280.アルムの
「ここだよ」
案内されたのは教会に入って左側に見える二階に上がって一番奥にある部屋だった。
木製の扉が開くと、広がると言うには慎ましすぎる小さな部屋が現れる。
机に椅子、小さい本棚とベッド。
机の上にはナイフのようなものが置かれていて、無駄なものは全くなく、簡単に言えば質素だった。
アルムがカレッラを出た後も、シスターが掃除しているのか埃塗れという事もない。
「……想像の域を出ないわね」
「滅茶苦茶アルムくんっぽいー」
「こりゃいかがわしい本はないわね」
「ないねー」
「あ、当たり前です!」
エルミラとベネッタは本気で物色する気はなかったが、ほんの少しだけがっかりするように肩を落とす。もう少し生活感が残っていればそれなりに期待もあったのだが。
当たり前と言いながらも内心不安ではあったのか、二人の横でミスティは胸を撫でおろす。
「あとこっちだね」
そう言って、廊下の奥のすぐ近くにある扉をシスターは開ける。
「え? 二部屋?」
思わぬ展開に嬉々としてシスターが開けた扉の先を覗くエルミラ。
その後に続いてベネッタもひょこっと顔だけで部屋の中を覗いてみる。
「……っ」
「ぇ……」
残念がっていたさっきとは違って、今度は二人とも絶句していた。
何があるのかと、少しどきどきしながらミスティも部屋の中を見てみると。
「これ……は……」
言うなれば、扉の先は部屋ではなく、本だった。
正確には部屋の中に本が積まれているのだが……その量が普通ではない。
部屋の中央に人が一人通れるほどの通路とも言い難い隙間と奥には本が積まれた小さな机。
その最低限のスペースだけを残し、他全てを埋めるかのように、本の山がいくつも積まれていた。部屋の床が抜けるのではないかと思うほどの量がそこにはあり、その全てが魔法に関する本と魔法使いの物語が書かれた本。
本は平民にとっても決して安いものではない。平民が部屋を埋めるほどの本を集めるなどかなり難しいだろう。普通の本ならばまだ有り得るかもしれないが……魔法に関する本は言うまでもなく魔法使い向け、つまりは貴族向けだ。ベラルタのように生徒に格安で売るような環境ならともかく、平民が買うとなればかなりの負担となる。
「拾ったやつやら譲ってもらったやつやら……師匠ちゃんが持ってきたやつやら……集めてたらこうなっちゃってな」
部屋の中は古い紙の匂いと比較的新しい紙の匂いが混じっている。しかし、本は全て例外なくボロボロだった。
一部が擦り切れた表紙、折れたページなど無い本を探すほうが難しく、水が滲んだような跡や、土や血が付いている本もある。
人間の営みが排除され、自然に生きるカレッラという村の中――この部屋だけが、人間が生み出した幻を現実にする技術、選ばれた才能が積み上げてきた人間の時間を本という形にして、濃密な魔法の気配を漂わせていた。
「これでも、整理したんだけどね」
言うまでもなく、ミスティやルクスといった四大貴族の邸宅の蔵書量に比べれば少ない。
だが、そういう問題ではない。
この本を読んでいたのはアルムという、魔法の才能が無かった平民のはずなのだ。
ここにある本に書かれた魔法のほとんどを、アルムが使える未来は無い。
自分には使えない魔法の書物を延々と読み続けるその時間を、アルムは一体どんな気持ちで過ごしていたんだろうか。
積み上げられた本に囲まれ、部屋の奥に向かう中央の細い通路はまるで、アルムが選んだ無属性魔法という一筋の道のようだった。
「汚いとこで悪いね。ここだけは流石に掃除できないんだ」
「いいえ」
シスターの声にミスティは首を横に振る。
「とても、とても美しい場所です。見せて頂けて……光栄でした」
「ちょ――!!」
この部屋の在り方こそ自分にとってかけがえのない人の歩んだ軌跡。
シスターが慌てて止めようとするも、この部屋を見せてくれたシスターにミスティは頭を下げずにはいられなかった。
部屋を見せてもらった後は、リビングと呼ぶには広すぎる長い椅子の並んだ広間にシスターがお茶を運び、ミスティ達は体を休めた。
キッチンのほうに大きめの机があるらしいのだが、昨日狩った魔獣の頭やら腕やらを解体した後なので血と野性的な匂いがどうしても抜けないらしく、客を通せる状況ではないのだという。
壁に窓から差し込む白い光と、天井のステンドグラスから差し込む青い光の二つに照らされ、南部で飲まれる甘いお茶を嗜みながらミスティ達はシスターに今までのアルムの話を語った。
普段の学院でのアルムの様子、最初はよく思われていなかったが、活躍とともに認める人も出てきて今は落ち着いた生活をしている事。
入学式の日からルクスとぶつかった話、共にミレルを救った話、そしてスノラで起きたクーデターからマナリルを――ミスティを救った話。
【原初の巨神】の件と魔法生命については国の方針で詳細を話す事はできないが、それを除いてもシスターを驚かせるには十分な内容で、ミスティ達は滔々とアルムの話を語っていった。
「はー……別人の話を聞かされてるみたいだ……アルムがそんな……北部で起きた事件については聞いていたけど、まさかアルムが……」
自分がよく知っているアルムとはかけ離れている話のスケールに、シスターは思わず天井を仰ぐ。
同時に、誇らしさからかその顔は次第ににやけ始めていた。
「彼は私を救ってくださいました。私の助けの声に応えてくれて、私を殺めようとする人を許さない、と……一歩も退かず、そして怯まずに立ち向かってくれたのです」
今でも鮮明に思い出す。
凍り付いた体と心を溶かすような温かい体温。
震える自分を抱きしめてくれていた男の子の腕。
自分の涙と恐怖を受け止めてくれた固い胸。
記憶の中で輝き続ける魔法使いの姿にミスティは頬を紅潮させる。白銀の髪に映えたその色と、愛しさを隠さない表情はミスティの美しさをより際立たせていた。
「あの子が許さない、か……よっぽど、ミスティちゃんが大事なんだなあの子……」
「そ、そう、なのでしょうか……」
火照った顔をぱたぱたと手で冷ますミスティ。
天を仰いだシスターはそんなミスティをじっと見つめたかと思うと、下を向いて口を開いた。
「アルムが孤児だってのは知ってるかい? 私が村に降りた時に拾った子なんだ」
ミスティ達は四人とも、当然のように頷いた。
ミスティ達もアルムが孤児だという話は聞いた事がある。
本人は普通に話すが、気軽に触れられる話題では無かったので深く聞いた事は無かったが。
今でも覚えてる、そう前置きしたシスターの声にミスティ達は静かに耳を傾けていた。
「あの子が十歳になった頃……アルムが捨てられていた事を、本人に話したんだ。そしたらあの子……何て言ったと思う?」
シスターは悲しそうに、笑い捨てた。
まるでその時の出来事が今でも納得いっていないかのような。そんな笑いだった。
「黙って下を向きながら何かを考え始めて、顔を上げるとこう言ったんだ……俺の両親は俺を捨てる事が生きるのに必要だったんだな、って。少しだけ悲しそうにしながら、仕方ないな、って」
四人はそれを聞いて声を出す事も出来なかった。
仕方ない、はずがない。少なくとも、捨てられた子供だけは仕方ないで片付けなくていいはずだ。
自分の立つ場所に涙を落とし、両親に怒りを覚え、運命を怨む資格がある。
子供にとってあんまりな親の無責任を、仕方ないで片付けていいはずがない。
だってそれは、捨てられた子供が出すにはあまりに――悲しすぎる結論。
「あの子は、誰かの生き方と敵対こそするが……基本的に否定はしない。ましてや、許さない、なんて言葉は絶対に使わない。少なくとも私は、聞いたことがない。人間が生きるという事が、時に子供を捨てなければいけないほどに大変である事だと身を以て知っている子だから」
シスターは真っ直ぐ、ミスティを見つめる。
シスターの茶色の瞳に映った少女はアルムが守った世界。守りたかった世界そのもの。
シスターは思う。
この小柄な少女に、アルムはどれだけ大きなものを貰ったのだろう。
「だから、そのグレイシャって人の生き方……世界を自分のエゴで壊すくらいに……ミスティちゃんが大事だったんだよあの子は」
頭を撫でるような優しい声。実感の籠ったシスターの声がミスティの心に染み入っていく。
今までアルムを見てきた人にそう言って貰えて、自分が思いを抱く資格を得たかのような気がした。
少しの静寂を経て、ルクスが切り出すように手を挙げる。
「失礼ですが、アルムの両親はやはり見つかってはいないんですか?」
「ああ、だけど……師匠ちゃん曰く間違いなく平民の子だろうって」
アルムが故郷の事を話す時は必ず、二つの名前が絡む。
シスター、そして師匠。この二人がアルムにとってどれだけ大きな存在かは会ったことが無くとも知っていた。
アルムという人間にとって大切なもう一人の存在がシスターの口からも出てきた事に四人は無意識に反応してしまう。
「私は平民だから詳しい事はわからんが……魔法っていう現実を作り上げる時の方向性を操れないんだとかなんとか……魔法使いの才能があるやつってのは無意識に現実を属性に置き換えられるらしいんだけど、アルムはそれができないんだと」
「ではアルムは……」
「うん、間違いなく平民の子だよ。まぁ、赤ん坊捨てましたかー? って聞いて回って素直に、はい捨てました、って出てくるやつはいないだろうしね、これから先アルムが会う事もないだろ」
話を聞いて、ルクスは危惧していた事態は回避できそうだと安堵する。
ルクスはアルムがこれから先、国も貴族も無視できない存在になっていくだろうと確信している。
その中で、アルムの経歴が知られるような事があれば、子を捨てざるを得なかった美談を引っ提げて自分が親だと名乗り出る厚顔無恥な貴族が現れるのではないかと考えていた。
アルムの活躍が生み出す利益を自身の懐に入れようとする……ルクスからすれば貴族の地位に相応しくない人間が。
今のシスターの話は公的な証拠にはならないが、アルムの出生を調べた事実にはすり替えられるし、四大貴族の名をもってアルムを守る際の理由と材料くらいにはなる。
アルムには功績があっても地位が無い。
そういった点で、オルリック家という地位を持って生まれた自分は友人の力になれる、なれるはずだと考えていた。
地位と権力は、賢しい悪から立場の弱い人を守る為にあるのだから。
「まぁ、それに……自分を捨てた両親にわざわざ会う必要は無いわよね」
「ボクもそう思っちゃうなー……アルムくんがどう思ってるかわからないけど、今更会っても辛いだけかなーって」
エルミラの意見にベネッタも賛同する。
仲がいいから意見を合わせたわけでは決してなく、アルムが話すシスターという育ての親に会ったからという理由からだった。
シスターがアルムの事を心配し、大事に思っているのがこの短い時間でも十分に伝わってきていたから。
「それに、今はシスターっていうお母さんがいるわけだし――」
しかし。
「違う」
瞬間、空気が一変した。
ベネッタの声を遮るシスターの声。優しい声はどこにも無く、ただベネッタの言葉を否定するだけの意思が声にはあった。
「し、シスター……さん……?」
「ちょ……!」
「……」
「シスターさん……?」
ただ座っているだけのシスターにベネッタは生唾を飲み、エルミラは隣のベネッタを思わず庇うように抱き寄せる。ルクスは思わず頭の中で魔法を描いていた。
ルクスに臨戦態勢をとらせるほどに、今のシスターには有無を言わさない迫力があった。
自分ごと引き裂くかのような、鋭い視線。
これから傍らにある巨大な斧がベネッタの首目掛けて振るわれるのではないかと思うほどに。
殺意に等しいその視線を何故しているのか、誰に向けられているのか、四人にはわからない。
「アルムは確かに私の息子だ……だけど、私はアルムの親じゃない」
「ど、どういう……」
「君達も、いずれ親になって子を持つ事になるだろう。そうなればきっと、わかる時が来る。たとえどんなに愛していたとしても、衣食住を与えるだけの人間を……親とは呼ばない」
そこでようやく聞いていた四人にはわかった。
シスターが向ける殺意。それは今、自分に向けられている事に。
ベネッタの言葉を否定しながら、シスターは自分の心を自分の言葉でずたずたに引き裂いている。
そして――
「親とは、子供の心と一緒に歩く覚悟を持つやつの事を言う」
シスターはそう言い放った。
それはまるで、手を伸ばしても届かない憧れであるかのような。
「私はアルムを生かしただけ。私は、アルムを裏切った。あの子の心を一度殺した。私は変わらずあの子を息子と呼ぶが、私にはあの子に親と呼ばれる資格が無い。それだけの事をあの子にした。自己紹介はしたはずだろ、私はシスター。ただのシスター。アルムの親じゃあない」
何て、寂しい瞳をしながら言うんだろう。
ミスティはシスターの瞳を見てそう思った。
まるで、流せない涙で息を詰まらせているかのような。
「唯一、あの子の親と呼べる人間がいるとしたら……それは師匠ちゃんだけさ」
そこまで言ってようやく落ち着いたのか、この場を支配するかのようなシスターの迫力は消えていった。
かちゃ、とシスターがただカップを持つだけの音が驚くほど教会に響く。
ベネッタはばくばくと鳴る心臓につい胸を手で押さえた。
「ただいま」
そんな重い空気の中、教会の扉が開く。
入ってきたのは帰ってきた報告と隣の山への墓参りを終えたアルムだった。
「ん? みんな黙ってどうしたんだ?」
ただ事ではない事が起きた雰囲気と漂う重い空気。
そんなものをアルムが感じ取れるはずもなく、妙な静けさにただ不思議そうに首を傾げた。
「おかえりアルム」
「ただいまシスター」
何事も無かったかのように微笑むシスター。
その様子はアルムの育ての親とは思えないほどに誤魔化す事に自然だった。
「流石に疲れただろ、お茶を持ってきてあげるよ」
「ありがとうシスター」
「いいさ」
「そうだ、聞きたかったんだが……師匠はどうしてる?」
今さっき、重い空気を締めくくった師匠という名前がアルムの口から出てくる。
ミスティ達にとってはどんな人物かもわからない。
けれど、今のシスターにそれを聞いてはいけない気がしてしまう。
「ああ……半年前くらいかな。ここを出ていったきり、帰ってきてないんだよ」
「……そうか。残念だ。みんなに会わせたかったが仕方ないか。気まぐれな人だしな」
そんな落胆するアルムの当たり前の感想すら、さっきのシスターの姿を思うと四人の耳には残酷に聞こえた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
期待されていた方がいたらごめんなさい。師匠不在でございます。