303.願い
「あ、きたきた」
「っ!」
アルムとベネッタが食堂に入ってきたのを見てエルミラが声を上げる。
ミスティは平静を装えるように深呼吸する。
「やっとこれたー!」
「はいはい、何か騒ぎになってたみたいね?」
二つ席が空いている中、ベネッタは当然のようにエルミラに近い方に座り、アルムはミスティに近いほうに座った。
「お疲れ様です、アルム」
「……? ああ、ありがとう」
何かミスティの様子がおかしいような?
いつも通り綺麗な笑顔が、何処かぎこちないように感じつつもアルムはマルティナに渡された袋を椅子の横に置く。
「……それは、なんですの?」
「俺の上着だ。洗ってくれた人がいてな」
「そういえば、シャツのままですものね……」
それは先程、ここにいたマルティナが持っていた袋と同じ袋だった。
駄目。
せり上がってきた感情を口にしないよう、アルムから目を逸らし、ミスティは紅茶のカップに口をつける。
いつもなら、その香りと味を楽しむべくゆっくりと飲むのだが、そんな余裕は無かった。
今日はどの茶葉を使っただろう。
そんな事もわからないほどに、香りも味もしない。
全部、全部、全部。本来自分が楽しんでいる感覚が消されている。
喉を通ったのは香りも味も無く、それでいて白湯のような柔らかさもない。
いつも飲んでいるはずの紅茶が重苦しくミスティの喉を通り過ぎた。
苦しい。
アルムについての噂など、アルムがどんな人か知らないタトリズの生徒があれこれ流しているに決まっている。
そう、間違いなく噂は誤解なのだ。
(けれど……)
そうして、自分で納得させられるほどミスティという人間が強くない事も知っている。
アルムは世俗離れしているところがある。相手の女性が誘ったら? そういう文化なのかと受け止めてしまいそうな部分が無いと言い切れない。
アルムは鈍く、常識から少しずれているが、女性を女性として見てもいる事は今まで一緒にいてわかっている。だからこそ、アルムだからと割り切る事が出来ない。
上着の入った袋というただ一つの物証がミスティの心をこれでもかと揺れさせる。
今どんな顔をしているのだろうか、声色は暗くなっていないだろうか。
混ざる。
理性と感情が悪い形で混ざっていく。
好きな人がいる人はこんな苦しい思いをして……誰かと添い遂げたり、離れたりしているのだろうか?
こんな、どう形容していいかもわからない複雑な感情を抱えながら生きている人達をミスティは心底尊敬する。
自分は今、外に出さないようにするだけでも精一杯だというのに。
「それで……何であのマルティナって人がアルムの上着持ってたの?」
「えっとねー」
エルミラがベネッタに聞こうとすると。
「ベネッタ」
「へ?」
「あの事は言うなよ」
すぐさまアルムが制止した。
睨むような目にベネッタは一瞬びくっとする。
「で、でもマルティナさん……」
「あれはマルティナだから言ってよかったんだ。俺達が言いふらしていいわけじゃない」
「はーい……」
アルムの言い分はもっともだと納得し、ベネッタはアルムの制止に従う。
「……ベネッタには言えるんですのね」
誰にも聞こえない声で、つい呟く。
はっ、と気付いてミスティは自分の口を押さえるように手を当てた。
(今……)
今自分はなんて?
当事者であるマルティナさんだけでなく……ベネッタにまで、嫉妬した?
内心でベネッタに何度も謝りながら、自分を振り回す感情にミスティは泣きそうになる。
違う。
こんな事、思いたくない。
ベネッタはただ聞いてしまっただけかもしれない。
話せない理由があるなんてアルムの言い回しを聞いていればすぐにわかる。
アルムはそんな誰かの理由をずっとずっと、大切に守ってくれる人だから。
自分が傷ついても守ってくれる、そういう優しい人だから。
だからベネッタが話すのも止めた。
ベネッタが普通に話そうとしたという事はきっと、噂は噂通りなんかじゃない。
そう、話せないだけ。ただそれだけ。
アルムはマルティナさんの何かをただ守っているだけ。隠そうとなんてしていない。
わかってる。
――わかってる……のに。
(嫌……)
消えない。
消えてくれない。
何も無いってわかってるのに。
どうやったら消えてくれるの?
胸の中に醜いものがずっとある。へばりついているみたいに。
苦しい。
耐えられず、宝石のような青い瞳には徐々に涙が滲んでいく。
「上着はただお礼にと洗ってくれただけだ」
「……というわけで、言えない事情があるんだってー」
ベネッタがそう言うと、あれ見なさい、とミスティのほうを見るように促すようにエルミラの目が忙しなく動く。
ベネッタはようやくミスティの様子に気付いた。
一見普通に見えるが、その表情には影が落ちている。瞬きも多く、涙を我慢しているのが見て取れた。
「あ……う、うう……」
ベネッタは揺れる。
アルムの制止と目の前のミスティの表情。その両方の間で。
言えばアルムは怒る。怒るだけならまだしも……もし失望されたら? そう考えるだけでベネッタの背筋がぞっとした。この場所をくれたきっかけであり、自分の在り方の支えにもなっている友達に失望されたくない。
言わないとミスティは暗いまま。こんなミスティは見たくない。最近ずっと幸せそうで、こんな素敵な人になれたらとつい思ってしまうような自慢の友達がこんな表情をしてるなんて。
「ボク……どうすれば……」
ベネッタは頭を抱える。
エルミラもどうしたものかと話の切り出し方を模索している時。
「アルムの制服をマルティナ殿が持っていたから二人は恋仲になったって噂が流れてたけど、実際どうなんだい?」
「ちょっ!?」
ルクスは堂々と嘘を織り交ぜて噂についての真偽を聞く。
実際は恋仲というよりは、もう少し下卑た噂だったがそこはどちらでもいいだろうと考えて。
「何だそれは……そんな事有り得ないだろ……」
アルムは眉をひそめながらルクスの問いにそう返す。
「どうしてだい?」
「俺は平民だぞ。貴族が俺とそういう仲になるメリットが無い。それに、周りに顔も才能もいい貴族がいるのにわざわざ俺とそういう仲になろうなんて酔狂な人いるはずがない。いくら貴族の知識に疎くてもそのくらいはわかるぞ」
「そうかぁ」
(いる……)
(いるー……)
エルミラとベネッタの視線がミスティに向く。
アルムの口から噂が否定されたからか、ミスティの表情は心なしか明るくなったように見える。
ルクスの狙い通りだった。
アルムは嘘をつくのが下手糞という共通認識がこの五人にはある。
ならば、変に誤魔化しながら聞くのではなく、気になった事は直球で聞いてしまうのが一番確実なのだ。
そして間違いなく、噂についてアルムは嘘をついていない。
さらに……ルクスはルクスしか知らない情報を持っている。ゆえに、この場を解決する事などこの少年にとっては簡単なのだ。
「でもマルティナ殿は綺麗な人だっただろう? そんな人と少しでも噂になるって事は……もしかしたら可能性はあったかもしれないよ?」
「いや、確かに綺麗な人ではあったがそれは無い」
エルミラの目がルクスを批難する。
せっかくいい流れになりかけていたのに何故そんな話を切り出すのかと。
「お、綺麗なのは認めるんだね。どうだい? マルティナ殿は今まで出会った中で一番綺麗な人だったかい? 女性として魅力的かどうかって意味で」
「いや、それはないな。ミスティがいるから」
ルクスの質問に悩む素振りすらなく、アルムはきっぱりとそう答えた。
エルミラとベネッタは驚愕で目を見開き、ミスティは顔を上げてアルムの横顔を見た。
そう、この中でルクスだけは知っている。
ベネッタが入院していたあの時。雨の日の病室で交わしたアルムとルクスの珍しい会話。
アルムに女性の好みを問い掛けた際、ミスティと即答した事を。
だからこそ、ルクスはこういった形に話を誘導した。
この場全ての憂いを吹き飛ばすアルムの一言を引き出す為に。
「というより……俺はミスティより綺麗な人を知らん。ルクスはどうなんだ?」
「そうだな……誰をそう思うかは人それぞれだからね。本人を前に失礼だが、僕が魅力的に感じる人は別にいる」
「なるほど……それは確かにそうか」
「そういえば……アルムもベネッタも昼食はいいのかい?」
「ああ、そういえば……ベネッタ、貰いに行こう」
「あ、ボクは大丈夫。お、お腹減ってないから」
「そうか? じゃあ行ってくる」
そう言ってアルムは席を立つ。
「あんたね……あいつが帰ってくるまでにそのにやにやとした表情直しておきなさいよ?」
エルミラはミスティを見て呆れたようにそう忠告した。
ミスティは頬を赤らめ、嬉しさを全く隠さない口元が緩み、にやけてしまっている。
(なんで……?)
たった、一言。
たった一言で自分では全く消せなかった醜いものが吹き飛んだ。
もう何も苦しくない。それどころか、嬉しくてたまらない。
噂が流れる経緯も、何故上着をという疑問も、アルムが秘密にするように言ったあの事とは一体何なのかという疑問さえ、今となっては何も気にならない。
紅茶の香りも、食堂にいる他の生徒の雑談も、この場に漂う空気すら、鮮明に感じる事ができる。
自分の様子を見て、このテーブルにいる友人達がその身を案じてくれた事も。
「御心配をおかけしました。……それとベネッタ、ごめんなさい」
「へ? なにが?」
「何をと言われると少し恥ずかしいので……何も言わず貰ってくださると嬉しいです」
「そ、そうー? ボクこそ何も言えなくてごめんね?」
「いいえ、アルムが止めたという事はきっとマルティナさんにとっては知られたくない事なのでしょう」
ベネッタに謝罪して、ミスティはアルムの背中を目で追った。
ようやくまともに、アルムの事を見れた気がする。
私がアルムに抱いている感情はとても複雑なのかもしれないけれど、私はきっと単純だ。
さっきまであんなに苦しかったのに、あなたの一言でこんなにも世界が色づいている。
この気持ちに振り回されたくない。自分の醜さを思い知らされるから。
でも――この気持ちはずっと持っていたい。私をこんなにも、幸せにしてくれるから。
「来たね……アルム」
一人の女性は呟いた。
周囲には人が大勢行き交っていた。他の村や町から来た商人、走り回る子供から巡回している衛兵、買い物に勤しむ近所の奥様まで様々だ。
それも当然。ここは様々な店が立ち並ぶガザス王都シャファクの中心街。
遠目には美しいタトリズ魔法学院の本棟と、ガザスの王城も見る事の出来る広場だった。
「これ以上は流石に……あの鬼に勘づかれてしまうかな」
女は左手に見える王城に目をやる。
まだ気付かれるわけにはいかなかった。
全てはこれから。いや、正確にはもう始まっている。
「ああ、一目……君の事が見てみたいね」
女性は真っ白で高級そうなフードと真っ白なローブを着ており、その手には杖があった。
昔ながらの魔法使いそのものの姿をしたその女性は何をするわけでもなく立っている。
色鮮やかな衣服や敷物が多いこの国では目立つ服装だというのに、誰もその女性を見ていない。
巡回する衛兵は女性の目の前を通り過ぎ、店の商品に悪戯するような好奇心旺盛な子供達はその女性に目にもくれない。
まるで、その女性がいる事に気付かないかのように。
「……私は幻想だった」
その声すら届いていないのか。
喧騒の中、女性の声はこんなにも響くのに。
「だから……私という幻想を現実にする為には何でもしよう。私という偽りの存在がここに在る意味、生きる理由……それは私自身の願いに他ならない」
誰も、彼女を見ていない。
「だからこそ、私は絶対にこの願いを叶えてみせる――たとえ、君が私の事を忘却したとしても」
その声は――呪いのような、祈りのような響きだった。
いつも読んでくださってありがとうございます。
そんな皆様にご報告しなければならない事があります。
な、な、なんと!
白の平民魔法使いがKADOKAWA様より書籍化する事になりました!パチパチパチ!
これもずっと応援して下さった皆様のおかげです。本当にありがとうございます。
まさかと思う気持ちで正直実感はまだないのですが、これから緊張していく事になると思います。
発売日は11月13日となります。今月です! 11月13日です!
是非、各種サイトさんで「白の平民魔法使い」と検索して予約して頂けると嬉しいです。
これを機に自分のTwitterのほうでも更新のご報告や諸々を行おうと思いますので、気になる方はそちらもよろしくお願い致します。今までTwitterのほうでは一切この作品の事を出していなかったので、こっちのほうが現実感あって緊張していたりします。
これからも白の平民魔法使いを、そしてらむなべをよろしくお願い致します。