313.休息日5
「私とファニア殿で拷問した所によりますと、あの密偵が入り込んだのは一月ほど前のようです。顔を使われていた使用人の居所も吐かせました」
ガザス王城の執務室。
せっかくの休息日だというのに机に置かれた書類を確認するラーニャと傍らに立っている酒呑童子に、エリン・ハルスターが昨日捕えた密偵についての報告を行っていた。
世間的には休息日なのだが、全ての人間が休めるとは限らないのである。
「すぐに保護してください。顔を使われた使用人を。衰弱しているでしょうから体調が回復したら話を聞かせてもらいませんと」
エリンの報告に指示を出しながら書類に目を通すラーニャ。
北部のとある領地からカエル税の導入についての協議、などという一見すると馬鹿馬鹿しい報告書にも真面目に目を通さなければいけない。
「すでに昨日の深夜保護しました。丁重に扱われていたのか思ったよりは衰弱はしておらず、先程起床しています。今は他の者に話を聞かせています」
「流石、仕事が早くて助かります。エリン」
「恐縮です」
「毒のほうは何か?」
「何の毒かはまだわかっていませんが……感知魔法で調べさせた所、遅効性で頭痛や腹痛、体の痺れなどが十日から二週間ほど続くそうです。それ以降は呼吸困難や意識の消失などの症状が現れ死に至るのではと推測しております」
昨日のアルム達との情報共有の際、ガザス側のカップにだけ毒が混入されていた事が判明した。
ファニアが捕縛した密偵の仕業だという事は当然わかっているのだが……毒で引き起こされる症状を聞いてラーニャは手を止める。
「即効性であろうと遅効性であろうと私達のような魔法使いや酒呑にはあまり効果は無いでしょうが……何故わざわざ……?」
「毒の使い手がただ悪趣味なだけという可能性もあるが……介抱する人間に人員を割けるから、というのが理由だろう」
人間がよくやる手だ、と酒呑童子は補足する。
ラーニャは一旦書類を後回しにするように机の横に追いやった。
「つまり、私達では解毒できないと考えている?」
「実際、エリンの話では感知魔法で症状は推測できても何の毒かは判明していないんだろ?」
「ええ、面目ないけどシュテンの言う通りわかってないわね……」
「エリンを責めているわけじゃない。ただの確認だ」
エリンは不甲斐なさそうにしているが、別にエリンの落ち度ではない。そんな事はラーニャも酒呑童子もよくわかっている。
「自然毒の可能性がありますね。ガザスに生息していない生物の」
「カンパトーレが自国でそんなものを急に発見できるとは……。マナリルかダブラマのものではないでしょうか」
厄介ですね、とラーニャは呟く。
マナリルのものならともかく、ダブラマのものだった場合、解毒薬を手に入れる手段が無い。
去年ガザスに接触してきたダブラマの使いマリツィア・リオネッタとの交渉は平行線で終わり、以降ダブラマからの接触は無いのだ。
敵が毒を使ってくるとなれば作るしかないが……そんな猶予が果たしてあるのだろうか。
早ければベラルタの留学メンバーが帰国した直後にでも仕掛けてきそうなものだというのに。
「毒が入ってきたルートは? あの密偵が持ち込めるとは思えませんが」
「シクタラスから来た商人の荷物に紛れ込まされたようです」
「シクタラス……?」
場所を聞いて、何か引っ掛かるものを感じるラーニャ。
シクタラスの町は当然ラーニャが知らないはずはない。
王都シャファクの北東にあり、第三区画と第四区画の井戸の水源がある山の麓にある町だ。マナリルから来た宮廷魔法使いヘルムートが今滞在している場所でもある。
解せないのは、魔法使いを配備しており、警備や商品の検閲も厳重なシクタラスとこの王都シャファクにどうやって毒物を持ちこんだのかだった。
ガザスでは見ない毒だったから見逃してしまったのだろうか……?
「ええ、王城への物資も運んでいる商人の一団で滞在中の所を連行しました。今衛兵達が話を聞いている所です。まだ報告が来ていませんか?」
「はい、今日はエリンが――きゃ!」
「!!」
「陛下!?」
ラーニャが突然驚いたような小さな悲鳴を上げた。
エリンは勿論、酒呑童子ですら何が起こったのかがわからない。
それはラーニャだけが知り得る情報。エリンが報告している間にも飛び交っていた妖精達の異常によるものだった。
異界伝承を使わずとも、エリンの周囲には常に複数の妖精が飛び交っており、今日も思い思いに執務室を飛んでいたのだが……突如、執務室を飛んでいた妖精達がラーニャの髪の中に潜るかのように集まり始めたのである。
「何が……」
妖精達の動きに困惑していると扉からノックの音が聞こえてきた。
「どうぞ」
「失礼します!」
入ってきたのは王城に勤務する衛兵だった。
衛兵は執務室に入ると、ガザス式の見事な敬礼を見せてくれる。
「この度使われた毒物を輸送したと思われる商人の一団の事情聴取を指揮しておりました"ロルクラ"と申します。話を聞いたところ不審な点がございましたのでご報告に上がりました」
「不審な点?」
「それが……今回連行した商人全てが口裏を合わせたように、シクタラスで取引した相手を思い出せないというのです。それどころか全員、シクタラスで何をしていたか忘れたと」
その報告に執務室にいた者の反応は三者三様だったが……どれもその言葉を信じてはいないようだった。
ラーニャは怪訝そうな顔を浮かべ、エリンは苛立ちをため息で誤魔化している。酒呑童子の反応はただ薄い。
「……全員? 同じ部屋で聞いたのですか? 話を」
「いえ、個別で別々の衛兵をつけて話を聞きましたが……全員がただ忘れたと」
「言い逃れするにしてもお粗末な言い訳ね全く……大方、金を多く積まれて運び屋として利用されたのでしょう」
商人が取引相手は疎か取引した場所で何をしたかを忘れたなど、信じるほうがどうかしている。
エリンが言った通り、金に目が眩んで運び屋として使われたと考えるのが自然だろう。
「……わす……れた?」
だが、何かが引っ掛かるラーニャ。
そんな言い訳が通用しないのはわかっているはず……それに衛兵の報告が真実だとすればいくらなんでもおかしすぎる。
シクタラスで何をしたのか忘れた。
それはもう……言い訳の体すら成していないではないか。
商人達は本当に言い逃れしようとしてそんな事を言ったのだろうか?
「エリン、そういう魔法の可能性は?」
酒呑童子が聞くと、エリンは首を横に振る。
「記憶を覗く魔法はあるけど、消したりする魔法は作ったところで人間には使えないのよ。記憶はその人を形作るものだって私達は無意識に理解していて、侵してはいけない領域という共通の認識が備わってるの。だからその魔法を使っても"現実への影響力"を引き起こせない。感知魔法を使ってもアルバムみたいに覗いたりするのが限界って所かしら」
「流石女王護衛付き……魔法への造詣が深いようで何より」
「私の愛読書テルパラト・ラヴァーギュ著『記憶のカーテン』から引用」
「……丁寧な紹介痛み入るが、私は本を読まないぞ」
はっきり読まないと断言されわかりやすく肩を落とすエリン。
自分の趣味が誰かに受け入れられないというのは悲しいものである。それが好ましい相手であれば尚更だ。ひらひらと、腕の通っていないエリンの軍服の袖が物悲しく揺れている。
「人間……では……」
ラーニャは次に自分の髪に隠れている妖精達に触れた。
妖精は他の者には見えなかったが、ラーニャの髪から出ようとしていなかった。ラーニャは妖精達が何かから隠れようとしているのかと思ったが、妖精達から怯えや恐怖は伝わってこない。むしろ……何かからラーニャを守るような意思を感じる。
……一体何から?
「そういう……事なの――?」
そこで最悪の図が思い浮かぶ。
密偵が毒物を仕掛けたタイミング。
遅効性の毒物。
遅効性の毒物を使ったことについての酒呑童子の見解。
毒物の搬入ルート。
王都を潤す水源。
記憶の無い商人達。
そして――妖精の異常。
ラーニャはその全てを最悪の推測で繋げてしまった。
「第三区画と第四区画に危険勧告を出してください! 水を使わないようにと!!」
勢いよく立ち上がりながらラーニャが大声を上げる。
一瞬、衛兵どころかエリンや酒呑童子も何を言っているのかわからないといった様子だったが。
「急いで! 一刻も早く!!」
「か、かしこまりました!」
ラーニャが声を荒げると、報告に来た衛兵ロルクラは逃げるように走っていった。
窓の外に昇る太陽の位置を見てラーニャは苦い表情を浮かべた。
すでに外は昼時。太陽は空の頂点に昇りかけている。
「甘かった……! エリン! ウゴラスに連絡を!! このままでは……!」
エリンと酒呑童子はまだラーニャが何を焦っているのかがわかっていない。
ラーニャをここまで焦らせるのはガザスを狙うあの鬼しかいないだろうが、ガザスを狙うあの鬼には毒の能力も無ければ、人の記憶に干渉する能力も無い。
常世ノ国にいた時から面識のある酒呑童子は特に知っていた。
「いつから……! まさか、ずっと? いえ、長く続けば気付く者が現れる……という事は数日前が妥当でしょうか……!」
ぶつぶつと焦燥するラーニャ。そこにはエリンや酒呑童子が知っているような普段の余裕は無かった。
「落ち着けラーニャ、シクタラスにはマナリルの宮廷魔法使いもいる。異常があれば連絡が来るはずだろう。それに奴の能力はお前やエリンも知っているはずだ」
「シュテンの言う通りです。シクタラスには宮廷魔法使いのヘルムート殿がおります。何かあれば伝令くらいは……」
「……二体、いるとしたら?」
ラーニャの表情は驚くくらい青ざめていた。
自分でも、あまりに救いの無い想像をしているとわかっている為に。
遠回しに落ち着くように諭す酒呑童子とエリンもそこで絶句する。二体……それが何を意味するかを理解できてしまうからこそ。
ここにいる三人は魔法生命の力をその身で嫌というほど知っているだけに、ラーニャの想像はあまりに絶望的だった。
「この国を狙っているのはあの鬼だけだと思い込んでいました……けれど、魔法生命は複数いるんです。ここに酒呑がいるように」
当然の事ではあるが、魔法生命はガザスを狙っている者だけではない。
ミレルを襲った大百足、大百足と敵対した白龍、スノラを支配しようとした紅葉に、ベラルタを迷宮で閉ざそうとしたミノタウロス……様々な魔法生命が存在する。
ゆえに……ガザスを狙っている魔法生命が一柱だけ、と思う理由など本来はどこにも無い。
敵であるはずの魔法生命、酒呑童子がラーニャの傍らに立っているように……ガザスを狙うあの鬼につく魔法生命がいないと誰が言えるだろうか。
「私の推測にすぎません……ですが、奴ともう一体、記憶を操る魔法生命がいたとしたら……! シクタラスで起こっている何かを忘れさせる事が出来る魔法生命がいたら、来ないのではないですか……? シクタラスからの連絡は……! 例えば、毒物を持ち込んだ怪しい人物の存在も、シクタラスにある水源に毒を入れるような所業も――忘れさせられたら異常が起きたと思う事すらできません……!」
例えば、そんな悪魔のような魔法生命がいたとしたら。
商人達のおかしな言い訳も説明がついてしまう。
そう、そんな魔法生命がいたとすれば……ガザスはすでにその消されている記憶の日数分の情報の伝達が出遅れている事になる。
周辺の町の異常も、不審な人物の情報も、王都が手に入れられない状態がすでにその魔法生命によって作り上げられていたのだとしたら?
「酒呑……心当たりはありませんか……?」
震えるラーニャの声に、酒呑童子は常世ノ国にいた頃の記憶を探る。
だが、わからない。思い出せない。
そこで酒呑童子は気付いた。
まるで抜け落ちたかのように、常世ノ国にいた時の自身の記憶が不自然に欠落している事を。
「魔石――!」
執務室に置かれた人間の頭ほどの大きさの通信用の魔石が光る。
ラーニャはすぐに光っている魔石に触れた。
『大変です陛下! 第三区画と第四区画で――』
――全てが遅すぎる。
魔石を通じてされる報告に……ラーニャはただ唇を血が滲むまで噛む事しか出来なかった。
「記憶とは決して途切れぬ信仰だ」
ガザス王都シャファクのメインストリート。先程エルミラ達やアルムとミスティも通った場所。
流れている運河にかかっているアーチ状の橋の上で、真っ白なローブを纏い、身長ほどの杖を持った何者かが見事な装飾の施された欄干に寄りかかっていた。
慌ただしく、とある方向に走って行く衛兵達の姿が目立つ。
「人間という個を作り上げる記録であり、その再生への信頼は秩序を生む。情報を伝達する前提であり、社会を絶えず動かす為の支柱。人間という生物が集団で生きられる理由であり、国という巨大な集団を形成できる根幹。――ゆえに、忘却によって人間は停滞する」
手を繋ぐ親子、笑い合う友人、腕を組む恋人、客と取引する店員、店と取引する商人に至るまで。
ここから見える全ての人間は曖昧であり、確固たる記憶という人間の機能を信仰する事によってその関係を作り上げている。
記憶に無い大人を親と呼ぶ子がいないように、記憶に無い他人を友人や恋人と呼ばぬように。
店員であるという記憶があるからこそ店員は商売に向かい、取引相手を記憶しているからこそ商人は取引先に辿り着ける。
記憶の積み重ねこそが、人間の営みを積み重ねる。
何故歴史を記録しなければならないのか?
それは人間という個人が、社会が、恐れているからに他ならない。
自分達が積み重ねた記憶が無に帰す――それがどれだけの喪失と停滞を生むのかを本能で理解しているから。
「一つ一つは些細なもの……シクタラスに訪れた怪しい商人の一団の記憶、紛れ込まされた毒物の記憶、水源に向かう謎の貴族と荷物の記憶、そして蹂躙されたマナリルの宮廷魔法使いの記憶……本来伝達すべき記憶も忘却しては起きなかった事と変わらない。そして、伝わらなければ起きていないのと変わらない」
橋を行き交う人々は白いローブを身に纏った人物に目もくれない。
シャファクの住民にとっては変わらない日常がそこにはある。今だけは。
「ガザスの諸君には悪いが……私は一国の民達よりも、私の願いを優先する。今ここで……あれの怒りを買うわけにはいかないのでね」
そう、自分の願いの為ならば国さえも犠牲にする。
魔法生命とはそんな――自己を掲げる生命の集まりなのだから。
「君達が味わっているのは無意識に欠けただけのたった数日の忘却だ。永遠の忘却など有り得ない。今日が終われば、全てを思い出すだろう。だが……その数日が致命的な空白となる」
ローブの下で彼女は笑う。
「永遠の忘却があるとすれば――それはきっと現実などではなく、ただの幻だったのだろうさ」