幕間 -私が幸運と出会った日-
私が幸運になったのは、間違いなく二十五歳の春の時だった。
「うあう……あむあ……」
「……」
デルナック家への反逆に成功したのも束の間、異国の女に反魔法組織クロムトンを乗っ取られ、行くあても無く放浪した先に辿り着いたカレッラという山奥の村。
村というのもおかしいほどに人のいない、自然と生きる秘境のような場所だった。
そんな山の秘境から近隣の町に毛皮やら牙やらを売ろうと山を下りた時、
ただ生きていただけの私とその赤ん坊は出会った。
「よく魔獣に食われなかったな」
吸っていた煙草を踏ん付けながら私は周囲を見渡した。
周囲に親でもいると思ったのか? 馬鹿みたいだ。
秘境のような山から下りてきたとはいえ、周囲はまだ自然しか無い山の麓だ。
言うなれば大自然から自然になっただけ。
まるでここで生まれたかのように赤ん坊はぽつんと捨てられていたが……赤ん坊を包んでいた毛布はあろう事か、近くの村にある店で見かけた事があるものだった。ここから三十分も歩けば着くくらいの小さな村だ。
「ああ……なんか去年雪が異常に降ってて今年はきついって話してたっけな……」
赤ん坊は生まれたばかりというわけでもなさそうだった。生後半年くらいだろうか。
とはいえ、平民であっても村で生活するのなら村には貯えがあるものだ。その貯えで一年くらいは切り抜けられるから雪だけでそこまで困窮することは無い。きついという話こそ聞いてはいたが、その村はほとんどの人間がそこまで困窮しているような様子は無かった。
どうやら、元からこの子の親は計画性の無い生活を送ってきたのか、貯えを渋られるくらいには村からの信頼が無かったのだろう。
「……可哀想に」
子を捨てるような親から離れたのは幸運だったのか不運だったのか、私がくるまでに魔獣に食われなかったのは不運だったのか幸運だったのか。
なんて不確かな状況にいる子だろう。
生まれたばかりなのに、このまま死ぬのが決まっていて。このまま死ぬ事が決まっているのに、その命は生きている。
捨てられた赤ん坊というのは果たして、生きていると言っていいのかそれとも死んでいると言っていいのか……とても曖昧だと思った。
「あんた……名前も無いのかい?」
あるのは籠と敷かれた毛布、そして籠の中にすっぽり収まっている赤ん坊だけ。
お世辞にもいい籠ではない。毛布だけはせめてもの償いのつもりか綺麗なものだった。
「ちょっとごめんよっと……」
「あうう」
「……なんだいその指」
毛布の中を探ろうとした時、伸ばした私の親指を赤ん坊は掴んできた。
冷たい。
一晩ここで過ごしたからだろうか。
まるで私の指から暖をとっているかのように、赤ん坊は私の親指をむにむにと握っていた。
指を握られて……思った。
「あむあ」
あ、この子死ぬんだ。
「そりゃ……ねえだろ……」
私はいつの間にか、また周囲を見渡していた。
誰か助けてくれ。誰か助けてやってくれよ。
そんな風に、人どころか魔獣すらいない山の峰を見回し続けていた。
私はその時初めて、自分の着ている服に唾を吐きたくなった。
私が住んでいたとこの領主、デルナック家に反逆する時に着た修道服。かつて、神様に仕えていた人達が着たという服だ。この世界には神様なんていないって言われてるが、もしいたとしたら……これを着てれば神様とやらが勘違いして加護みたいなのをくれるんじゃねえかなと思って何着も買った。あの時は貴族がめちゃくちゃ恐かったから。
何だよ神様。てめえ、赤ん坊一人助けないような野郎だったのか。
そんな、ここにいるわけもない相手に本気で苛立ってた。
ここに誰か寄越してやってもいいだろう。
この赤ん坊を拾ってくれるようなやつがたまたまここに来てもいいだろうって。
「うあうま……むあ」
「あ、こらこら! ばっちいだろうが!」
その赤ん坊は私の親指をしゃぶろうとしてきて咄嗟に私はその子の指を払った。
「あ」
私か?
冗談みたいな話かもしれないが、その状況に直面したらわかるもんだ。
捨てられた赤ん坊がいたとして、自分が拾う、なんて発想にはすぐならない。
この赤ん坊を助けてくれる誰かを探しているお前は何なんだと、その時になって気付いたんだ。
「あんた……いるのかいないのかどっちなんだよ」
つい、空に向かって問い掛けた。
返ってくる答えは無かった。
誰かはもうとっくにここにいた。たまたま山を下りてきた私という誰か。
反魔法組織を乗っ取られ、目的も無く、ただ生きていただけの私という誰かに突如……親になる選択が突き付けられた。
伴侶もいねえのに赤ん坊とは随分段階を飛ばしたもんだ。
「名前……名前かぁ……」
学が無いから気の利いた名前も付けられない。
私なんかに拾われて大丈夫かこいつ。
「あうむあ」
「あん? あー……あ、あ、あ」
意味なんてわからないし、ただ響きだけが私の頭に思いついて。
「アルム」
私はこの赤ん坊にそう名付けた。
「あうう!」
「お、気に入ったかい?」
親にも捨てられて、拾ったのも周りには山しかないとこに住んでる貧乏な女……この赤ん坊はやっぱり不運なのかもしれない。
「どうでもいいけど……あんた全然泣かないねえ……子供ってもっと泣くんじゃないのかい?」
「あうう!」
「はいはい。わかったわかった。乳でねえけど、飯とかどうすりゃいいのやら……?」
けれど、その赤ん坊は間違いなく……私に幸運を運んできてくれた天の使いそのものだった。
「久しぶりに会ったせいかね……」
アルム達が出て行ってから数日経って……私はそんな記憶を魔獣の死体の傍らで思い出していた。
魔獣の返り血塗れで思い出す記憶ではないのだが、気が付けば私はあの子を拾った時の事を懐かしんでいた。
血抜きをしている川のせせらぎと森の清涼さが魔獣の死体の血生臭さを和らげてくれている。
「それにしても見た事ない魔獣だったねぇ……ガザスの方から迷い込んできたのか?」
カレッラはマナリルの領地でこそあるが、どちらかというとガザスのほうが近い。
時折、ガザス側の魔獣が追われてカレッラになんてのはよくある話だ。
どんな魔獣であろうと、カレッラを襲いそうだったら討伐する。何もしなさそうだったら放置。
この魔獣は前者だった。まぁ、数日前に聞こえてきた鳴き声からしてそれっぽかったし。だからこそ、殺し合った。
どっちが狩人でどっちが獲物だったかは結果が出てからわかる事だ。この魔獣は獲物で私が狩人。そんな結果を、転がっている魔獣の頭と呑気に休憩している私っていう状況が示してる。
「あの子は今頃ガザスか……お友達もいい子だったから苦労はしないだろ……」
身分差があっても、友達ってのは出来るもんなんだな……。
「師匠ちゃん……今どうしてるんだろうねぇ」
今度は、何処から来たのかわからない……ここに十年以上通い続けていた魔法使いの事を思い出した。
何故か他の爺さん達は師匠ちゃんの事を忘れちまってるし……多分魔法で何かしたんだろう。
半年くらいここに来てないが……そんな事をしていったという事は、もうカレッラには来ないつもりなんだろうか。
それは、何というか、上手く言葉にできないが。
「何かむかつくな」
もう来なくなるんなら、別れの一つも言っていけと文句を言いたくなる。
せめてアルムには会いに行ってやってやれよあいつ……。
「ま……ここで言っても仕方ねえか……」
静かな森の中。
血抜きをしている川の流れる音を聞きながら私は空を仰ぐ。
「あんた……まだいるのかい?」
ああ、神様。
生まれた時からくそったれな人生だったが、あんたにこれだけは感謝したい。
あの子に出会えた事だけは誰が何と言おうとも私にとって人生で一番の幸運だった。
だから神様。
あんたが本当にいるんならどうか、もう一つだけこんな女の願いを叶えてやってくれ。
私はもう十分だから。
私はもうあの子との思い出があるこの場所で十分だから。
だからどうか、あの子は幸せにしてやってくれ。
私にはそんな事を祈る資格は無いかもしれないけど、祈らせてほしい。
あの子の幸せを祈るくらいは……許してくれるだろ?
「ま、勝手になるよって言われそうだけど」
私は柄にもなく空に祈ると、血抜きの終わった魔獣の死体を教会に運ぶ。
柄にもなく、過去を懐かしんだせいだろうか?
今度はあの子と一緒に魔獣を運んだ日の事を思い出して……今日運ぶ魔獣は何だか、特別重く感じた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
今日は夜に並行のほうも更新します。