252.転換
「早すぎる……!」
「はぁ……はぁ……。勘弁してよね……」
重い足音とともに、エルミラとヴァンの前にそれは現れた。
図書館のほうから一定の間隔で響くその音に耳をすました時には遅かった。
音が近くなるにつれて闇の中に浮かびあがった牛頭人身の巨躯。一目でその怪物が魔法生命なのだと二人は気付くことになる。
『敗北したか……宿主よ』
ミノタウロスは光の衣も消えて仰向けに倒れるシャボリーの元へと歩み寄った。
その歩みを止められるような力はエルミラとヴァンにはない。
片や魔力切れ、片や同僚の裏切りへの動揺と骨折で万全の状態からは程遠い。
万全の状態ですら難しい戦力差を埋められる要素はここには無く、ミノタウロスの意思次第では数分もせずに二人の命は薙ぎ払われるであろう。
幸い、ヴァンはまだ魔力が残っているため逃げる事は可能。血統魔法をいつでも唱えられるよう、ヴァンは無言でミノタウロスの動きに備えた。
(シャボリー……)
シャボリーがミノタウロスに宿主と呼ばれるのを見て、改めてヴァンは同僚の愚かさを嘆いた。
同時に、自分の手で止められなかった事にも。
『我が身はついぞ星を見上げる事など敵わなかったが……その愚かな輝きはいつか星に召し上げる事を約束しよう。宿主よ』
ミノタウロスは倒れているシャボリーに声をかけると、その体を巨大な左手で抱え上げる。
そして二人に振り返る。
『我が身の外皮、そして宿主の星の衣。どちらも貫くとは見事。流石は危険人物が一人風使い……と言いたいところだが、そなたではないな』
ミノタウロスの視線はヴァンではなく、エルミラへと注がれた。
エルミラとヴァン、どちらにも緊張が走る。
ミノタウロスの右手の両手斧がいつ動くか。
頬を冷や汗が流れる。生唾を飲む音が医務室から漏れてくる明かりしかないこの場の闇に小さく響いた。
『見事だ少女よ』
「え……?」
『そなたは宿主の挙げた危険人物では無かったが……どうやら宿主の見立て違いだったようだな。そなたのような強者を軽視しかけた我が身の愚行を許せ』
怪物からの賞賛にエルミラはつい驚く。
ましてや許せ、と言われるなどとは思っていなかった。
「あ、あんたが……魔法生命ね……?」
『然り。我が身の名はミノタウロス。遠き世界の迷宮の象徴にして迷宮の支配者なり』
姿形の特徴はフロリアとネロエラの報告と一致する。目の前のこの魔法生命こそ今回ベラルタで起きていた事件全ての元凶。
名前を聞き、正面から向き合っているエルミラに圧し掛かるような重圧が襲っていた。
「そいつ……どうするの?」
重圧に屈することなく、エルミラは平気な顔をしてシャボリーに目を向けた。
するとミノタウロスは当然であるかのように、
『無論。こうするのだ』
「なっ……!?」
「シャボリー……!」
手に抱えていたシャボリーの体を自分の肉体に押し付けた。
すると、シャボリーの肉体は泥の中に沈んでいくかのようにミノタウロスの体に吸収されていく。
シャボリーの体が完全に消えると変化は起きた。
ミノタウロスは黒い魔力光で輝き始め、その巨躯は更に肥大し、頭の角は禍々しく捻じれ、両手斧の錆びは崩れ落ちる。
宿主と魔法生命の一体化。
初めて見る光景はエルミラとヴァンの視線を釘付けにし、そして敗北を色濃くする。
変化が終わると、すでに五メートルほどあったミノタウロスの巨躯は倍ほどに膨れ上がっていた。角も牛というべきではない別種の怪物のものへと変貌し、外見だけなら見すぼらしかった錆びた両手斧も幻想が鍛えたような輝きを取り戻している。
『遅かれ早かれ、宿主の人格は我が身に支配されていた。宿主の意識が無い今が丁度いい機会であろう。宿主もまた……それを望んでいた』
「望んでいた……だと……?」
『そなたには宿主の願いなどわかるまいよ』
ヴァンの声に振り返りもせずに答えるミノタウロス。
突き放すような声が今のヴァンにとっては慈悲にも似ていた。
「あんた……これからどうする気? 私達を……殺すの?」
『いずれはそうするであろうが……今ではない。我が身が求める英傑と判断するには今のそなたらは弱り切っているが、先に殺さねばならぬ相手がいる』
「……ベネッタを殺しにいくの?」
『む』
エルミラに問われた瞬間、言いようの無い迫力をミノタウロスは感じた。
魔力もほとんど無く、自分より遥かに小さくそして細い、そんな少女の赤い瞳には確かに覚悟が宿っている。
そう――ミノタウロスがあの夜見た、血に塗れた翡翠の瞳と同じように。
『あの者の友人か』
「そうよ。大事な、友達」
『今すぐにではないが、いずれは殺さねばならぬ。あの者は強者にして迷宮を踏破せし可能性を秘める者。放置しては我が目的の障害になり得る』
「障害になるならなんで……あの夜は退いたの? フロリアの話だと、戦おうともせず去っていったって話だったけど……」
『あの者は英雄だった。あの夜、路傍の石ころをどけるような心持ちでその命と向かい合ってはならぬ者。ゆえに我が身の放つ一撃を耐えられた時点で、我が身に追撃する権利など無かった』
要するに、あの夜ベネッタを認めるような出来事があったという事だろうか。
詳細のわからぬエルミラはミノタウロスのこだわりだと納得するしかない。だからこそ、今すぐには殺さないという言葉も、いずれはという言葉のどちらもが真実を語っているのだと信じられた。
『信じずともよい。だが、この場は退かせてもらう。待たせている者がいるのでな。そなたらとも傷が癒えたその時には再び相まみえるであろう。言っておくが、我が身の背中に不意打ちを仕掛ける事はおすすめしない。そなたらも充分な実力を発揮できぬ状態で死ぬのは御免だろう』
そう言って、ミノタウロスは振り返り、図書館のほうへと歩き出す。
見送るしかないその巨大な背中越しに、別れを惜しむようにエルミラは問われた。
『少女よ。名は?』
「……エルミラ・ロードピス。次ベネッタに手を出してみなさい。その首、生きたまま燃やしてあげる」
『来るがよい……我が身の重圧に屈さぬ者よ』
最後にそう言葉を交わし、ミノタウロスの姿は闇の中へと消えていった。
エルミラとヴァンを襲っていた鬼胎属性の重圧が消え、本当にミノタウロスが消えた事を二人は実感する。
ミノタウロスがいなくなり、二人にとってはようやく落ち着ける時間が訪れたと思ったその矢先、エルミラは走り出した。
「お、おい!」
「ヴァン先生! 私あいつを追うわ! ヴァン先生はログラ先生を探して怪我治してもらって!」
「待て! 一人でやる気か!? 魔力もねえだろうが!」
「追うだけよ! あいつの位置は把握しておいたほうがいいでしょ!」
「そりゃそうだが……」
「まだ無属性とか下位の強化くらいは使える! もし攻撃されても逃げるから!」
「ちっ……無理はするな!」
「ええ!」
街にいる友人が心配なのだと悟ってヴァンは不本意ながらも走るエルミラを送り出す。
まずは医務室で最低限の応急処置をしようとヴァンもゆっくり医務室に歩き出すと。
「ヴァン先生!」
ミノタウロスが歩いていったほうに走り出したエルミラが立ち止まってこちらを向いていた。
「あん? どした?」
「元気出して!」
エルミラはヴァンに一言そう告げると、再び走り出し、やがて闇の中に消えていった。
「……余計なお世話だよ」
研鑽街ベラルタ東門前。
五分ほどこの場を離れていただろうか。宿主と一体化したミノタウロスは再びオウグスと戦っていたこの場にその姿を現す。ここを離れる前とはかけ離れた巨大化したその巨躯は歩く度に石畳を割っていた。
『待たせてすまなかったな道化師よ。その体ではもはや虐殺になろうが――』
後回しにせざるを得なかった決着をオウグスに与えるためにミノタウロスは再びこの場所に戻ってきた。
だが、ミノタウロスが戻ってきた今この時、その謝罪を聞き入れる相手はいない。代わりに、この場を離れる前と同じ光景の中にはミノタウロスの知らない人物が立っていた。
「悪いね、学院長は忙しいから別の所に行って貰った」
オウグスが倒れているはずの東門前の通り。
オウグスが倒れているはずの場所にいたのは、ミノタウロスが先程会ったエルミラと同じ制服を着た少年。
見覚えの無い人物に怪物は問い掛ける。
『……誰だ? そなたは?』
「初めまして魔法生命」
宿主と一体化した自分を見ても逃げ出さぬ者。
怪物であるその姿に問われて、答える声はひどく自然。
魔石用の照明に照らされる金の瞳には迷いこそあれど、明確な恐怖が無い。
それはつまり――戦う為にこの場に立つ者である証明。
「僕はルクス・オルリック。学院長よりは劣るかもしれないが、選手交代って事で……よろしくお願いしてもいいかな?」
『我が身の名はミノタウロス。新たに立ちはだかりし少年よ……そなたは――我が身が求める英傑か?』
いつも読んでくださってありがとうございます。
少し忙しく、明日はちょっと更新が難しいかもしれません。申し訳ないです。