312.休息日に向けた策謀
休息日から数日前の事――ガザスのとある山中を家紋の入ったローブを身に纏った男を先頭にした一行が歩いていた。
「いい山であるな……」
長身で白髪、そして白い髭を蓄えながらも体つきは若々しい、老紳士を思い浮かべるような顔つきをした男がそう呟いた。
しかし、そう思っていたのはその男だけ。
後ろでは息を切らしながら荷物を運ぶ平民の男達が十人ほどいる。彼等はこの山の麓にある町――シクタラスという町で雇われた町人達だった。
先導している男に半月は暮らすに困らない金で雇われ、二人がかりでなければ持てないほど大きく重い箱をどういうわけかこの山に運ばされている。
「申し訳ないシクタラスの諸君……私の部下は長旅の疲れと山に慣れておらずどうも不安でね。現地の君達に頼る事になってしまった。もう少しの辛抱だ」
男は振り返ると自身の髭を撫でながら、後に続く男達を労う。
普段、貴族から労われる事など無い男達はその言葉に疲労も吹っ飛んでしまう。自分達は今、貴族に頼られているという高揚感が男達の体力を山に登る前にまで戻した。
ローブに書かれている家紋とガザスの国章は貴族の証明。平民である彼等にはその家紋がどこのものかはわからないが……自分達の国の国章くらいは当然知っている。
タロルス家の家紋とガザスの国章が彼等に祖国の為に働いているという実感を与えていた。
「いいえ! 安くない給金を頂いていますし……ガザスの民として当然です」
「いやはや、やはり王都の近くともなると平民一人の気概が違いますな……私としても喜ばしい」
穏やかな笑みを浮かべる男はローブを翻して先へと進む。
荷物を運ぶ平民の男達の歩く速度も上がっていた。
「ガザスはどうでしょう。よい国ですかな」
背中を見せたまま、ローブを纏った男は後ろで荷物を運ぶ平民達に問う。
「はい、そりゃ隣のマナリルやら北のカンパトーレは恐ろしいですが……美しい文化と景色の下で過ごす事の出来る国ですから」
「女王様も、美人で優しいしなぁ」
「そうですか、それは何よりだ……カンパトーレの侵攻については不安にさせて申し訳ない」
「な、なにを仰るんですか!」
ローブを纏った男に顔を背けるような素振りを見せられて、平民達は動揺する。
そんなつもりで言ったわけではないが、他国を恐ろしいと口にするのはこの国を守っている貴族を責めてしまうような言い方だったのかもしれない。
「貴族様のせいではありません! こうして私達が平和に暮らせているのは貴族様のおかげですから!」
「そう言って頂けると……自分の行いにも自信が持てますよ」
そんな会話をしながらも鬱蒼とした草木をかきわけ、若干ぬかるむ地面を踏みしめながら進むと……目的地に到着する。
決して大きいとは言えない池だが、清水が湧き出しているのがローブを纏った男には手にとるようにわかった。
王都の一部の井戸にも伸びているシクタラスの水源その場所である。
「目的地に着きました。ご苦労様です」
ローブを纏った男の号令で、平民の男達は一斉に荷物を下ろす。
疲労からかその場に座り込む者が後を絶たない。
「貴族様……それでここで何を?」
「水質検査ってやつですか?」
「水質……ええ、似たようなものです」
平民達の問いにローブを纏った男はにっこりと答えて。
「『毒牙の邪水』」
座り込む平民に対し、躊躇なく魔法を唱えた。
「え?」
蛇を象った毒々しい水の塊のような魔法が平民の首に食らいつく。
目の前で起きた事が一体何なのか処理することができない。
その魔法で座り込んでいた平民の男が二人倒れるのを、周囲の男達はただ見ることしかできない。
「貴族……様……?」
ローブを纏った男に一番近い平民が震えながら、縋るような目で問い掛ける。
貴族様。
その呼び方は間違っていない。
だが、どの国の貴族であるかは話が別。
「ええ、貴族様です。ただし……この国のではありませんがね」
先程と変わらぬ笑顔だというのに、男の笑顔は今では何よりも恐ろしかった。
髭を撫でるその動作は殺害予告にすら見える。
「う、うああああああああ!!」
平民の男達は悲鳴をあげて逃げ出す。重い荷物を運んだ体の疲労など気にしてはいられない。
この場にいれば地面に転がる二人の男の無残な姿が自分達の未来となるのは明白だ。
足が折れてもいいという決意で下山を試みるも。
「おや、危ないですよ」
倒れた二人の男の首元から、効力を失っていない蛇が逃げ出そうとする平民の首に順番に食らいついていった。
その速度は男達が駆ける速度とは比べ物にならない。
……魔法使いとは超越者。
二流、三流の魔法使いならばともかく、普段から魔法によって強化される魔法使いを相手する魔法使いの魔法が、疲労で走力も落ちた平民を捉えられぬわけがない。
「ひっ!」
「ぎ……っひ……!」
「かぴゅ……」
液体で出来た二匹の蛇は一人殺すと一回り大きく、もう一人殺すとさらに大きく成長していった。
悲鳴が止み、断末魔も途絶え、惨劇だけがその場に残る。
ここまで荷物を運んできた平民の男達は全員地面に倒れており……成長した二匹の蛇がずるずると、亡骸を踏みつぶしながら使い手であるローブを纏った老紳士――カンパトーレの魔法使いの元へと戻っていく。
「おれ、だちは……何を……」
「おやおや、素晴らしい生命力だ」
一人だけ、まだ意識のある平民が声を上げた。
誰が見ても、放っておけばすぐに死んでしまうとわかる量の血を首からゆっくりと垂れ流している。
魔法の使い手はぱちぱちと乾いた拍手で賞賛を送った。
「敬意を表してお教えしましょう。あなた達が運んでいたのは毒ですよ。この水源を汚染する為のね」
変わらぬ笑顔のまま言い放つ老紳士風の男。
倒れている平民は正気を疑った。よくもそんな残酷な事が行えると。
確かに給金に釣られたのは認めよう。けれどガザスの……祖国の為と信じてここまで運んできたのに。
自分達は……自分達の国を脅かすものをずっと汗水たらして運んでいたのか……!
「し……ね……」
最後に、意識があるうちに言える最短の呪詛を吐き捨てると意識のあった平民も事切れる。
「ええ、いずれね」
てきとうな言葉を返して、一人だけ残った男は平民達に運ばせていた箱を開けた。
中には緩衝材として詰め込まれた白い花とずらりと並べられた瓶の数々。
"余を楽しませてみよ"
老紳士風の男……カンパトーレの魔法使い――"ビクター・コーファー"に下された命令はそんな命令とすら言えない抽象的なものだった。
抽象的なものだったが……自分という魔法使いが雇われた以上何を求められているのかはわかっていた。
味方には薬を以て生を、敵には毒を以て死を。
自分が出来る事はこのどちらかしか無い。そして前者を求められていないのは明白。
ならば選択肢は一つしか無い。いかにして敵に、混乱を、辛苦を与えるか。
「それにしてもここまで上手くいくとは……魔法生命の力というのは何とも凄まじい。ただ忘れるというだけでこうも扱いやすくなるとは。いや、恐ろしきはその魔法生命すらも支配下におけるあの方の力か」
今ビクターがいる山の麓にある町シクタラス。マナリルの宮廷魔法使いヘルムートを筆頭にガザスの魔法使いも常駐しているガザスでも強固な町だが……その町はすでに陥落している。
しかし、その異常に住民達は決して気付けない。
町を守っていた魔法使いや衛兵の存在を……その記憶から忘却してしまっているから。
魔法使いや衛兵がいないだけの日常を、シクタラスに住む住人は疑いも無く過ごしている。
「さて、あの方はこれで喜ばれるでしょうかね……終わればすぐに国境近くのコルトスに移動しなくてはいけないというのだから……老骨には辛い日程ですなぁ。カンパトーレの人員不足も冗談ではすまなくなってきたという事でしょうか」
ビクターはやれやれと少し愚痴を零していると。
「む」
がたがた、と運ばせていた箱の一つから音がし始める。
中で動くような、もがくように箱は揺れていた。出ようとしているというよりは、何かを求めているように音は繰り返される。
ビクターは口元で笑って。
「もう少し眠っていなさい。すぐに出してあげますからね」
その音のした箱を、自分の髭を撫でた時のように優しく撫でる。
中からの音は聞こえなくなっていた。