281.告白
「はぁ……」
照明用の魔石など無い山の夜。
教会の壁に付いている外灯の中の蝋燭の火が揺れた。
あの後、気まずくはなりながらもアルムを交えて他愛の無い雑談を楽しんでいると、すぐに夜になった。
山は夜も朝も訪れるのが早い。
使っていない部屋は多くあるので、全員を泊まらせても問題はない。火を起こして湯浴み用の湯を沸かし終わると勝手に使っていいとミスティ達に伝えてシスターは外へと出た。気まずかったからではなく、夜の暗がりに乗じて教会に近付く魔獣がいないかを見回りするのは日課なのである。
「ベネッタちゃんには謝らないとなぁ……」
ため息と自省の声。
古びたランタン片手に教会の周囲を見回る間、シスターはあの時の事を責め続ける。
あれではただの八つ当たりではないか。
つくづく、自分の中にある煮詰まった泥のような感情は醜くて見るに堪えない。
母親というワードに過剰反応する自分にも。
足取りは重く、いつも持っている巨大な斧も妙に疲れる。
歳のせいだな、と普段なら真っ向から否定するような結論を下しながらシスターは教会の周囲を一周する。
ここに近付く魔獣はもうほとんどいない。全部斧の錆びにしてやったから。
だが、今夜は一つ、雄叫びのようなものが遠くから聞こえてきた。
「っと……怪しい声だな」
近付く魔獣はほとんどいないが、そのほとんどに入らない狂暴化した魔獣となれば話は別だ。
雄叫びはまだ遠いが、今日の山は人の気配がいつもより濃い。
ここに来る可能性は高いなと討伐を決意する。
せっかくアルムの友人が来てくれているのだから、その安眠を邪魔させるわけにはいかない。
雄叫びがした方向だけを記憶して、シスターはいつものように三十分ほど周囲を歩き回って日課を終える。
「……ミスティちゃん」
「お疲れ様です。シスターさん」
シスターが教会の正面に戻ろうとした時、戻ろうとしていた方向から歩いてくるミスティの姿があった。
制服ではなくゆったりとしたワンピースのような服の上にカーディガンを羽織っていて、湯浴みして間もないのか上気した肌は血色も相まって一層美しく見える。
ランタンの明かりに照らされる少女の姿は、事前にミスティという少女であると知らなければ山に住む女神と崇められてもおかしくない。
「私を探してたのかい?」
「はい」
にこっと笑うミスティは誤魔化そうともしなかった。
何故探していたのかは言われなくてもわかった。
シスターはがしがしと乱暴に髪を掻く。
「さっきの事だろう?」
「はい。申し訳ありません。過去を詮索するのは失礼だとは思っているのですが……尋常ではない様子に少し気になってしまいまして」
「まぁ、気になるわな……」
どうしたものかとシスターは悩む。
ミスティが知りたい話はシスターという人間の人生最大の汚点でもある。
目の前で反魔法組織の首領を殺された時よりも、反魔法組織を異国の女に乗っ取られた時よりも。
「シスターさんの傷を無遠慮に触ってしまうような事かもしれませんが、私はアルムの事を知りたいと思っています。少しでも、あの人に歩み寄りたいと思っています。どうか、お教え願えませんでしょうか」
「おいおい!」
ミスティは当然のように頭を深々と下げた。
アルムの本がある部屋と同じように、しかし、今度は敬意とは違う意味で。
貴族に頭を下げられるなんて経験を一日で二回もしてしまったシスターは慌ててミスティの頭を上げさせようとする。
「あんた……カエシウス家の子だろ? そんな平民に頭を下げていいのかい?」
「頭を下げるべき時に下げないようなちっぽけな矜持は持ち合わせてはおりません。今私はしているのは私の都合による不躾なお願いですから」
「……カエシウスって元王族だろ。なんか……そんな感じしないなあんた」
「元、ですから。今はただの貴族です」
「四大貴族がただのって……他の貴族が聞いたら卒倒するんじゃないのか全く……」
シスターは参ったと笑って、巨大な斧を教会の壁にかけると自分の背中も壁に預けた。
きょろきょろと周囲を見回し、誰もいない事を確認すると大きく深呼吸をして。
「……アルムが五歳の時だ」
修道服を着た女は自分の罪を少女に告白し始めた。
「魔法使いになりたい」
あの子がそう言い始めたのが五歳の時だった。
きっかけは私が買い与えた一冊の本だった。
何てことない話でね。色んなタイミングが重なった。
前日に珍しくエリュテマが別の山から餌を探しに来ていて、ダルダ爺さんも腰を痛めていない時だったから二人で狩った四匹のエリュテマを山分けした。町に下りたら丁度エリュテマの素材を高く買いたいって商人がいて、思いの外高く売れたから……私達平民にとっては贅沢品な本でも買ってやろうと思ったんだ。
作家兼魔法使いの貴族が書いた子供に人気の魔法使いの冒険譚。
当時、まだ若かった私としては気に食わなかったが、私の意見よりもアルムが喜ぶかどうかのほうが大事だったから買っていった。本一冊で私みたいな貧乏平民なら三食は食えそうな値段がしたものだから少し躊躇ったのを覚えてる。
「うわぁ……!」
買っていってよかったと思った。
本を渡した時、その本の表紙を見るだけでアルムは嬉しそうだったから。子供の頃からあまり感情を表に出さない子だったのに、まるで流れ星を捕まえたみたいに目を輝かせてた。
表紙に描かれた魔法をなぞるように指で触って、表紙の隅々まで見ていたよ。
本を開くまでに魔獣一匹を仕留めに行けるんじゃないかと思ったほどさ。
「すごい……!」
どきどきしてるのが伝わってきてね、本を開く手が震えてた。読み始めた時はそりゃ嬉しかったものさ。
ページを捲るごとにコロコロ変わる表情が楽しそうで、嬉しそうで、はらはらしてて、ずっと見ていられた。
読み終わったと思ったらまた表紙をキラキラとした目で見つめて、抱きしめたかと思うとまた読み始めて。夜になったら私に読み聞かせてほしいとせがまれた。我が儘なんてほとんど言わなかった子だったからね。あの子が眠るまでずっと読んだよ。
……そんな日がずっと続いた。
こんなに喜んでくれたならまた買ってきてやろうって。私の食事を抜いて、干し肉も売ったりすれば月に何冊かは何とかなるだろうって思って節約もし始めた。
実際、何とか月に一冊か二冊は買ってやれる事が出来た。
どんなのを気に入るかがわからなかったから、とりあえず最初に買った一冊と似通った表紙やワードが書いてある本をアルムに買い与えた。
でも……私はその時、勘違いをしていたんだ。
私はアルムが、本を、好きになってたんだって思っていた。
だから……村の皆にこんな事を聞いて回ってたのもただのアルムの中の流行だと思ってたんだ。
「俺、魔法使いになれるかな?」
そんな夢と希望にありふれた質問。
村の人達にアルムはそんな質問をして回っていたらしい。
丁度、税の取り立てが近かったから、他の山に住んでる人達も相談の為にこの山に来るタイミングが多かった。普段干渉しなくても、カレッラの人達はアルムの事は知ってるし、狂暴化した魔獣を狩った後なんかは皆一緒になって酒を飲んだりもするからアルムにとってはいわゆる近所の人みたいな感覚だったんだろう。
だから、来る人みんなに「俺も魔法使いになれるかな」って聞いて回ってたんだそうだ。
セミト爺さんからそんな話を聞いて、私は微笑ましかった。
アルムも普通の子供みたいに、影響されるような可愛いところがあるんだって。
平民が魔法使いになれないなんてのは常識だ。その質問に真面目に答えるなら、なれない、が正しい。
けど、子供の言うことだ。わざわざ夢見る子供を否定するのもおかしな話だから、セミト爺さんもアルムに聞かれた時には、お前さんならなれるさ、と言ってあげたらしい。
そんな話を聞いてから私はそわそわしちまってね。風呂の時とか食事の時とか、いまかいまかと気になって仕方なかった。
――話を聞いてから何日か経ったある日、洗濯物を干してたらその時は来た。
「シスター」
「んー?」
「俺……魔法使いになれるかな……?」
背中越しに聞いてくるアルムの声に、来た、と思ったね。
私の子供が初めて私に夢を語ってくれたんだ。その問いに答えてやりたくて仕方なかったから聞かれた時は嬉しくてたまらなかった。
だから。
「ふー……そうだな。まぁ、頑張ればなれるさ」
洗ったシーツを広げながら何でもないような口調で、頑張ればって言葉を付けて他の人達よりも後押しするような気分でそう答えた。
「本当?」
そして、そう聞き返してきたアルムの声に短く答えた。
多く語るのは野暮だと思ったから。
「……ああ」
それが……私の人生で最もやってはいけない事だった。
「っ、――!」
「……」
答えて振り返ってみると、そこには考え得る限り一番見たくない私の息子がいた。
生きる気力を失ったような虚な瞳。
半開きの口からは声すら出ない。
抑えられない悲しみで顔を強張らせて。
たった五歳の子供が、今にも自決してしまいそうなほどに絶望していた。
そう、五歳だったアルムは子供の夢を語っていたんじゃなくて――ずっと真剣に、自分の未来の話をしてくれていた。
アルムは知っていた。
平民では魔法使いになれない事を。
私が買ってきた本で、知っていたんだ。
知っていて尚、なりたいという気持ちを捨てきれなくて周りの大人に本気で相談をしていたんだ。神様にでも縋るかのように。
それを私達、いや、私は子供が見る瞬きの夢だと決めつけた。
……その時のアルムの表情を見て気付いたよ。
私達が子供の夢を守る為にと思っていた空っぽの言葉は全部、子供を馬鹿にしていた大人の自己満足で、アルムが語ってくれた未来の話をゴミのように扱っていたんだと。
返ってくる全く同じの気休めの答え。
大人は誰も自分と向き合おうとしない。
魔法使いになりたいと思わせてくれた他でもない本に抱いた夢を否定され、自分と誰も向き合わない大人の態度と嘘が、あの子の心に止めを刺した。
自分の夢は、永遠に叶わない。初めて見た夢は目指す事すらする前に大人によってあの子の夢は踏み荒らされた。
私は、子供の夢を守る為だと思っていたのが、実際は子供の夢を粉々にしていた。
そして誰も、あの子の傷に寄り添おうとしなかった。
誰かが一人でも、なれない、と。誰か一人でも、夢が叶わない事を一緒に嘆いてくれる大人がいたのなら、一緒に悲しんでくれる大人がいたのならあんな、全てが信じられなくなったような顏はしなかっただろうに……!
そしてそれは――村の中で唯一、あの子にとっての特別であるべきだった私の役目だった……夢と一緒に現実も教えるのが、あの子の親になりたかった私の役目だったはずなのに――!!
「私はあの時、アルムの特別である事を自分から捨てた。村の皆と同じただの大人になった。あの時、洗濯物を干すのをやめて……あの子の顔をちゃんと見ながら聞いていれば、あの子が何を伝えたかったのかわかったかもしれないのに……アルムの事を全部わかってる、みたいな顔で勝手に舞い上がって、あの子の心を殺した」
静まり返る夜の闇。
聞こえてくる虫の声。
その闇の中で、何処よりも暗い場所がミスティの目の前にはあった。
「だから、アルムの親は私じゃない。アルムの壊れた心を治して、アルムに夢を目指す力をあげた……師匠ちゃんだけだ」
そこで罪の告白は終わった。
処刑台があったのなら、首を差し出したのではないかと思うほどに……シスターの表情は暗闇に溶けている。
何も言う事が出来なかった。
誰にも悪意は無かった。ほんの少し、すれ違っただけ。けれど、そのすれ違いがあまりに決定的過ぎただけの間の悪い心の事故。
だからこそ、何も言えなかった。
これはきっと、本人が自分で科した足枷で当人達が交わす言葉の中で溶けていく罪科だから。
「アルムくんどこ行くのー?」
「ちょっと散歩に」
「暗いよー?」
「慣れると意外に月明りと星明りでいけるんだ」
シスターとミスティの話を終わらせるかのように、教会の正面のほうから、ベネッタとアルムの声が聞こえてきた。
アルムは教会の扉を閉じると闇の中、森の方へと歩き始める。
「アルム……こんな暗い時間に何処へ……?」
「秘密の場所に行くんだよ」
当然のように、シスターはミスティの疑問に答える。
「秘密の……場所?」
「行ってみな。あんたなら多分、教えてもらえると思うよ」
シスターは顔をアルムのほうに動かして、ミスティにアルムを追い掛けるように促す。
シスターをここに一人置いていくのに少し躊躇う。何より、自分が話してほしいと頼んだせいで今、シスターはこんな悲しそうな表情をしているのだから。
「少し、一人にさせてくれ」
そう言われて、ミスティはここから離れるしかなくなる。
悩み苦しむ時、一人になりたいと思う気持ちが痛いほどに理解できてしまうから。
ミスティは言われた通り、アルムを追い掛けようとする。
「私は何も言う資格はないのかもしれません」
「なら……なんも言わないでいい」
でも最後に。
余計なお節介だとしても、求められていない慰めだったとしても、言わなければいけないと思った。
だって、悲しんでいるのは自分のかけがえのない人を育ててくれた……紛れもない恩人だから。
「どんなに拭えない後悔があったとしても……それはあなたという人間の全てではありません。どうか……自分が愛する人にどう思われているかを、忘れないでくださいませ」
去り際にそう残して、ミスティはアルムの下へと駆けて行った。
確かに繋がっているはずの、二人の間にある糸を辿るように。
いつも読んでくださってありがとうございます
次で一区切りになります。