うぶ……おええええ!」
全身に走る痛みにのたうつベネッタ。
中でも、拳を撃ち込まれた腹部の痛みは尋常ではない。せり上がってきた吐瀉物が本人の意思とは関係なくまき散らされる。
その姿をセーバは目に焼き付けた。焼き付けてしまった。
「げほっ! ごほっ……! ……逃げ、て……! 早く……」
それでもベネッタは、助けて、と口にしない。
それどころか、逃げろ、と言う。
戦う意志を崩さない。
がくがくと力が抜けそうな足で立ち上がったベネッタの目は大嶽丸に向いていた。
「……【三明一振・小通連】」
「!!」
虚空から響く鈴が鳴るような音。
白い柄に日の光を吸っているかのように輝く刀身を持つ刀が大嶽丸の手に握られた。
右に白い小通連。左には黒い大通連。
大嶽丸の両の手に、二本の刀が握られる。
その姿は先程の暴力でさえ大嶽丸にとっては手加減である事の証明でもあった。
「さて、お主は鳴くか? それとも吠えるか?」
「……っ!」
大嶽丸の声と、大嶽丸の握る小通連の輝きにベネッタは体の痛みを忘れて思わず生唾を飲み込む。
ベネッタは呼吸すら忘れて大嶽丸の動きを注視した。その二本の刀を少しでも多く躱す為に。
「む? その瞳は……?」
しかし、大嶽丸は一向に踏み込んではこなかった。
興味深そうにベネッタの目を見つめている。
少しして……何かを理解したのか、大嶽丸は一つ頷いた。
「……お主見えているのか。違うな。見えているのではなく……触れられるのか。元から、いや、そこまで昇華したのか」
「え……?」
感心するように大嶽丸が言う言葉の意味がベネッタにはわからなかった。
ベネッタの様子を見て落胆したのか、大嶽丸は嘆息する。
「自覚は無し、か。だが、いいものを見せてもらった。礼に……お主の体、余の血肉にしてやろう」
その声で束の間の時間が終わったのをベネッタは肌で理解する。
何の時間か?
勿論、生きていられる時間だった。
「お主は余の本体の一端を使うほどの強者ではない。ゆえに、一太刀で終わらせよう。なに、殺しはしない。加減はする。意識があるままお主の肉を喰ろうてやりたいからな。余は人を喰う時にはまずは右腕、次に左足と決めている。そこは斬らないでおいてやるから安心するがよい」
恐怖心を煽るような宣言にベネッタの瞳に涙が浮かぶ。かちかちと歯は鳴り、足はずっと震えていた。
喰われる。それは一体どんな痛みと恐怖なのだろうか。
あの拳でお腹を殴られた時よりも、痛いのだろうか。
そんな想像を嫌でもしてしまう。その未来を拒める力が自分には無い事を知っているから。
今すぐ気絶しそうな精神状態の中、走馬灯のようによぎる友人達の姿と自分の夢の在り方がベネッタの意識を必死に繋ぎ止めていた。
「さあ、どうする。鳴くか? 吠えるか?」
大嶽丸が踏み出したその瞬間。
「【魔握の銀瞳】!」
そよ風のような響きとともにベネッタの瞳が銀色に輝く。
最後の抵抗に、ベネッタは大嶽丸の核を確認しようとした。
もしかすれば自分が食べられている間に……誰かに核の位置が伝えられるかもしれない。
そんな悲愴な覚悟で唱えられた血統魔法は、見事首にあった大嶽丸の核を捉える。
(あ、あれは……なに……!?)
そして何故か、ベネッタの瞳には大嶽丸が握る二本の刀もが映っていた。
銀色の瞳が、武器にはありえないはずの魔力の脈動を捉えている。
「!!」
――そして、もう一つ。
「あ……」
「なに?」
大嶽丸はベネッタが一瞬、笑った事に気付く。
今の今まで恐怖で染まっていた顔に訪れる安堵。
絶望しか無かった表情にたちまち希望が戻っていく――!
「来て、くれた……!」
そう、ベネッタは後方に見た。
誰よりも、何よりも巨大な――巨大な魔力の塊が向かってきているのを――!
「何故笑う? 女?」
「友達がー……来てくれたから!」
大嶽丸の表情に警戒の色が帯びる。
どこからか聞こえてくるこちらに近付いてくる存在感を増す音。
何かが……近付いてくる――!
「!!」
直後、何かが屋根を破壊する音が耳に届いた。
崩れる屋根の瓦礫と一緒に、それはベネッタと大嶽丸の間に落ちてくる。
着地の瞬間、それが纏っていた白い爪は石畳を破壊して――白い輝きがこの場を照らした。
「纏う空気が違うな……何者だ?」
「アルム」
落ちてきたのは『幻獣刻印』を纏ったアルム。
間に合った。
ベネッタがそう感じさせるほどに、彼の背中はベネッタにとっての希望になっていた。