276.入り口
東部は主要の道が平坦なため、距離の割には移動が容易い。その上、領内の主要路が整備されているオルリック領ともなれば三日も走れば、マットラト領に着くほどだ。
オルリック領を抜け、マットラト領に入れば風景の変化はすぐに現れる。
馬車の窓に見えるのは広大な田園風景。領地を横断するように馬車を走らせていると、途中には山地から流れてきている底は浅く幅は広いウラウト川と呼ばれる大きな川が目に入り、朝に訪れれば日差しを浴び、さながら光の道のようにキラキラと輝く川の姿が地元住人のちょっとした贅沢だ。そこここにあるレンガ造りの建物は古めいていて、王都やオルリック領とはまた違う趣のある景観が広がり続けていた。
そんなマットラト領の中心部を通り抜け、途中に寄った小さな村で休憩してから数時間。再びのんびりとした風景を走って行くと、比較的平坦だった土地の向こう……マナリルとガザスを分断するように山々がそびえ立っている山地にまで辿り着く。
「これ……入り口っていうの?」
「俺も数えるほどしか使ってないから微妙なとこだな」
とある山の麓に着くと、そこは山道の入り口というには鬱蒼とした場所だった。
言われなければただ森が目の前に広がっているだけとしか思えない。
明らかに人の出入りが無く、この先に村があると言われても到底信じることはできない。
近くの村の住民も見える山々全てが魔獣の住処な上に、どこからがガザスの国境かがわからないため、山に入ろうとする者などいないのだという。
事実、山の麓から近くの村までは結構な距離がある。
「それじゃあ私は明日の昼頃にここに迎えに来ればいいんですよね?」
「はい、よろしくお願いします」
「わかりやした! ではまた明日ここにお迎えにあがります!」
御者のドレンは確認を取ると手綱を操り、馬を走らせる。
馬の駆ける音。道とは言えない道を走り、がたがたと鳴る馬車の車輪。
ゆっくりと小さくなっていくその姿は、何故だか現実が遠くなっていくような気すらした。
それもこれも、人気が全く無く、人間の営みが感じられない目の前の山のせいだろう。この先に村があるというのならもう少し主張してほしいものだとエルミラは一人思う。
「ここを……通っていくのですか?」
「ああ。ここからが一番近いからな」
言いながら、アルムは山の中へと入っていった。
方向音痴の気があるアルムが先導しようとする事にミスティ達は驚くも、故郷では迷わなかったと言っていた事を思い出した。
「枝とかに引っ掛けないようにな」
すいすいとある程度先に進むと、アルムは四人が来るのを待つ。
その歩みは水の中を泳ぐ魚のようにスムーズで、足取りはいつもの倍は軽そうだ。
忠告が少しずれている事だけがいつも通りのアルムである事を四人に実感させる。木々が生い茂った山に入る上での注意点が、まず枝というのもどうかと思うが、アルムにとっては本当にただの入り口という事なのだろう。
「……『強化』」
「奇遇だね、エルミラ。僕もそうしようと思ってた」
「ボクも一応……」
エルミラを皮切りにミスティ達も無属性魔法で強化をかけてから山の中へと入っていった。
「あ……」
山に入った瞬間、清涼な空気が肌に触れる。
この山そのものが人の文化から隔絶された一つの世界のようで、その空気の違いに入る前と入った後では全く違う世界に迷い込んでしまったようだった。
つい、ミスティは後ろをちらっと振り返る。
さっきまでいたはずの場所が先程小さくなっていった馬車と同じように遠い。
それに――
「素敵……」
「うわお……」
山に入ったミスティ達を出迎えるのは青々とした木々のアーチ。
日の光は計算されているとかと疑うほど美しく、葉と葉の隙間に差し込む光は宝石のよう。
山の澄んだ空気と相まってまさに別世界の入り口を演出しているかのようだった。
「外からだと全然わかんなかったのにー……」
「ああ、驚いた……ここまで印象が変わるのか……」
アルムがスムーズに進めたのも納得といったように、周囲を見渡しながらミスティ達もアーチをくぐってアルムについていく。
先行く道をアルムが先導しているのは珍しい。
広がる深い緑の中、時折顔を見せる花や木の色。ミスティ達が景色に見惚れる中、アルムは話を切り出した。
「師匠曰く……ここは幻想的な雰囲気があるらしい」
「ええ、素晴らしい景色ですもの」
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい……でも、そういう意味じゃないらしい」
「ん? どゆことー?」
「本当の意味で、幻想に近い場所なんだそうだ」
ミスティ達の視線は景色からアルムの話へ。
四人とも、アルムの言っている意味がわからず顔を見合わせる。
「俺も詳しくはわからんが……余りに隔絶されているせいで一種の異界に近い状態になってるって。人の想像する自然の神秘をそのまま映す鏡のような場所になっているそうだ。だから、ここを美しいと感じる人には自然の美しさがそのまま映るんだって師匠は言っていた。逆に、恐がる人には山は険しく感じてそこら中に魔獣が潜む巣のように映るらしい」
「……素敵なお話ですが、妙に確信めいていますわね」
例え話のような内容でいて、確信を持っているような師匠という人の言い回しにミスティは少し疑問を覚える。
まるで、何か自分達とは知らない成り立ちを理解しているかのような。
「ああ、師匠が言うには"現実への影響力"ってのは今でこそ魔法の完成度や威力、効力を指すのに使われているけど……元々は土地や空間の在り方がもたらす変化の事を指すんだと。だからこういう場所がたまにできるって」
「面白い考え方だな……」
ルクスが言うと、アルムは頷く。
「俺もそう思った。意味はよくわかってないけどな。元々遠回しな表現をする人だったから……もしかしたら遠回しにこの場所を褒めてくれただけなのかもしれない」
「たまにアルムから話聞くけど……なんとなく不思議な人ね」
「そこがまた魔法使いっぽくて子供の頃はわくわくしてたよ。途中から現実的な人だってわかったけど」
木々のアーチを抜け、山に入ってから数十分。
風が運ぶ木々の香りと湿った土の匂いが混じり合い、森の気配を色濃くする。
時折魔獣の唸り声が聞こえたり、その辺の藪が人の気配でガサガサ動く事にもう慣れた頃。
緩やかな傾斜を登った先に、ようやく人が住んでいると想像できるものを見つける。
「これ……階段ですわね……」
「うわ、ほんとだ……」
それは斜面に作られ、緑に覆われている石の階段だった。
山に入って初めて見る人の手によって造られている人工物。したたかな植物の力によって緑に色づいた階段は、山中に踏み入らなければ存在している事にすら気付けないだろう。
その階段は景色と同化していて、人工物でありながら山の一部と言っていいほどに自然の中にあった。
街や家の階段のように、地面から少し離れていて上りにくくなっているのがかつて別の光景がここにあった事を想像させる。
「よし、ちゃんと着いたな」
「ちゃんと……まぁ、今のは聞かなかった事にしてあげるけど……近いって事?」
「ああ、ここが入り口みたいなもんだ。道を間違えるとここに着くのも一苦労だからな。知ってる人間以外は大抵ここに着けない」
言外に、ここに辿り着けなかった人間の末路を想像させるような口ぶり。
もしかしたら、比較的あっさり着いたと思っていたこの場所は思ったより複雑な地形に先にあったのかもしれない。
何てことない表情で、アルムは石の階段を軽やかに一段上ると、後ろのミスティに向かって手を伸ばす。
「滑らないようにな」
「あ……は、はい……ありがとうございます……」
ミスティは少し顔を俯かせて伸ばされたアルムの手を握ると、アルムの力を借りてミスティも階段の上へ。
実はというと、無属性魔法とはいえしっかり強化をかけているためこの程度であれば飛び移れる。しかし、アルムはその事に気付いておらず、次のルクスにも手を伸ばした。
「アルム、一応、僕達強化かけてるから大丈夫だよ」
「あ、そうか……つい」
アルムに伝えると、続く三人はルクスの言う通り軽々と階段へと。
ミスティが上った後に言ったのはルクスの配慮である。
「……ん?」
「アルム?」
「……誰か来る」
人の気配を感じ、アルムは階段の先を睨む。
長い階段の先に見える人影。柄の先に巨大な塊をつけた長い武器のようなものを肩に乗せている。
アルムの声でミスティ達もその人影に気付くと、瞬時に身構える。
緑に覆われた階段と深い緑を枝に囲まれた世界に浮かぶ黒と白のコントラスト。
向こうもこちらを警戒しているのか、その特徴的な服装をした人影はゆっくりと階段を下りてくる。
階段を降りる度に、肩に乗っている長い武器は重く揺れ、人影が近付くと、その武器が巨大な斧である事にも気付いた。
「んあ?」
その人影は階段を途中まで降りると、何かに気付いたのか間の抜けたような声を上げた。
声から向こうの緊張が緩むの感じる。
「なんだ、アルムじゃないか」
声は女性のものだった。人影がアルムの名前を呼ぶと、ミスティ達の警戒の空気もまた薄まった。
アルムに至っては、もうその人影を警戒などしていない。
フードの無い修道服と巨大な斧という、似つかわしくない組み合わせが妙にしっくり来る女性が階段の先には立っている。
「おかえり。遂に退学にでもなったかい?」
「嫌な事言わないでくれよ……シスター」
その女性をアルムはよく知っている。
階段の先にいたのはシスターと呼ぶ自分の育ての親だった。
いつも読んでくださってありがとうございます。
登場させておいて何だよと思われる方もいらっしゃるかもしれないのですが、明日は更新できないです。ごめんなさい。
帰郷編はそんな長くならないはずですのでお待ち頂けると嬉しいです。