282.白花に積み重なる
「アルム」
「ミスティ?」
背中からの声にアルムは立ち止まって振り返る。
振り返った先には小走りでアルムのほうに駆け寄ってくるミスティがいた。
羽織ったカーディガンを手で押さえながら駆け寄ってくる姿は何とも可愛らしい。
アルムに追いつくミスティからは、ふわりと石鹸の香りがアルムの鼻孔をくすぐる。
「何やってるんだこんな時間に」
「アルムこそ。夜分遅くに何処へ行かれるのです?」
「あー……えっと……」
首を傾げて質問してくるミスティにアルムは無意識に言葉が詰まってしまう。
ずっと、誰にも教えたことの無い場所へ自分は向かおうとしていたから。
「も、申し訳ありません。言いたくないようであれば無理にとは……」
シスターにあんたなら教えて貰える、と言われてたのもあって実の所ミスティは少し期待していた。
改めてこの人を知りたいと思ったのはつい最近の事。急く必要は無いと言い聞かせるも、この人の中で自分はそれほど大きい存在ではないのではという不安を抱かせる。
「いや、ミスティならいいか……少し歩くけど、付いてくるか?」
ミスティにそんな不安を抱かせるのが目の前のアルムなら、吹き飛ばすのもまたアルム。
誘われた事に純粋な喜びが不安をかき消し、ミスティの表情は明るい笑顔に変わった。
「はい! 勿論ですわ!」
ミスティがアルムの横まで駆け寄ると、学院の制服を着ていたアルムは制服の上着を脱いでミスティに手渡そうとする。
「あ、え……?」
「俺は慣れてるからいいけど、夜の森は寒いから一応着といてくれ」
「は、はい……」
ミスティは顔を赤らめながら言われた通り、アルムの上着をカーディガンの上から着る。
本当に寒くなるのかと疑問に思うほどに、ミスティの体は照れたせいか温かい。
興奮冷めやらないミスティに追い討ちをかけるように、今度はアルムの手が差し出された。
「あと、迷うといけないから手を」
「そ、そんな……大丈夫ですわ! ちゃんと隣に……」
「ここの森は深い。夜だと少し目を離すとばらばらってのが慣れててもあったりするんだ。嫌かもしれないが、着いてくるなら頼む」
「断じて嫌というわけではありませんが……わ……わかりました……」
躊躇いがちにミスティはアルムに差し出された手を握る。
アルムもまた、ミスティの手を握り返した。緊張で汗ばんでいないかとミスティはひやひやするもアルムは恐らく気にしないだろう。
「ミスティの手温かいな……体温高いほうなのか?」
「お、恐らく今だけかと……」
「今だけ……? ああ、風呂上りだからって事か」
そんな、横にいるミスティの心中をアルムが察する事などできるはずもなく……。
一人で行く気だった秘密の場所にアルムはゆっくりと歩き始めた。
「アルム……一体何処へ……?」
森の中を少し進んで、ミスティはアルムに問い掛けた。
森は暗くはあったが、星と月が照らしてくれているおかげで何もわからないというほどに闇は深くない。
とはいえ、ミスティ一人でこのように歩く事は不可能だろう。ミスティにとってはほとんど変わらない光景ばかりに思えるが、アルムは自分が歩く場所が目的地までの最短ルートであるかのように迷いが無かった。
ミスティとは違う意味でアルムも緊張しているのか、アルムの道中の言葉が少ないのがミスティは少し気になった。
やはり、自分が着いてきた事に思う所があるのだろうか?
「もう少しだ」
アルムの表情から何を思っているのか読み取れない。
無表情ではあるが、話せば感情豊かな友人の顔が今は少し強張っているように見えた。
けれど、強く握りしめてくれる手が嬉しくて不安にはならない。
どうか手汗をかいていませんように、と可愛らしい願いを内心で思いながらミスティはアルムに連れられて森の中を歩いていった。
「ここだ」
「ここ……?」
ここと言われても、目の前に密集して立ち並んでいる木々しかない。
しかし、その木々の間を通り抜け、鬱蒼と茂る草木の間を歩いていくと。
「え……?」
それは森の中に現れる正真正銘の異界だった。
闇だった視界に突如、白い光が広がっていく。
「花――?」
ミスティの目の前に広がったのは、木々に囲まれながら、夜に逆らうように輝く白花の花園。
その白い花はその一つ一つが光を灯しながら揺らめき、夜の闇を照らしている。
見上げればそこにもまた、木々が形作った満天の星空。
まるで夜空の光がこの場にだけ降りてきたかのように、白い花々は地上で輝く星々の如く咲き誇っていた。
「霊脈……ですね? 凄い……こんな……!」
「ああ、シラツユの時に霊脈の事を知ってここが霊脈だって知ったよ」
その輝く白い花園の正体を、ミスティは感動しながらも自らの知識で言い当てる。
つい、後ろを振り向くとそこにはやはり夜の闇。
しかし、前を見れば、夜闇をかき消す白い光が広がっている。
その光の正体は霊脈から花に流れ込んでいる高密度の魔力の光。
アルムが魔法を使う時のような属性も何も無い、純粋な魔力だけの輝きだった。
正体がわかって尚――目の前の光景は幻想的でミスティを感動させるには十分すぎるものだった。
隅々まで見渡すように、ミスティは視線をきょろきょろとさせる。
「俺と師匠の秘密の場所だ」
そんなミスティを見て満足そうに微笑むとアルムは歩を進めた。
アルムが足を踏み入れると同時に風は吹き、湖面が揺れるように白花は揺蕩う。
「は、入ってよろしいのですか?」
「一年前までは毎日のように来てたから」
アルムと一緒に、なるべく花は踏まないようにしながらミスティも続く。
見下ろす白い光は純粋すぎて夜だというのに少し眩しい。
中央まで歩いて改めて、ミスティは周囲を見渡す。
「すごく綺麗……嘘みたい……花にまで魔力が……」
暗い森が現実であれば、この白い花園はまさに夢。
霊脈という存在を知っていて尚、幻としか思えないほどに美しく、虚構がそのまま現実になったかのような場所だった。
状況といい、場所といい、自分は本当はもう用意されたベッドの上で眠っているのではないかとすら思えてくる。
「ここで諦めかけて、ここで救われて、ここでずっと……魔法使いを夢見てた……俺と師匠だけの場所なんだ。あそこに師匠がいつも立ってて、俺はここでずっと魔法の練習をしてた」
そう言ってアルムは花園の外に立っている一本の木を指差した。
ミスティにとっては他と区別がつかないただの木だが、アルムにとっては他とは違う特別なのだと、思い出を話すその表情からは伝わってくる。
「そんな大事な場所に……わ、私なんかが踏み入ってよかったのですか?」
「んん……何故かはわからんが、ミスティならいいかなって思ったんだ」
「私……なら……?」
「ああ」
ついそう言われた事が嬉しくて、ミスティは握る手を強くしてしまう。
もっと嬉しかったのは、無意識にアルムが握り返してくれた事だった。今はもう、手を繋いでいる必要は無いというのに。
……聞きたい。
ミスティは自然とそう思った。
それはどういう意味なのですか、と。アルムにその気持ちの正体を聞いてみたい。
一体、アルムは自分をどう思っているのか。自分はどんな存在なのか。
尊敬する同級生? ただの友人? 自分と仲良くしてくれる貴族? それとも――?
アルムと手を繋ぐ状況と周囲に広がる幻想的な光景がミスティを逸らせる。
「それは――」
だがその瞬間、この場所の輝きで色濃くなったかのように――夜闇より暗い場所にいたシスターの姿がミスティの脳裏によぎった。
「諦めかけたのは……五歳の時ですか?」
尋ねた問いも変わっていた。
何故ミスティから、と言っているかのようにアルムは目を剥いて驚いていた。
「ああ……シスターに聞いたのか……」
やけに具体的な時期を指している事から流石のアルムも察する。
「勝手に聞いてしまって……申し訳ありません」
「どこまで聞いたんだ?」
「恐らく……全て聞かせて頂いたかと思います」
「そうか……いや、シスターが話したんならいい。あの時は……いや、今も子供だが、今よりもっと子供だったからな……あの時の俺は大人に助けて欲しかったんだと思う。大人なら、一緒に考えてくれると勝手に期待してたんだ」
「五歳という歳であれば……当然だと思います」
こんな気休めを言いたいわけじゃない。
ミスティはアルムの手を握っていないほうの手を強く握っていた。
「なれるよ。なれるさ。なれる、なれる……そんな嘘をずっと聞き続けて、俺の夢は大人が向き合う意味すら無い、この世界の常識なんだって事を知ってしまったから……それが悲しくて、気付いたらここにいた。俺にとってはこの村の人が教えてくれるものが全て真実だったから、シスターにも同じことを言われて……ああ、無理なんだって。シスターが買ってきてくれた本があるような、自分の知らない世界には絶対に行けないんだって思ったら……もう、未来なんて来なくていいって本気で考えていた」
「アルム……」
「でも、今ならわかる。みんな……嘘をついてでも、俺の夢を守ろうとしてくれたんだ。少しでも長く俺が夢を見ていられるように、少しでも憧れていられるように。周りは大人で、俺だけが子供だったから、俺が初めて抱いた憧れを……全員が守るために嘘をついてくれてたんだ」
悲し気にアルムを見つめるミスティに、アルムは微笑む。
「それに、その時の俺は師匠が救ってくれた。なれないと思っていた俺を立たせてくれた、手を差し伸べてくれた。俺を助けてくれる魔法使いは、憧れた魔法使いは外の世界から来てくれた。だから、きっとあの時の事は俺にとって必要で大切な事だったんだ。シスターから貰った嘘も、師匠から貰った夢も、俺にとって大切な現実だった」
それを聞いて、ミスティは安堵する。
本当に、ただのすれ違い。
罪だと思っているのはシスターだけで、隣にいるアルムはちゃんと思い出として受け止めている。
たとえ苦しかったとしても、自分の世界を作る為の大切な記憶だったのだと。
「アルムは……シスターさんと師匠さんの事をとても慕っておりますのね」
「ああ、どっちも……俺にとって大切な人だ。親みたいな……待てよ?」
アルムは目を逸らし、少し考えたかと思うと困ったような顔を浮かべる。
「どっちも母親になっちゃうな……これはありか?」
「うふふ! そんなに悩むことですの?」
「……まぁ、シスターはシスターだし、師匠は師匠だから……気にする必要ないか」
きっと自分が何かするまでもなく、アルムが大切に思い続けている限り、いつかシスターを縛る足枷は解けるだろう。
それでも。
「いつか……アルムがどれだけ大切に思っているかを伝えられるといいですわね」
「伝える?」
「ええ。ちゃんと言葉にしなければ伝わらない事もありますわ」
「そう、だな……少し恥ずかしいが……うん、俺が思う魔法使いになれたらその時は……礼を言いたいな」
ほんの少しだけ、そのいつかを縮めたくて。
ミスティはお節介なきっかけをアルムの中に作っておいた。
どうか、その時が早く来ますようにとこの美しい……白い花園に願いながら。
翌日。
ドレンが山の峰まで迎えに来る時間が近づき、アルム達五人は支度を済ませると教会を出た。
見送るシスターと代わる代わる別れの握手をすませていく。ベネッタが握手する時にこっそり、シスターがベネッタに謝っているのが聞こえてきた。
「入り口まで送ってやりたいが……昨日妙な声を聞いちまったからね。山から離れると面倒な事になるかもしれないからここまでだ」
「お世話になりました」
「また来てもいいですかー?」
「ああ、いつでも歓迎するよ。なーんもないけどね」
そう言ってシスターは笑う。
何も無いとは言いつつ、シスターがこの場所を大切にしている事がわかるような豪快な笑顔だった。
「急にありがとうシスター」
「ああ、師匠ちゃんがいないのは残念だったね」
「仕方ない。間が悪かったんだと思っておく」
「……アルム」
「ん?」
「師匠ちゃんが今何してるのかは私にはわからないけど……まぁ、悪い子じゃないのはわかってるだろ?」
「そりゃそうだ」
「だから、まぁ、疑うのだけはやめてやれな」
「……ああ?」
どういう意味だろうか。
妙な言い回しをされた気がしたが、自分が師匠を疑う事などよほどの事でなければ有り得ないので、アルムはそのまま頷く。
「ほら、行かないといけないんだろ? またいつでも帰っておいで」
「ああ、じゃあいってくる」
別れの会話を済ませてアルムが振り返ると、シスターは一瞬だけ寂し気な表情を浮かべる。
シスターはアルムの背中をじっと見つめたかと思うと。
「アルム」
「ん?」
アルムの名前を呼んでその背中を引き止めた。
アルムが振り返った先には、微笑むシスターがいる。
シスターは困ったように頭を掻くと、今度は照れくさそうに頬を掻いて。
「制服……似合うようになったね」
一年振りに出会った息子への精一杯の褒め言葉を口にした。
「背が伸びたからかな?」
「そういう事じゃないよ」
シスターの視線はアルムの先にいるミスティ達に向かう。
シスターはアルムに何かを与えてくれた……こことは違うアルムが踏み出した新しい世界に感謝した。
「ほら、いってらっしゃい!!」
「ああ、いってきます」
大きく手を振って、シスターは自分の息子とその友人の出発を見送る。
一年前、似合わない制服を着てここを発った背中を思い出しながら。
アルム達はシスターと別れて山を下りていく。
ここからマットラト領で準備を整え、二日後にはガザスへ入る。
カレッラに寄る為に一日早くベラルタを出たので時間にはまだ余裕があると言えるだろう。
「そういえばミスティ、昨日どこ行ってたの?」
「ええ、少しシスターさんとお話をしていまして……それからは少し散歩を」
「あの暗い中?」
「はい」
元きた道を辿って山を下りる途中、昨日の夜姿が見えなかった事をエルミラに問われるが、アルムと行ったあの場所はアルムが秘密と言っていたのでミスティは嘘をつかずにぼかす。
アルムと歩いたあの時間も散歩といえば散歩といえるだろう。
「アルムくんも出ていったよねー? どこ行ってたのー?」
「秘密だ」
「秘密ー……?」
しかし、誤魔化すのが苦手なアルムはそうするわけにはいかない。
ただ秘密であるという事実を述べたアルムをベネッタは怪しむようにじーっと見る。
そしてアルムとミスティを交互に見る。アルムはいつもの無表情で、ミスティはこちらを見るベネッタににこっと笑い掛けた。
「ふーん……?」
内心、ほっとするミスティ。
そこを突かれたらまたいつものようにからかわれる事は間違いない。
「……やらしい」
「!?」
にやにやした顔でミスティを見ながら、ぼそっ、と呟いたのはエルミラ。
間違いなくやらしいと言われるような出来事が起きていない事を確信した上で、あえてミスティをからかうための言葉を使っているのがわかる。
ミスティは耳を赤くしつつも、いつものように踊らされないよう、こほん、とわざとらしい咳払いで自分を落ち着かせ、極めて冷静にその呟きに答える。
「言っておきますが、そういった事は全くありませんでした」
「あー……やっぱりアルムと会ってはいたんだ?」
「あ……」
極めて冷静に、そして一瞬で誘導に引っかかったミスティ。
エルミラもミスティがあまりに簡単に引っ掛かった事に少し困惑気味だった。
会っていません、と言うだけでよかったというのに、やらしいという言葉を否定する事だけを考えたせいで会っていた事を簡単に認めてしまっていた。
「策士ですわね……エルミラ……!」
「いや、あんたがこの事になるとわかりやすすぎるんだって……」
耳を赤くしてエルミラを睨むミスティ。
そんな小声で話す二人を見てベネッタはルクスに耳打ちする。耳打ちにしては身長が少し足りないが。
「ルクスくんルクスくん。ミスティとエルミラ何の話してるんだろー?」
「落ち着くのと冷静なのは違うって話かな」
「おー、なんか深いねー」
「多分ここでは浅いかな」
アルムを先頭に五人が雑談を交わしながら山を下りていると、来る時も通りがかった緑に絡みつかれた民家が見えた。
民家の隣にある畑ではダルダという老人が何やら畑の野菜をいじっている。
畑からアルム達が見えたのか、ダルダは腰を手で擦りながら畑のほうから出てきた。
「なんだアルム、もう行っちまうのか」
「おはようダルダ爺さん。そうなんだ、元々別の予定があったから」
「なんだゆっくりはできなかったのか……」
ダルダは残念そうに畑のほうを見た。小さな畑には収穫した野菜を入れた籠がある。
ダルダという人は自分達には、へぇ、の一言ですませるくらい無関心だったが、アルムに対しては隣人らしい思いがあったようだ。
当のアルムはどうやら気付いていないようで畑を見た所で何か気付くわけでもない。
「畑がどうかしたのか?」
「ん? ああ、いや……まぁ、そうだな。ここはお前の故郷なんだからいつでも帰ってくりゃいい」
「ああ、ありがとう。次はもう少しゆっくりできる時に帰ってくる」
「そだな。それがいい」
「シスターと、それから師匠が帰ってきたらよろしく言っておいてくれ」
「……んん?」
別段、アルムは変わった事を頼んだようにはみえなかったが、何故かダルダは怪訝そうな表情を浮かべる。
アルムとしてもただ別れ際の言葉だったはずで、何故ダルダがそんな表情を浮かべたのかがわからなかった。
「んー……?」
「どうしたんだ?」
ダルダは髭を何度か撫でたかと思うと、不思議な事を口にする。
「シスターちゃんはわかるがよぉ……師匠って、誰の事言ってんだお前?」
「誰って……」
「またこの子らとは違うのがくるのか? 師匠って何のだ? それとも名前か? だったら変わってんな?」
それは冗談でも何でもない純粋な疑問だった。
シスターは勿論、ダルダや他のカレッラの住人も師匠と呼ばれる魔法使いの事は当然知っている。
なにせ師匠はこんな山奥の辺鄙な村に十年間通っていた変わり者だ。そんな人物は忘れたくても忘れられるはずがない。はずがないのに……目の前のダルダは村に十年以上通い続けてくれていた魔法使いの事を、完全に忘却してしまったかのようで。
「…………え?」
アルムは戸惑いでしか、その疑問の声に応える事が出来なかった。
いつも読んでくださってありがとうございます。
忘却のオプタティオ序章編終了です。
ここで一区切りになり、次の更新は一区切り恒例の幕間です。次の本編からガザス留学編となります。
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