290.その手加減が
その声は海を撫でる烈風のようだった。
重なる声は風と共に歌へと変わり、魔の門を天井に開く。
魔の門から現れるは……天井を覆ってしまうのではと錯覚するほどに巨大な白い鳥。
緑色の魔力光を纏いながらも、白い翼は輝きを放ちながら羽ばたき、ギャラリー席にまで突風を起こしている。
雪のような白い羽根が舞う。訓練場はさながら鳥籠。
決して……この巨鳥を閉じ込められぬであろう狭き檻。
合図一つで天井を突き抜けそうな鋭い目が、眼下の主の敵――マルティナ・ハミリアの姿を捉えた。
訓練場全てを引く裂くような、巨大な趾の爪が動く――!
「ヴァルフト・ランドレイト失格!!」
と思いきや、その巨鳥が動く前に烈風の中でヴァンの怒号が響き渡った。
巨鳥は止まり、巨鳥の主であるヴァルフトは勢いを削がれてその体勢を崩す。
「おいいい! なんでだよ!! 血統魔法使っちゃいけないルールはねえだろうが!?」
「再起不能にする規模の魔法は禁止だっつってんだろ! 俺の目を騙せると思ってんのかてめえは! 模擬戦でそんなもん使っていいと思ってんのか!」
出現した巨鳥の"現実への影響力"を察して問答無用という勢いのヴァンと、判定に納得いかないヴァルフトの言い合いが続く。
そんな言い合いを、訓練場で一人置いて行かれているマルティナは表情の乏しい目で見つめていた。
「言われてますけど? 一年前のルクスさん?」
「……ノーコメントで」
ギャラリー席ではにやにやと去年の出来事を持ち出してからかうエルミラと無表情のまま目を逸らすルクス。
一年前、ルクスはアルムと決闘をした事はあまり咎められなかったが、血統魔法を使った事については今のヴァルフトと同じように怒られていたのは言うまでもない。
「とにかく失格だ失格! 戻れ戻れ!」
「ち、ちくしょおおおお!!」
ヴァルフトは本気で悔しがっているが何とも綺麗な自業自得。ギャラリー席も拍子抜けといった感じである。
さっきまで生き生きとしていたヴァルフトは肩を落としながら、マルティナは懐中時計をしまってギャラリー席へと戻って行った。
烈風を巻き起こしながら漂う巨鳥は、主の落胆する姿を目にしながら静かに消えていく。
ただ一人、マリーカの後ろにいる少女とマリーカの隣に座る男だけはベラルタ側のギャラリー席を見ていた。
「血統魔法を使ったという事は家名を偽っているわけでもないご様子……なら、残ったあの方が……」
少女とマリーカの隣に座る男が見ている人物は同じ。
その視線の先にいるのは――
「すまねえ平民……! まさか失格とは……!」
ギャラリー席に戻ったヴァルフトはまず、アルムの目の前に来て謝罪した。
どうやらヴァルフトの魔法を見たいと言っていたアルムに本気で魔法を見せようとしていたらしい。
「いや、いいんだ……やる気が空回りする事はあるし、血統魔法を見せてもらったんだから十分だ」
「本当なら俺様はもっとこう派手に……! まぁ、ともかくわりいな……」
そう言い残してとぼとぼと離れた席に向かうヴァルフト。
試合が始まる前の豪快さはすっかり消えており、別人のようにその背中が小さく見えた。
タトリズ側の生徒は釈然としない勝利だったのもあって、ヴァルフトを誹る声が止まらない。
まともにやればハミリア家に勝てないからわざと失格になったのだの、逃げただのと色々言われている。本人はそんな声よりも失格になった事のほうがショックのようだが。
「思ったより早い出番になってしまいましたわね」
だが、そんな声もこの少女が立ち上がるだけでたちまち消える。
偶然か必然か、一瞬静寂が訪れた。
もうヴァルフトの事など誰も気にしていない。視線は自然と、その少女に集まった。
「まぁ、心配するほうが変なので……程々に」
「そうね、程々に頑張りなさいよ」
「気を付けてー!」
「頑張れミスティ」
「はい、頑張ってきますね」
アルム達の声援を受け取ってその少女――ミスティは一階に下りていく。
その背中にはタトリズ側に座っている者全員の視線が注がれていた。
「"セーバ"」
「は、はい!」
マリーカが名前を呼ぶと茶色の髪が寝癖で跳ねさせている少年が勢いよく立ち上がる。
セーバと呼ばれた少年は誰が見ても緊張していてカチコチだった。
「出番ですよ」
もしかすれば、セーバという少年にとっては死刑宣告に聞こえたかもしれない。
何故なら、ベラルタ側どころかタトリズ側の生徒でさえセーバが勝つとは思っていない。当然セーバを応援する声はあるものの、その声の中にはお気の毒にという意が込められている。
そんな声援、というよりも心配の声を受けながらセーバが重い足を動かして一階に下りた。すでにミスティは中央に立ってセーバを待っている。
今から戦う相手だというのに、セーバはその立つ姿に一瞬見惚れてしまう。
青みがかった白銀の髪を揺らす、小柄な少女。その濡れた瞳は宝石より美しく、その色は故郷の近くに広がる海のように青い。
そんな少女が……今から自分が戦う相手。
"セーバ・ルータック"は訓練場の中央に歩くまでの間に、その美しさの虜になってしまっていた。
中央に着くと、セーバは鼻を伸ばしながら握手の為に手を差し出す。
「せ、セーバ・ルータックです。よろしく……」
「ミスティ・トランス・カエシウスと申します」
しかし、その家名を聞いた瞬間……彼は夢から醒めた。
カエシウス。その家名についての記録は普通であれば目を疑うものばかり。
曰く、その名が聞こえたら逃げろ。
曰く、その者を見つけたら逃げろ。
曰く、出会ったら諦めろ。
戦時に於いて、この家名の前からは敵前逃亡をする事が正式な命令として下されている異例の貴族。
奇襲も暗殺も全て無駄。真正面から戦うのは不可能。女子供を人質にしてようやく勝負になるかどうか。
カエシウス家と真正面から戦うより、王都を落とすほうが現実的とすら言われた血筋と魔法に愛された頂点の一つ。
その血統魔法は……敵を氷漬けにする事以外はわかっていない。
当時の先祖達は何を見たのか? この小柄な少女の中に……それほどの才があるのか?
「始め!!」
ヴァンの声でセーバは格闘技のような構えを見せた。
ただ魔法を唱えるだけで氷漬けにされるのは確かに恐怖。千年の時を積み重ねた血統魔法はこの上ない脅威かもしれない。
だが、今は血統魔法を使われる当時の先祖達とは状況が違う。血統魔法さえ使われなければ国は違えど同じ魔法学院の生徒だ。
タトリズの為、ガザスの為、彼は恐怖を振り払い、少しでもこの少女の底を見てやると意気込んだ。
見惚れてた時のような目ではなく、覚悟を決めた眼差しでセーバはミスティを見据える。
「『炎舞廻』!」
「『雪花の輝鎧』」
互いにまずは強化を唱える。速度は言わずもがなミスティが上だった。
水晶のような輝く氷の鎧と、全身に渦巻くように纏う炎。
しかし、強化をかけてからの動き出しはセーバが上回る。
それも当然、ミスティは強化をかけたからと動こうとしていない。
「うおあああ!」
「炎属性……『抵抗』」
セーバが振りかぶった拳が届くまでにミスティは補助魔法を一つ唱え、ついでのようにセーバの拳を止めた。
氷の鎧を纏った小さな左手がセーバの右の拳をそのまま掴む。
「くっ……!」
すかさず、セーバは左の拳をミスティの頬目掛けて放つ。
一見、非道な行為にも見えるが知った事ではない。
見ているほうはわからないだろう。今掴まれている右の拳が凄まじい力で抑えつけられているなどと。
「『水針』」
「っ……!」
その拳に放たれる水属性の下位の攻撃魔法。"現実への影響力"を抑えているのか現れた水の針は数本だけだった。
拳に纏った炎を水の針は貫通し、セーバの拳に突き刺さる。
セーバが痛みで一瞬顔を歪めたその瞬間、ミスティはセーバの拳を横から払うようにして軌道を変えると、セーバの鳩尾目掛けて掌底をお見舞いする。
セーバの拳はミスティの顔の横を無情にも通り過ぎ、拳の勢いがそのままミスティの掌底の衝撃を手助けしたカウンターの形となった。
「おぷっ……!」
だが、互いに強化をかけている事に加え、ミスティは小柄で体重差がある。
ミスティの掌底はセーバの鳩尾に入り、一瞬息が止まるも、肉体的には致命的というわけではない。
あくまで肉体的には、だが。
「『水刃』」
「――!」
一瞬、息が止まる。
そんな魔法を使う者として致命的すぎる間隙に、ミスティは追撃の魔法を唱えた。
これもまた水属性の下位魔法。
セーバの体を纏っていた炎ごと、水の刃は容赦なく肩から腰にかけてを切り裂いた。
「……?」
だが、セーバの体には傷一つ無い。
切れたのはセーバが纏っていた渦巻く炎だけだった。カエシウスの魔法を防げるなら自分の強化も悪くないなと一瞬思い上がる。
強化が破壊され、一旦、距離を置くためにセーバは後ろに跳ぼうとするが。
「あ――!?」
最初に掴まれた右拳が未だ握られたままな上に――掴まれた所から自分の手が凍り付き始めている事にセーバはようやく気付いた。
属性の違いこそあれどミスティとセーバが使っているのは共に中位の強化。魔法のランクに差は無いし、炎属性の性質を考えれば本来凍り付くなど有り得ない。
だが、現実にセーバの拳は凍り付き始めている。
強化はどこにいった――!?
ここでようやく、先程の水の刃で自身の強化が破壊されている事にセーバは気付いた。すでに炎属性の性質は機能しておらず、かろうじて残っているのは身体能力の向上だけ。
……誰が彼を笑えよう?
中位の強化が下位の攻撃魔法にあっさり破壊されたなどすぐに思い至れるはずがない。自分の手が凍り付く異常事態を目にしたのなら尚更だ。
脳内に押し寄せる混乱と一つの事実。
自分とミスティが作り出す魔法の圧倒的な"現実への影響力"の差を感じ、再びセーバを恐怖で包む。
「どうかされまして?」
「ひっ――!」
鈴が鳴るような美声で問い掛けながら、ミスティはセーバのもう片方の手も掴む。
纏った炎が破壊された影響か、掴まれた部分から凍り付くのも一層早い。
片や氷が張り付き、今掴まれた部分に霜が降り始めたのを見てセーバは急いで魔法を唱えた。
「は、『魅演の炎断』!」
セーバが唱えたのは本来、炎壁で攻撃を防ぐ防御魔法。
セーバとミスティを分断するかのように炎の壁は目の前に現れた。
炎が立ち上り、流石に拳を掴んだままとはいかなかったのか、セーバは両の手を解放される。
「『氷凍の波』」
だからといってセーバに安堵する時間はない。
セーバの前に立ち上った炎壁は水と氷の混じった波のような魔法でいとも簡単に崩れ去る。
たちまち消える炎壁。それは一瞬の消火活動だ。
「ごぱっ……!」
いや、崩れ去るどころではない。炎壁を消化してもミスティの魔法は収まらず、蒸気の中から押し寄せた氷塊がそのままセーバを襲った。
一応、炎壁はミスティの魔法の威力を抑えていたのか壁まで追いやられる程度で済む。
「『十三の氷柱』」
蒸気の中から姿を現す水晶の鎧を纏ったミスティ。
周囲には十三の尖った氷塊。
セーバが一つ魔法を唱えている間に、ミスティは二つ魔法を唱えている。一つ一つの"現実への影響力"はいわずもがな。
放たれた氷柱はセーバの周囲を囲むように、壁と地面に突き刺さる。最後の一本だけは、セーバの顔の横を掠っていた。
「はっ! はっ! はっ!」
恐怖と寒さで呼吸が荒くなるセーバ。
今は冬か? いいや春だろう!?
そんなどうでもいい思考すら生の実感のような気がして愛おしい。
思い上がった。思い上がった。思い上がった思い上がった。
一瞬でも底を見てやるなんて思った自分が馬鹿だった!
わかる。自分だって魔法使いを目指す人間だ。
だからわかる。この少女は……この少女は手加減している――!
いくら下位の魔法とはいえ、水の針が拳に数本だけ刺さる魔法なんてあり得ない。もっと数が多いはずだ。
水の刃で強化だけ破壊するなんてあり得ない。体ごと切り裂けばもっと楽だったはずだ。
炎の壁も破壊した時も、氷塊が流れ込んできたというのに自分にあるのは擦り傷だけ。
この十三個の氷塊はもっと露骨。当てようとすらしていない!
使っているのは下位と中位の魔法だけ。さっきのオルリック家のように上位の魔法を使われたほうがまだましだ。
自分も知っているような、しかも……水属性の使い手なら誰でも使えそうな魔法だけで圧倒されている事実。
四大貴族として相手を圧倒する。
この少女はそれを自分の技量だけで実行しているのだから――!
「大丈夫ですか?」
水に濡れて制服に霜が降りているセーバにミスティは問い掛ける。
「申し訳ありません。頑張れ、なんて言われてしまったものですからつい気合いが入ってしまいまして……」
ミスティの頬に薄っすらと浮かぶ桃色は恥じらいの証か。
セーバは恐怖と寒さに震えながら、自分の役目だけを見つめて。
「まだ、ですよ……」
精一杯の強がりを口にする。
自分の実力の半分も出し切っていないが、心はもう敗北を認めている。そんな中、与えられた役目だけがセーバを突き動かした。
自分の役目は少しでもカエシウスの実力を引き出す事。まだ降参する時ではない。
「流石タトリズ魔法学院の生徒さんですわ……でしたら、これ以上の手加減は失礼ですわね……」
「――は?」
「先に模擬戦をされていた皆さんに触発されて……私も少しは凄い所をお見せしたいのです。これからが本番ですね」
両手で小さくガッツポーズして、お互い頑張りましょう、という意を見せるミスティ。
模擬戦が始まる前なら可愛らしいと思ったであろうその仕草は、今では刃を研ぐ処刑人のそれにしか見えない。
冗談だよな? とセーバは誰かに問いたくなった。
いや、冗談に聞こえない。
誰かに問う前にセーバの防衛本能が自分自身で答えを出した。
模擬戦が始まってからした行動の中で最も早くセーバは手を挙げ、ギャラリー席に向かって必死に叫んだ。
「降参です! 降参します!! 降参降参!!」
「え?」
「勝者ミスティ・トランス・カエシウス!」
セーバの必死な訴えを察してヴァンは即座に勝者を宣言する。
タトリズ側に落胆も無ければ、ベラルタ側に喜びも無い。
仕方ないよ、という同情とセーバの選択を誰も責めない温かな空気があるだけだった。
「えーっと……勝ちましたー」
突如訪れた――セーバからすれば当然の――結末に少し戸惑いながらも、ミスティは誰もが虜になるような笑顔でアルム達のいる席へと手を振った。
いつも読んでくださってありがとうございます。
何故普通使わないかというと使っちゃいけないからです。教師の前で使うと当然こうなります。
誤字報告してくださる方々ありがとうございました。誤字のほう修正させて頂きました。