244.今やるべき事
「はぁ……はぁ……!」
ベラルタに建つ病院。
ベラルタを覆う黒い天井によってここもまた混乱していたが、第一寮から駆け付けた生徒達数人と憲兵によって周囲には警戒網が張られている。
命令や指示も無しに病院に集まる事の出来る生徒達がいるところを見るとやはり魔法使いの卵という事なのだろう。駆け付けた生徒の中には入学時にはそんな事は思いつかなかった者もいる。
自主的に生徒達が集まったのは、一年近くベラルタで魔法使いとして積ませられる経験が生徒達に徐々に魔法使いとしての自覚を生ませている証拠と言えよう。
事実、生徒が駆け付けた事によって患者やここに勤務する者だけでなく、憲兵すらも安心を覚えているためか、この異常事態下であっても病院の空気は比較的落ち着いていた。
「向こうの方の……何かに……」
そんな病院の一室で震えながらも窓を見つめる人物が一人いた。
ベッドの上で自分を暖めるように両腕を抱くシャーフ。
ベラルタは確かに冬ではあるが、その震えが寒さからくるものではない事くらいは自分でもわかっていた。
恐い。
怖い。
コワい。
こわい。
――何が?
シャーフは震える手を見つめる。
自分はここにいてはいけない。異変が起きる度に、恐怖を感じる度に自覚し始めた自分の存在。
自分がわかったからこそ、やるべき事もわかっていた。
今のベラルタの街を散策できた。
今のベラルタの住人達と話せた。
お別れを言いたかった人にお別れもすませた。
なのに、どうしても出来ない。
だって、恐いから。
自分が何なのかを自覚して、やるべき事を理解したのに……自分が何に恐がっているのかだけがわからない。
わからないまま、こんな事を出来るはずがない。
ましてや、その感触を知っている自分には重荷がすぎる。
「でも……でも……!」
再びシャーフは窓の先に視線を向けた。
窓の向こうには暗闇の中にあるベラルタの景色。
けれど、そのベラルタの景色が今のベラルタの景色ではない事が自分にはわかってしまう。
今のベラルタは昔の風景を所々に残してはいるけれど、やはり違う場所は違うのだ。
それがわかるのは、昔にずっと見ていた街並みだから。
この病室で寝泊まりしていた今にずっと眺めていた街並みだから。
遠くに見えるのはきっと、記録されていた偽りの景色。
三五〇年前の、自分が知っているベラルタの風景。
そしてその偽りの景色の先に――この街の空に蓋をしている何かがいる。
故郷にいるはずなのに、シャーフの胸に訪れるのは郷愁だった。
窓の先にあるのは確かに見たかった景色のはずなのに……これでは駄目なのだと自分が叫ぶ。
――だって。
「だって……」
私が見たかったベラルタは――。
「っ!」
強く目を瞑ったシャーフの耳に、こんこん、とノックの音が届いた。
びくっと、シャーフは体を震わせる。
「ど、どうぞ」
シャーフは少し深呼吸をし、震える体を抑えてから扉の向こうに入るように促した。
「御無事ですか、シャーフさん」
入ってきたのは他の生徒と同じように、すでに第一寮から病院に駆け付けていたルクスだった。
「ルクス……様……」
「顔色が悪いですね、こんな事態では仕方ないかもしれないですが」
シャーフの顔は悪夢から醒めたように真っ青だった。
専門的な事が全くわからないルクスでも体調がよくないのがわかるほどに。
「温かい飲み物を用意しましょう。紅茶は……僕が淹れるとひどい事になるので白湯くらいしかお出しできませんけど」
「い、いえ……お構いなく……」
シャーフの視線が不意に、窓の外に向く。
東の方向だった。
「窓の外に何か見えるんですか?」
「はい……東の区画のほうで……雨が降ってます」
シャーフは頷いたが、ルクスには何が見えるのかはわからなかった。
黒い天井という異常事態ではあるが、それ以外はベラルタの街並み。
照明用の魔石が配置されるようになったのは幸運といえよう。大通りを中心に、主要な場所に配置されている魔石の街灯が何とかベラルタが闇に閉じるのを防いでくれていた。
しかし、シャーフが魔石についてを言っているのではない事くらいは容易にわかる。
「……ルクス様。何故ここに来たんですか?」
「え?」
だが、シャーフのこの言葉は予想外だった。
悲しそうな瞳がこちらに向けられる。
「それは……病院が、心配だったからです。病院にいる、あなたが……」
「ありがとうございます。ですけど、私は大丈夫ですよ」
「そんな顔色で……」
「顔色が悪かったとしても、それはお医者様の出番であって、魔法使いの出番ではありません」
「……シャーフさん?」
「ルクス様が私の部屋に来られたという事は……病院の警備は充分なんでしょう?」
シャーフの言う通りだった。
第一寮から駆け付けた生徒は八人ほど。周囲を警戒する憲兵も合わせれば十分すぎる人数だった。万が一に備えて、病院側も患者を逃がす為の出口も解放してあり、ルクスがこうしてシャーフの部屋に来られたのも人手が足りているからだった。
「こんな私にだってわかります。ルクス様が凄い使い手だって事くらい。私が生きていた当時のオルリック家でさえ私のような魔法使いとは比べられないほどの力を持っていました。そんな家が今まで生き残ったのであれば……その実力が平凡で無い事くらいわかります。一応魔法使いですからね」
「いや、僕は……」
「御自分でも上級貴族であると仰ってたじゃないですか」
「でも僕は……」
そんな大層な人間じゃない。
友人達の背中をただ追っているだけの、未熟で精神の弱い凡人。
アルムのような例外でも無ければ、エルミラのような逆境すら無い。
ただオルリック家の貴族として、魔法使いとして、学院に来るまで迷うべき場所すら知らず、壁にぶつかる事も知らず、自分の知っている場所を歩いていただけの平凡な男。
シャーフからの評価はルクスには少し重荷に映った。
「僕は、あなたが心配で……」
「ルクス様」
遮るように、シャーフは名前を呼ぶ。
「私はあなたに助けて貰いました。あの雨の日に、私を抱えてくれた事……本当に感謝しています」
シャーフは改めてルクスに頭を下げる。
「けれど、ルクス様」
頭を上げたシャーフは少し困ったような表情で眉が下がっている。
「あの時、私を心配して下さった時の気持ちと、今私を心配して下さっている時の気持ちは……同じですか?」
「……っ」
「私の後ろに、違う誰かを重ねていませんか?」
図星だった。
何故病院に駆け付けたのかを見抜かれていて、ルクスに羞恥が襲う。
「それが悪い事だなんて思いません。けれど……私はその人じゃないんです。私は雨の日に倒れていて、シャーフ・ハイテレッタを名乗っているベラルタに突然現れた怪しい人物……そんな私をこの異常事態下でルクス様のような方が警護するのはおかしな話でしょう?」
シャーフの言う通りだった。
現時点でシャーフを警護する理由など何処にも無い。例え、あの雨の日に何か事件に巻き込まれた被害者であったとしても、シャーフは今病気や怪我も無く、ただ病室を借りているだけの患者ですらない人物。
特別に警護する理由などどこにもない。ましてや、オルリック家の長男に付きっ切りで警護してもらう理由などもってのほかだ。
監視の指示を受けたから。
ここにいる理由で挙げられるのはそれくらいなものだろう。
しかし――マリツィアにすら監視の目が解けている今、これは優先すべき指示だろうか。
ベラルタを覆う黒い天井が魔法生命の仕業だと推測できる自分が、悠長にここにいるべき理由になり得るだろうか――?
シャーフに突きつけられて、浮彫りになってしまう自分がここに来た理由。
それはシャーフを自分の大切な人――母と重ねていたからだと。
この人は母ではないとわかっているのに。この人を守る事で、面影にいる母を守れた気にでもなるつもりだったのか。
今を見ようともせずに、昔の記憶に縋る……自分はまた、こんな所でも逃げている……。
「私はシャーフ・ハイテレッタ。三五〇年前に死んだ……ベラルタの亡霊。あなたが守るべき人ではありませんし、あなたが守るべき今でもないんです。立ち止まったって迷ったっていいと私は思います……だけど、止まる必要も、意味もない場所にいるのは、やめたほうがいいんです」
優し気な声色で語られたのは、思い切り突き放すような言葉だった。
しかし、その言葉は決して突き放したわけではなく、迷って止まっているルクスにまた歩き出させようと、背中を後押しする温かい激励そのもの。
シャーフは窓の方に視線をやる。
景色を眺めているのではなく、何かを感じているようにシャーフはただ一点を見つめていた。
「……行きます」
「……はい」
シャーフに短く伝えて、ルクスは踵を返す。
「ありがとう、シャーフさん」
「こちらこそ……ありがとうございました。ルクス様」
ルクスはシャーフとの最後の言葉を交わして部屋を出る。
シャーフと交わした言葉はルクスに答えを出させるものではない。あくまで、背中を押しただけ、未だ答えの見えぬ道を歩くためのきっかけに過ぎない。
迷ったまま。けれど、彼女の後押しを受けて。
未だ答えの出ない自分の守るべき今を探すため、自分が魔法使いに相応しいか、自分が友人達と共に立つに相応しいかの答えを出すために、迷いながらもルクスはシャーフの視線の先を目指す。
「さようなら……私に傘を差してくれた人」
シャーフは部屋を出ていったルクスに聞こえないようにそう呟くと、ベッドから下りる。
「岩石の剣」
魔法名を唱えても部屋には静寂だけだった。
彼女が唱えたのは地属性の下位の魔法。岩の剣を作るポピュラーな魔法。
しかし、その唱えた魔法が放出されることは無い。
シャーフはそれに対して大したリアクションを見せる事無く、机のほうを見た。
机の上には昨日ルクスがまずい紅茶を淹れたガラスのティーポットとカップが置かれている。
「これなら大丈夫かな……」
シャーフはおもむろにティーポットを掴む。
そして、そのまま勢いよく床へとたたきつけた。
当然、ガラス製のティーポットは割れる。散らばったガラスを集めて、一番大きな破片をシャーフは握りしめる。
叩きつけた際に手に持っていた取っ手の部分だった。ポットの本体からとれるように割れていて、割れた場所は鋭利になっている。
「出来る……出来る……」
自分に暗示をかけるようにシャーフは声を繰り返す。
そう……ルクスを後押ししておいて、自分のやるべき事に目を背けるなどあってはならない。
ルクスの背中を後押ししたのは、シャーフ自身が恐怖に立ち向かうきっかけにもなった。
自分が見たかったベラルタのためにも。自分が今やらねばならない事を――シャーフ・ハイテレッタはわかっている。
いつも読んでくださってありがとうございます。
前回の後書きに読んでやってください、と書いたんですが……後書きまで読んでくれているなら大体の方は読んだ後じゃないか?という事に今日のお昼気付きました。
前書きに書くという発想がありませんでした……。