315.休息日7
「第三区画と第四区画の水に毒が撒かれた!?」
学院長室に響くマリーカの声。
その場にいたルクス、ヴァン、ファニアの三人の表情もその声に表情が険しくなる。
『ええ、マリーカはすぐにタトリズの生徒を集めてください。住民の避難を手伝うようにと』
マリーカが持つ通信用の魔石からはラーニャの声が聞こえてきた。
声色の中に怒りが混じっているものの、冷静に徹しようとしているのがわかる。
「わかりました」
『すでに危険勧告は出しているけれど、水には気を付けるように。まだ何の毒かわかっていないの。それとベラルタの皆さんは王城のほうに避難するようにと伝えてくれる?』
「そのように」
『それでは……気を付けてください。マリーカ』
「陛下も」
そこでラーニャからの通信は途切れた。
重々しい空気の中、座っていたヴァンとファニア、そしてルクスも立ち上がる。
「ファニア、宿舎に残ってる生徒を至急王城に誘導してくれ」
「わかりました。ヴァン殿は?」
「第三区画と第四区画にベラルタの生徒がいるかを見て回ってくる。ついでに住民の避難もできるからな」
「わかりました。こちらはお任せを」
「ちょ、ちょっとお待ちください……これはガザスの問題であって……」
マリーカを抜きに方針を決めるベラルタ陣営。
ベラルタの面々は王城に案内するようにと言われたマリーカが慌てて止めようとするも。
「ああ、マリーカ学院長の言う通り……マナリルの友好国ガザスの問題だ。しっかり手伝わないとな」
「ええ、ヴァン先生の言う通りですね」
「あ……」
制止しても無駄だと言わんばかりの主張と同意するルクスを見てマリーカは自分が何を言おうが止められない事を悟る。
何より、人手が欲しい事態には変わりない。第三区画と第四区画には毒で苦しむ人々が大勢いるだろう。マナリルの魔法使い二人の協力など得たいと思っても得られるものではなく、マリーカはこの幸運に感謝した。
「ルクスは王城に……と言っても無駄だな。お前は見た目よりじっとしてるタイプじゃない」
「よくわかってくれてるようで何よりです」
ヴァンとルクスはすぐさま学院長室を出る。
「御武運を!」
ファニアの声を背中に受けながら、廊下を駆けながら強化の魔法を唱える。二人は一番最初に差し掛かった廊下の窓から飛び降りるように外に出た。わざわざ階段など使ってる余裕は無い事態だ。
しかし、急いでいる理由は毒の話を聞いたからだけでは無かった。
「毒を撒くのは非道ですが……それ以上に嫌な予感がしませんか?」
「奇遇だなルクス……俺もだ」
ラーニャの声色から感じた言いようの無い胸騒ぎ。
それはあの場でルクスとヴァンしか感じていなかった。
「その瞳……よいな」
そう言って、大嶽丸は手に持つ酒を煽る。
エルミラと、後ろにいるベネッタとセーバはそれを見る事しか……いや、セーバはその姿すら直視できていなかった。
大嶽丸。
そう名乗った男をただ見る事しかできない。恐怖から逃れようとしているのか、ぱくぱくとセーバの口は動き、無意識に声にしようとしてしまう。
「おお……たけ……」
「言うな!!」
エルミラの怒号にびくっ、とセーバの体は震えて声も止まった。
セーバの行動がどれだけ致命的なものかを知っているがゆえに自然と声が荒くなる。
一度だけ、エルミラは呪法に逆らった者がどうなるかを見ている。
呪法にも種類がある為、効力が一緒かどうかはわからないが、名前を口にしていい結果になる事はまず無いだろう。
「ほう……慣れているな。女子」
(酒……確かシラツユが酒は供物になって魔力を上げるみたいな話してたわね……)
ミレルの時の事を思い出したのは、セーバが目の前の魔法生命の名を口にしたからだろうか、それともこの大嶽丸という魔法生命が酒を飲んでいたからだろうか。
違う。
その魔力と雰囲気からエルミラは悟ったのだ。
こいつはあれと同じ――この世界に本来存在しない未曽有の災厄そのものだと。
「かっかっか……なるほど、観光とやらはするものだな。すぐにラーニャの下へ行っていたらこんな瞳は見れまい」
大嶽丸は酒を飲み干し、空となった酒瓶を放り投げる。
「女子、余の妾にならぬか?」
「は?」
大嶽丸からの提案に、エルミラは心底からの拒絶を込める。
そのおぞましい魔力さえ無ければ、ただ精悍な顔立ちをした男が女性を誘っているだけの話だが……そんな生易しい話ではない。
この場にあるのは魔力と恐怖による支配。エルミラへの提案は命が助かるかもしれない蜘蛛の糸だった。
「この世界における余の妻に相応しいのはラーニャと決めておるが……貴様の瞳は気に入った。骸にし、閉ざすにはもったいない強き瞳だ。余の何番目かの妾にしてやろう。安心するがよい、余は自分の女は何人であれ寵愛を注ぐ……その瞳が曇るまではな。瞳が曇っても余の血肉になる名誉をやろう。その体、血の一滴に至るまで啜ってやる」
「ふーん、顔は悪くないのに女を誘うのが下手糞ね。あんたに抱かれるくらいなら魚の死骸と一晩寝たほうがまだましだわ」
だが、エルミラがその蜘蛛の糸に縋るなど有り得ない。
大嶽丸の誘いをエルミラは口悪く一蹴する。
こんな他愛ない言葉で沸点が上がる器であればつけ入る隙もまだあるが……
「かっかっか! いやはや、よく言われる。余は欲しいと思った女はどうも手に入らなくてな」
口汚いエルミラの声さえ酒の肴にするかのように大嶽丸は笑った。
その物言いすらも気に入ったかのように大嶽丸は上機嫌になる。その笑い声だけで後ろにいるベネッタは震え、セーバは泡を吹いて倒れるのではないかと思うほどに顏が青褪めていた。
エルミラはそんな二人をちらっと肩越しに確認する。
(せめてベネッタだけでも動ければ……!)
交わす会話は二人が動けるようになるまでの時間稼ぎ。そして狙いを自分に向ける為のもの。
幸い、大嶽丸はエルミラに興味を持っている。
先程の反応も自分に怒りを向けさせるためだったが、意に反して更に気に入られたらしい。
上機嫌な大嶽丸はただ笑い、その口は饒舌だった。
「余は完璧ではない。元いた世界に帰れば間の抜けた伝承が残されておってな。鈴鹿という女の色香に惑い、女の虚言を信じてまんまと守護を剥がされ、その隙に仏心と菩薩の助力を得たあの英傑に殺された……かっかっか! なんとも馬鹿馬鹿しいであろう?」
自分の最後を馬鹿馬鹿しいと大嶽丸は語る。
しかし、自分の死に様を語る大嶽丸はその結末を一切恥じていないようだった。
「だが、それは余が間違っていたわけではない。それが余だ。余がその女を手に入れんとした生の証にすぎない。余が死んだのはただの結果だ。笑う者もいよう。お主のように女を求めるのが下手糞だと罵る者もいよう。ただでさえ余は人を害する者。そんな存在が間の抜けた結末を辿ったとあれば嘲笑の一つでもしてやりたくなるのが人間ゆえ。だが、その嘲笑で余の価値が落ちることは決してない。山の麓から笑い声が聞こえようとも、余が頂きにいる事実は変わらぬのだから」
むしろその結末を誇るかのように、大嶽丸は堂々と立っていた。
自分の欲望は正しく、自分の在り方に決して間違いなど無いとその姿は雄弁に語る。
そこまで聞いて、エルミラは悟る。
目の前の相手には生半可な小細工は通用せず、口で優位に立てる隙など存在しない事を。
「ベネッタ、セーバ……聞いて」
「え、エルミラ……」
会話の間にベネッタは何とか慣れてきたのか声が出せるようになる。
ミノタウロスとの戦闘を経験したベネッタだからこそこの短時間ですんでいるが、セーバはそうはいかない。
鬼胎属性の魔力を浴びて、まだ立っていられるだけでも賞賛を送るべきだろう。しかし、その心は完全に折れている。ただ黙っている事しかできていなかった。
「私が時間を稼ぐわ」
その言葉にベネッタは首を横に振った。
嫌だ。嫌だ。それは嫌だ。
エルミラが何をしようとしているかがわかってしまうゆえに感情のまま首が否定する。
「だめ……駄目だよエルミラ……」
「あいつとまともに戦えるのは今あんたと私しかいない……! あいつの魔力下で動けるあんたがいないと怪我人が出た時に被害がただ増えるだけになる……お願いベネッタ……! そっちはあんたにしか任せられない!」
「で、でも……でも……」
「どれだけ稼げるかわからない……だから後ろの人達を避難させて。そんで……知らせて。お願い」
エルミラの声でベネッタは後ろを振り向いた。
「あ……う……」
「ぅ……や……!」
大通りには毒によってうずくまり、倒れ、そして大嶽丸の存在に怯えている王都シャファクの住人達。
鬼胎属性の魔力を持つ大嶽丸の存在によって、まともに動ける人間は誰一人いなかった。
毒に侵されているいないにかかわらず、まともに立てる人間すらいない。壁に体を預けたり、床を這って逃げようとしている人までいる。
鬼胎属性の圧力は恐怖から生まれる。この場に必要なのはそんな恐怖をやわらげる一筋の希望だった。
自分達に寄り添ってくれる存在。恐怖に怯える精神を支える支柱。そして――恐怖の根源と戦う誰か。
この場でそれになれるのは……自分達しかいないのだとエルミラはよくわかっている。
あの日、あの山の自分も……後ろに大勢いる怯える誰かだったから。
「エル……ミラ……!」
ベネッタは言いたい言葉を全て飲み込んで。
「……ボク、頑張る」
エルミラのお願いを受け入れた。
「うん、よろしく」
「セーバさん!」
ベネッタはセーバの頬を両手でパチン、と気付けのように叩く。
大嶽丸に釘付けになっていたセーバの視線はベネッタへと向いた。
「倒れてる人達を助けないとー! 早く! ボクと一緒に!」
「あ……」
言われるまま、ベネッタに手を引かれてセーバの足が動く。
まだ震えてはいるものの、大嶽丸から視線が外れたのもあって何とか動く。
後ろから聞こえるは住民に呼びかけるベネッタの声。そし治癒魔法と使える魔法使いと、自国の貴族が来てくれたという安心感に動く気力を取り戻した住民達の声が戻っていく。
だが、エルミラは振り向かない。自分の役目は今後ろには無いと知っている。
「お願いね、二人とも」
優しい呟きは決意のようで、エルミラは眼前の男を睨む。
大嶽丸に大通りの住民を避難させ始めた二人を追う気配は無い。
大嶽丸が今求めているのは目の前の、エルミラという人間だけだった。
「さて……今生の別れはすんだか?」
「は? あんたを殺せばすぐに会えるけど?」
両者は対峙する。
片や日月を思わせる妖しい瞳。片や覚悟を秘めた紅玉の瞳。
視線は交わり、恐怖に抗う一幕が始まる。