256.天泣の雷光4
私、シャーフ・ハイテレッタの人生はきっと、他の人からすれば取るに足らないものだったと思う。
ダンロード家の補佐貴族として生まれ、ベラルタで育った。
貴族にしては貧乏で、街の人達には貴族っぽくないなんて言われながら暮らす生活。
煌びやかなパーティ会場での時間よりも、街でお買い物をしている時間が大好きだった。
ダンロード家からの祝いの下賜よりも、近所の奥様方からお裾分けされる野菜や果物のほうが嬉しかった。
求婚してくださった高名な貴族よりも、この街を好きだと言ってくれる街の皆が好きだった。
魔法使いになりたかったわけじゃない。けど、この街だけは守りたくて、私は魔法使いになった。
魔法使いと呼ばれるには微妙な才能と何に使うかわからない血統魔法を受け継いでいるような家に生まれても、守りたいものだけはあったから。
「うっ……ふっ……!」
だから。
「うっ……ううっ……!」
だから私はやらなきゃいけない。
……やらなきゃいけないのに。
「なんで……なんでぇ……!」
一体何度目の試みだっただろう。
かちかちと歯を鳴らし、涙を浮かべながら私はもう一度腕を動かした。蝋燭の光で部屋に落ちた影も同じように動く。
持っているのは元々はティーポットだった鋭利なガラス片。
そのガラスの切っ先を私は首に突き立てようとする。
けれど、首に突き刺さる寸前で硝子片と、私の腕はピタリと止まった。
「なんで……! できないの……!」
遠くから伝わってくる恐怖を齎す鼓動と目の前に迫ってくる鋭利なガラス片のどちらに私は恐怖してるのだろうか。
もしかしたら、そのどちらにも恐がっているのかもしれない。
どれだけ自分の首を刺そう腕を動かしても止まってしまう。
あと数センチ動かせば届くであろうガラス片と首の間に、気が遠くなるような距離がある気がした。
恐がっている?
今更?
「なんで……なんでよ……!」
声と一緒に、目に溜まっていた涙がポロポロと落ちた。
私は何を泣いているんだろうと思いながらも涙が止まらない。
まるで自分の腕ではないかのように、何故か動かない自分の腕がこんなにも憎らしい。
そんな歯痒さと苛立ちからか、つい私は声にしてしまう。
「あの時は……! あんなに簡単に死んだのに!!」
このベラルタで目を覚ましてから、震えるくらいに恐い時があった。
その度に私は靄がかかっていたような記憶を思い出していって、私が何なのかも理解する事ができている。
その思い出した記憶の中で……まさか、自分を殺した無数の刃を恋しいと思う日が来るとは思わなかった。
記憶が鮮明になって、私は私自身の最後も思い出せるようになっていた。
あの日は、雨が降っていた。
私の目の前に彼女は一人で現れた。雨で塗れた灰色の長い髪が、ベラルタの街並みに似合うな、なんて悠長な事を思いながら私はその人に目を奪われていた。
クレア・ハルスター。
私を殺したガザスのベラルタ奇襲部隊の隊長。
三五〇年前、私が当時所属していた部隊ストレンジの人達はゲリラ戦で最初は彼女の部隊を翻弄したものの、時間が経つと徐々に通用しなくなっていった。
次々に仲間が戦死していって、王都に奇襲の事を伝えるために感知魔法を使えるダムスだけはと彼を逃がすと……ベラルタに残った魔法使いは私だけだった。
少しだけ時間を稼いだけれど、一人でやれる事なんて限られていて、ついにあの人と遭遇した瞬間、私の命運は尽きた。
出会った際に、騎士のような格好をしながらも優雅なカーテシーを見せられながら自己紹介をされた事を思い出す。
敵の私相手にも礼儀正しく、私なんかより数倍貴族らしくて、祖国の為にと戦う彼女は私なんかよりも遥かに立派な魔法使いだった。
呆気ない最後だったと思う。
彼女と出会って数分も経たずに、私は彼女が召喚した騎兵隊に体を串刺しにされてしまったのだから。
――でも、その最後が私の人生で一番の栄誉の瞬間だったなんて当時は思いもしていなかった。
苦し紛れに唱えた、何の役に立つかもわからなかった私の血統魔法。
ベラルタを襲撃されて、戦闘の間ずっと、役に立たない事を呪った私の家の歴史の結晶。
唱えてどうなるかなんてわかるはずがない。だって、使い手が死んでしまったら魔法も一緒に消えてしまうんだから。
私は体中を刺された痛みと、真っ赤な光景の中でただ奇跡に縋るように唱えただけ。
今に伝わっているような、立派な最後なんかじゃなかった。
とても恐くて、とても痛くて、体温が低くなって、意識が抜け落ちて消えていくような。
あ、死ぬのって本当に恐いんだ。こんなに、恐いんだ。
どこか他人事のように、私は私を殺した彼女の凛とした表情を見ながらそう思った。
でも、死にたくないとは最後まで思わなかった。
これだけはきっと、ちっぽけな私の誇り。
最後まで私は――この街を守りたかった。
「だから動いて……動いてよ……!」
なのに、何でこの腕は動かないの?
守ったんでしょう?
私は私が死んだ後でもこの街を守ったんでしょう?
立派な最後だったんだって伝えられるくらい褒められたんでしょう?
なら、なら――何で今動かないの?
恐くても、痛くても、あの時の私は守ることを選べたんでしょ――!?
「動け……! 動け……! 動け動け動け動け動け!!」
私はガラス片を持った自分の腕を動かす。
どこにガラス片を刺そうとしても、刺す直前で腕が止まる。涙だけが止まらない。
今ベラルタを閉ざしているのは"私"だ。
遠くに見える偽物の街並み。街に蔓延る亡霊。……空を閉ざす黒い天井。
その全てが、私がここにいるせいだ。
三五〇年後のこのベラルタに、少しでも長くいたいと思ってしまった私の我が儘が生んだ歪んだ景色。
だから、だから私はここでもう一度死ななければいけないのに!
「お願い……」
もう一度だけでいい。
「お願い……!」
もう一度だけ……。
「おねがい……!!」
もう一度だけ――!
「う……っ……! うう……っ……!」
どれだけ願っても腕は動かなくて、目から落ちる冷たい涙が床を濡らすだけだった。
蝋燭に照らされた白を基調とした部屋に、私の情けない泣き声だけが響いている。
残酷に過ぎていく時間。
この間にも誰かが、ベラルタが。何かよくないものに支配されているのに何もできない。
私を心配してくれて、ここに来てくれたあの優しい人に偉そうなことを言った私が……一番無意味に立ち止まっていた。
「え……?」
私が動いてくれない腕を嘆いているその時、キイ、と静かに部屋の扉を開く音がした。
こんなところを見られればもっとやりにくくなってしまう。そう思って、私は首に突き立てようとしていたガラス片を後ろ手に隠す。
「ど、どなだですか……」
泣いてややくぐもってしまった声で、私は扉に向かって尋ねた。
「ノックもせずに入ってしまい大変申し訳ございません」
聞き覚えのある声だった。
部屋に入ってきたのは褐色の肌に可愛らしい桃色の髪。
一度だけ、この部屋に尋ねてきたダブラマの魔法使い。
「おはようございます、シャーフさん。いえ……おやすみなさいと言ったほうがよろしいでしょうか?」
彼女は部屋に入ってくると、私を殺したクレアさんと同じような優雅で見事なカーテシーを私に披露して。
「えと……確か……マリツィア、さん……?」
「はい。マリツィア・リオネッタ……悪い魔法使いでございます」
慈愛に満ちた微笑みを、ぐちゃぐちゃの泣き顔をしている私に向けてきた。