302.練習の成果
「いっつ……」
暴走するナーラを止めていた常識人のタトリズの少年セーバが目を覚ます。
彼が目を覚ました先には綺麗な翡翠の瞳と笑顔があった。
訓練場の天井が見える事から、自分はどうやら寝かされているようだ。
「あ、よかったー……気付きました?」
この少女は一体? 確か、ニードロス家の……。
セーバはまだ状況がよくわかっていないのか、ぼーっとした表情でぱちぱちと瞬きをする。
「こぶになってなくてよかったですねー」
後頭部に心地よい柔らかな感触と痛みの残る部分を優しく撫でられている感覚。
この少女に撫でられているのだろう。いつも跳ねてしまう寝癖のような髪が、撫でられる度にぴょこぴょこと動いていた。
「んん!?」
「わっ!」
それはおかしいだろう、とセーバは勢いよく起き上がる。
起き上がってすぐに振り向くと、床に座り込む少女――ベネッタ・ニードロスは驚いたような顔をしてセーバを見ていた。
「あれ……? っと、どう……?」
混乱しながらも、セーバの目は自然と自分の頭が枕にしていたであろうベネッタの膝にいってしまう。
心配そうなベネッタを他所に、後頭部の感触が蘇ってわかりやすくセーバの頬が赤くなる。
「大丈夫ですかー? くらくらしたりしません?」
「あ、えっ、ああ、大丈夫です」
「よかったー……顔に擦り傷があったので顔には治癒魔法をかけましたけど、頭には外傷が無かったのでー……痛むようだったら医務室で見てもらってくださいね?」
「ど、どうも……」
にこっと笑い掛けてくるベネッタにセーバは照れくさそうに会釈する。
ベネッタが治癒魔法を使えると知り、ようやく自分が介抱されていたのだと気付いた。
「あ、そうだナーラは!」
自分はどれだけ寝ていたのだろうか。
訓練場の中央辺りでは、未だにセーバの友人でもある少女ナーラがアルムに魔法を放っていた。
どれだけの時間が経ったのかは知らないが、止めなければとセーバが動こうとすると、くん、と制服の裾をベネッタが掴んだ。
「駄目ですよー、まだ激しい動きしちゃ。しっかり様子を見てください」
「だ、だがナーラを止めませんと!」
「大丈夫ですよー」
「え?」
「アルムくんなので」
このニードロス家の少女は確かあのアルムという平民の友人だったはずだが……何故こんなに落ち着いているのだろうか?
本来なら止めるべきなのかもしれないが、大丈夫と断言するベネッタの声に逆らえず、セーバはベネッタの隣に腰掛けた。
「どう……なってる?」
「……」
セーバと同じくナーラの友人であるマルティナとマヌエルも食堂から訓練場へと駆け付けた。
だが、ナーラを止めるべく訓練場に駆け付けたはずが……二人は止めに入ろうとしていない。
ただ、その光景を見つめるばかりだった。
ナーラの怒りはすでに形相からは消えていた。
最初の内は激情のまま、アルムに向けて魔法を放っていた……が、数度繰り返す内に感情に振り回されたまま使う単調な魔法では永遠にこの男に一撃を与えられない事を悟り、ナーラは自身の戦い方を以てアルムに牙を剥いた。
内にはナーラを突き動かすマルティナへの敬愛。向けるは敬愛しているマルティナを穢したアルムへの敵意。
もう、感情に振り回されているわけではない。
(当た……らない……!)
だからこそ、敬愛と怒りとは別に疑問がよぎる。
自分の攻撃を捌き続けているこの人は一体?
「『船出の凶兆』!」
ナーラの呪詛魔法によってアルムの動きが鈍り、周囲の音の音量が滅茶苦茶になる。
アルムは絶えず動き回っているが、呪詛魔法は直接相手に働きかけるタイプの魔法が多い。
それゆえ"現実への影響力"を高めにくい。魔力消費に見合わないともされているが、動き回る相手にも確実に影響を及ぼせるのは大きな利点だ。
「『沈没の歌渦!』」
「『解呪』『強化』」
アルムは呪詛魔法によって鈍った体と聴覚を補助魔法で補う。
ナーラが唱えたのは、奇妙な音とともに放たれる複数の水の渦。
中位の水属性攻撃魔法であり、軌道が真っ直ぐではなく、揺れるような動きを繰り返すがアルムは難なくとそれを躱す。
その目は魔法をナーラを見つめていて、表情は一切崩れない。
「……面白いな」
そんな余裕そうにするアルムが呟いたのはナーラという少女への賞賛だった。
しかし、相手をかき乱すようなナーラの魔法の音に阻まれてその声は誰にも届かない。
(呪詛魔法の"現実への影響力"に強弱がついていて自分の体の動きや感覚を誤認させやすくしてるのか……攻撃魔法と組み合わせると中々厄介だな。攻撃魔法も軌道が読みにくいし、"放出"の仕方も独特で面白い。戦い方に合った魔法を選んでるのがわかる)
呪詛魔法による体の異常を確認しながらナーラの戦法を分析するアルム。
平静な表情の裏にはナーラに対する感心があった。
ベラルタでしてきた魔法儀式と、敵国の魔法使いや魔法生命といった相手との戦いの経験がアルムに余裕を持たせている。
何より……ナーラは水属性。ミスティやグレイシャの魔法と比べればその差はどうしても目立ってしまう。
それほどに、アルムの目は肥えていた。ベラルタに来るまでほとんど見る事のできなかった誰かの魔法はアルムの脳内に強く張り付き、ベラルタに来る前にただ羨む事しか出来ずに得続けた知識が経験と合わさって開花している。
(面白いが……攻撃魔法もかき乱すのが前提なせいか速度が無いな。呪詛魔法は正直鬱陶しいが……あの三人に比べれば『解呪』で十分対応できる範囲だ。……次はどんな呪詛魔法が飛んでくるだろう)
次にかけられる呪詛魔法を楽しみに待つ余裕すらある平静なアルム。
(何で……! 補助魔法だけであしらわれる……!)
呪詛によって相手のリズムを崩しているにもかかわらず、自身の攻撃魔法が当たらない事に焦るナーラ。
二人の表情の差が、すでに勝負が着いている事を物語っている。
「ハミリア様を穢した男に何もできないなんて……! こんな屈辱……! 『水魔の揺り籠』!」
表情を歪ませながらナーラは魔法を唱える。
(俺は何をしたんだ……? えっと……模擬戦の後……)
何がナーラを怒らせているかわからず、アルムはナーラの呪詛魔法で視界が歪みながらも、タトリズに来てからの自分の行動を思い返す。自分のせいかもしれないと未だに反撃する気は無い。
ナーラの激情に恐怖していた周囲のタトリズの生徒達も今や呆然と観戦し、まるで模擬戦を見るかのようだった。
「ナーラは……弱くないぞ……?」
昨日、アルムの周りを過保護と評したマヌエル・ジャムジャも信じられないといったような表情を浮かべる。
ナーラが模擬戦に出なかったのは隠すためだ。
プテリ家は下級貴族でガザスに貢献したような功績もほとんど無い。そんなプテリ家に生まれたナーラは、憧れであるマルティナ・ハミリアと並び立とうと奮起し、独特な戦法と魔法の組み合わせで今やタトリズの二年の中では上位の実力にまで上ってきているいわば成り上がり。
当然、マナリルにはプテリ家の情報などあるはずが無い。だからこそ、模擬戦には出なかった。発展途上のその実力を他国に漏らすのは惜しかったから。
そのナーラが……あしらわれている? 過保護な貴族に囲まれていたはずの平民に?
「……ラーニャ女王陛下が推薦しただけあります」
マルティナのその言葉は真実では無かったが、認めざるを得ない光景にマヌエルは認識を改める。
明らかに戦い慣れしている平民を見て、昨日の苛立ちと評価を改める。
平民がここまでに至るまでに、どれだけの苦行を積めばいいのだろうか。
自分達と違って……魔法が使える未来があるかどうかもわからないというのに。
「アルムくん楽しそー」
「そう、なんですか?」
「はい、相手の方が次何するか待ってます」
聞き慣れた声が聞こえ、マヌエルはそちらに目を向ける。
目をやった先には自身の友人であるセーバと昨日アルムと一緒のテーブルにいたニードロス家の少女ベネッタ。
友人であるはずのアルムが襲われているというのに、見守るだけで助けに入ろうともしていない。
その様子を見て、マヌエルは確信した。
彼は決して、一緒にいる貴族の名を貶めてなどいない。一緒にいる貴族達はきっと彼の実力を疑ってなどいない。
彼の実力を知っていて、共にいるのだと。
「……マルティナ殿。あれを止めてもらってもよろしいか?」
「え?」
「ナーラはあなたに憧れている。あなたが呼べば引っ込められない意地も引っ込められるでしょう。どうせ、噂は誤解なのでしょう?」
「噂、とは?」
「これはこれは……まさかわかっていなかったとは……ともかく、止めてあげてください」
マヌエルに言われるも、マルティナは無表情の下で内心おろおろとする。
止めてと言われてもどうすればいいのかがわからなかった。
「ど、どうやって……」
「ナーラは子供ですからな。呼べば止まりますよ。嬉しくてね」
そこでようやく、自分がマヌエルに何を求められているかをマルティナは気付いた。
「昼ですからな。腹も減っている事でしょう」
「……ですね」
一度、深呼吸。
さあ今こそ……あのかっこ悪い練習の成果を見せる時だ。
「ナーラちゃん!」
アルムが攻撃魔法を躱すと同時に、ぴたり、と戦闘の音が止む。
憎きアルムしか見ていなかったナーラは振り向き、自分の名前を呼んだマルティナと目が合う。
「昼食を……、食べよう」
緊張で言葉も詰まった何の飾りも無い不器用な誘い。
自身の心臓の鼓動を聞きながら、マルティナは返事を待つ。
「ハミリア様が……初めて名前呼んでくれたぁ……」
ナーラはぼろぼろと嬉し涙を流し、そのまま体が崩れ落ちる。
アルムの事も噂の事もどうでもよくなるほどの喜び。かつてない多幸感がナーラを包み、そんなナーラにマルティナは駆け寄った。
やれやれと嘆息しながらマヌエルも歩み寄り、ベネッタと一緒にセーバも駆け寄った。
「うえええええ!」
「す、すまない……気にしてたのか……」
「ハミリア様……天然だからぁ、私の名前知らないのかなとか思っちゃっててぇ……でも半年一緒にいるのにそんな事言えないじゃないですかー!」
「て、天然? 私がか?」
「ハミリア様結構おっちょこちょいなんですものー!」
昨日自分は厳格な女だと思われている、と言ってしまった事が急に恥ずかしくなるマルティナ。
どうやらナーラには全然厳格な女だとは思われていなかったらしく、羞恥で耳が赤くなっていく。
「アルムくん、お疲れさまー」
「ああ、ありがとうベネッタ。ところで……これは何だったんだ?」
「止められなくてすまない、アルム」
目の前でナーラがマルティナに抱き着いている光景をわけもわからず見ていたアルムに、ナーラの友人であるマヌエルとセーバが声を掛けてくる。
「騒ぎにして悪かったな。プテリ家から正式に謝罪が必要であれば……このマヌエル・ジャムジャの名を以て私から働きかけよう」
「え? いや、何故怒っていたのかは知らないが……特に困ったわけでもないし謝罪はいらない。落ち着いたようでよかったな」
「……器も十分ときたか。平民にしておくには勿体ないな」
マヌエルはナーラに抱き着かれているマルティナの肩を叩き、マルティナが持っている紙袋をアルムに渡すよう促す。
「すまないアルムこんな態勢で。お前の上着だ。朝が快晴だったのもあってすぐに渇いていたぞ」
「ありがとう。これで貸し借りは無しだな」
「そうだ! 何でハミリア様がこの人の制服持ってるんです!?」
「それは、その……」
ナーラに問い詰められ、マヌエルとセーバも交えて昨夜の事について、アルムの悩みの話を抜いて説明し始める。
厳格な女だと思われていないのなら、いっそ全てぶちまけてしまえとやけくそ気味に。
その話を聞いて幻滅されるかと思えば……マヌエルとセーバは意外そうにするくらいで特にそんな事も無く、ナーラは目を輝かせてさらに好意を剥き出しにする始末。
マルティナが安堵したのも束の間、ナーラが何故こんな事をしたのか詳細を聞くと、ここでようやくマルティナは自分が制服を洗っていた事で広まってしまった噂の事を知り、誤解に気付き青褪めたナーラとともに、地面に着く勢いでアルムに平謝りするのであった。
いつも読んでくださってありがとうございます。
とりあえずこちらは落ち着きました。