240.異変の幕開け
夜明けの時間から数時間。
もうそろそろ生徒達が学院へと登校する時間だが、第二寮の前では同じ第二寮に住む生徒達が揃って上を見上げていた。皆一応制服を着ているものの、学院へと向かう気配はない。
何せ、本来空のある場所が黒い何かに閉じられているのだ。空は夜より暗く、魔石の街灯も朝の時間だというのに光ったまま。まるでベラルタ全体を黒い屋根で覆われたかのようだ。この異常を前にして平然と学院へと向かえる者はいないだろう。
この空はどうなっているのかを見上げながら生徒達は勿論、外に出ている住民もこの状況に困惑している。
「やっぱり暗いな……」
アルムは第二寮から出ると、黒いマフラーを巻きながら空を見上げる。
ここ数日続いた灰色の雲は無く、かといって青空も無い。
あるのはただ黒という色だけだった。
「ま、まさか……」
その黒を見て、アルムは重大な事に気付いたかのような表情へと変わる。
「まさか……時計が壊れてたのか?」
「そんなわけないでしょ」
ボケた事を言うアルムにツッコみを入れるのはグレース・エルトロイ。学院での所属クラスは違うが、時折顔を合わせれば挨拶くらいはするアルムと同じ寮に住む女子生徒だ。
兎毛の白い耳当てに赤いマフラーに茶色いコートと防寒がしっかりした格好をしており、かけている大きな眼鏡の奥にはアルムの言葉を聞いて呆れているような表情があった。
「おはようグレース。何だまだ夜ってわけじゃないのか」
「おはようアルムくん。ばっちり朝よ、時計もしっかり正常だわ。だから……この空はおかしいのだけれど」
グレースの目は再び空とは言えぬ黒い天井に向かう。アルムもグレースの隣に並び、同じように上を見上げた。
「……あなた何か知ってるんじゃない?」
「何故だ?」
「何となく。ミレルといいスノラといい、何か色々事件に巻き込まれてるし」
「……今回についてはほとんど知らない」
「ほとんど、ね。馬鹿正直だこと」
「嘘つくとばれるからこう言うしかないだけだ」
「そうね、あなた下手そうだもの」
アルムの正直さを笑いながらも何か言えない事情があるのだろうと察してグレースはそれ以上追及はしなかった。
「『魔弾』」
「は!?」
隣にいるグレースだけでなく、前に固まっている生徒も突如唱えられた無属性魔法に驚いて一斉にアルムのほうを向いていた。
アルムはその視線を気に留める事も無く、上に向かって無属性魔法を放つ。
五つの白い光は真っ直ぐ上を目指すが、やがてベラルタを覆う黒い天井に弾かれる。
「あなた何やってるのよ……びっくりするわね……」
「確認だけしておこうかと。距離は五十ってとこか……空には近すぎるな」
元より、アルムにとってベラルタの空は少し遠く感じはするのだが。
先程の魔法は現実的な距離として、空が黒くなっているような現象ではない事を確認するためのものだった。
「なら空じゃないって事ね……魔法で天井でも作ってるのかしら」
「多分」
「何の為に?」
「それはわからんが……」
「アルム!」
学院側に伸びる大通りのほうから名前を呼ぶ声のほうにアルムは振り向く。第二寮の前で黒い天井を見ていた生徒達の目も声のする方を向いた。
「げ」
「ミスティ」
そこには白いダッフルコートを着たミスティ。後ろに纏めた青みがかった銀髪を少し揺らしながら走ってきている。
グレースはミスティの姿を見るとささっとアルムから離れた。
ミスティはアルムの所まで駆けてくると、ほっとした様子を見せる。
「よかったですわ。少しご報告したい事が……」
「おはようミスティ」
「あ、ええと……おはようございます……」
空がこんな状態だというのに、あまりにいつも通りのような落ち着いたアルムを見て、ミスティは焦っていた自分が少し恥ずかしくなったのか少し顔を赤らめる。
「それで、どうしたんだ?」
「あ、はい……その、変な亡霊を見かけまして」
「変な亡霊?」
「道の脇にただ立っていて……私を指差したような動きをして何処かに消えてしまったんですの。交戦しようと思ったらすでにいなくなっていました」
「俺は亡霊が見えないからな……何かされたわけじゃないんだよな?」
「ええ、今まで見た亡霊とは少し違ったようでした」
「それはよかった……だが、話と少し違うのは気になるな……今は時間で言えば朝のはずだから亡霊がいるのも気になる」
「はい、何か変化が……」
そこまで言い掛けて、ミスティはきょろきょろと辺りを見回す。
「あの、アルム……エルミラはどこにいらっしゃるんですか……?」
ベラルタ魔法学院の図書館。
ベラルタの各地と同じく、ベラルタを覆う黒い天井は窓から見えていた。
学院内は証明用の魔石が備え付けられているので真っ暗になるという事は無いが、やはり少し薄暗い。
図書館の管理人シャボリーは本を一冊片手に持ち、じっと空だった場所を見つめている。
瞳に映る深い黒には一筋の光さえ見えることはない。
そんなシャボリーのいる図書館の扉が開いた。空は朝には見えないが、時間的には朝。生徒が来るには早い時間だ。
「よかった。シャボリー、外を見たか?」
「ああ、まるで夜みたいだな。こんな光景は初めて見る」
入ってきたのは治癒魔導士のログラだった。
急いで来たのか、少し息を切らしている。
「学院長は?」
「いや、来ていない。夜明けまで巡回に付き合っているはずだから、そのまま憲兵達のほうにいったんだろう」
「確かに夜明けの時間になって空が見えない、なんて異常事態だ。一番最初に気付いたのは学院長かもしれないね」
「流石に図書館の管理がと言っている場合じゃないだろう。君も応援に来てくれ」
「そうだな……確かに図書館で引きこもっている場合ではなさそうだ」
シャボリーはカーテンを閉めて図書館のカウンターのほうに歩いていき、持っていた本をカウンターの中にしまう。しまい終わるとてログラに付いていくように図書館の出口に歩き出した。
「そういえば話にあったベネッタという生徒の移送は終わったのか? 君は彼女についていたほうがいいんじゃないかい? 流石に誰もついていないというのは危険だろう」
「ああ、だから僕は一旦そっちに行く! 君は先に学院長と憲兵達が集まってるだろう城門のほうに行ってくれ」
ログラはシャボリーの問いに答えながら図書館の出口に向かう。
パニックになって怪我人は増えるだろう。ならば治癒魔導士としての力を発揮する場面はいくらでもある。
魔力は万全。【原初の巨神】侵攻以来の街の危機。この街における自分の役割を果たすためにログラは気合いを入れてベラルタの街に繰り出そうとする。
「……え」
だが、出口まで行こうとしたその時。後ろから、とん、と少し押されたかと思うと、何か冷たい感触が背中に走った。
何故か足が止まる。
ログラは何が起こったかわからない顔で振り返る。この冷たい感触は何だろう?
振り返った先には、背中に張り付くようにしているシャボリーがいた。
「知ってるかいログラ? 刃物っていうのは手首を捻りながら抜くと出血がひどくなるらしい」
「あ……が……!」
シャボリーが離れたその瞬間、ログラは背中から噴き出すように出血した。冷たかった場所が一気に熱を帯びていく。冷たい感触は刃物、火で炙られているのではと錯覚するような熱はその刃物によって刺された痛みなのだと、混乱の中ログラはようやく気付いた。
足から力が抜けていき、背中から噴き出した鮮血はシャボリーと図書館のカウンターを赤く濡らす。
その場でしゃがみ込むログラは肩越しに背後を見る。背後に立つシャボリーの手にはログラの血で濡れた短剣が握られ、白衣のような服とかけている眼鏡は赤く濡れていた。
「もっとも、治癒魔導士の君はこのくらい知っていたかな?」
「あ……ぐああああああ!!」
ようやく、痛みに対する反射の声がログラの口から放たれる。
図書館に響き渡る苦悶の声。止まらない血を見つめながらログラは手を傷のほうに動かす。ログラは学院に勤務する事が選ばれた治癒魔導士、たとえ傷が深かろうとも自分の体ならばある程度無理な治療が可能な実力を持っている。
「五月蠅いな。図書館では静かにしたまえよ」
「ごぶ……!」
だが、それも魔法を唱えられたらの話。
頭を割られるのではと思う力で、しゃがみこんでいたログラの頭を後ろからシャボリーは踏みつける。
背中の傷によって力の抜けたログラに抗う術は無い。ログラの顔面は図書館の床に叩きつけられ、そのまま頭を踏みにじっているシャボリーの足によって擦りつけられる。
「ここではやってはいけない事が三つある。その一つは必要以上の声量を出す事、二つ目は私に逆らう事、三つ目は本を大事にしない事だ」
「む……! シャ……ご……!」
「よかったな、私が本をしまっておいて。三つめは破らずにすみそうだぞ」
「ご……こ……!」
床に顏が擦りつけれているせいで魔法を言葉にする事ができない。
ログラは鼻からみしみしと骨が軋む音を感じながらもがく。だが、シャボリーの足はまるで万力のように動かない。
出血のせいでどんどんともがく力が無くなっていく。
「君も魔法になら反応できたのだろうが、私が刃物を使うのは意外だったろう? 悲しいな、ログラ。治癒魔導士というのは実戦から離れるとすぐ鈍る……君達は戦うよりも治す事に意識がいってしまうからね」
そう、魔法使いと治癒魔導士の決定的な差。それは治癒魔法が使える事でも魔法の腕でも無く、その在り方。
魔法使いは人を傷つける脅威と戦う。治癒魔導士は傷ついた人を治す。
その差が生んだ隙をシャボリーは突いた。オウグスやヴァンのような危機察知能力に長けた魔法使いではこうはいかなかっただろう。
そして何より……味方だと思っていた同じ教師からの一撃。ログラがこの不意打ちを躱せる道理は無かった。
「君には全く恨みは無いが……まぁ、恩も無い。ただ邪魔ではあるからな、そのまま死んでおいてくれ」
やがて、もがく力も無くなり、ぱたんともがいていた手が床に落ちる。
シャボリーは出血が続いている事を確認して頭から足を離した。足を離してもログラは床に突っ伏したまま動かない。
それを見て、ふむ、とシャボリーは首を傾げる。
「何だったかな、この体勢……土下座と言ったかな? まぁ、いいか」
塗れた短剣を投げ捨て、シャボリーは血に濡れた白衣を脱ぐ。白衣で手についた血を拭きとったと思うと、そのままログラの体に投げるようにして捨てた。
周囲にはむせ返るような血の匂いが漂っているが、シャボリーはそれを気にする様子は無い。
「それで、どんな感じだい? あの黒い天井を見れば成功したのはわかるが」
(この街の八割を迷宮化する事に成功した。貴殿にも見えるその黒い天井がその証左だ。迷宮に空は無い。だが……やはりその学院は支配できぬな)
シャボリー以外誰もいないはずの図書館だが、シャボリーの声にしっかりと応える声が聞こえてくる。
それはシャボリーだけが聞こえている声だった。シャボリーと繋がっている人間では無い生命のもの。
「まぁ、そりゃそうだろうね。予定通り糸はこちらに任せたまえ。他は順調なんだろう?」
(無論。迷宮に彷徨う強者の記録も読み取り、危険人物の位置も特定した。我が身はもう動くだけだ)
「それなら……始めよう。ここ数日楽しみで仕方なかったんだ」
(覚悟を決めよ。貴殿の侵食もより一層進む)
「覚悟? そんなものは必要ない。そもそも……それこそが私が君に求めた目的なのだから」
シャボリーは血に濡れた眼鏡を捨て、くすんだ金髪をかきあげる。
その表情は恍惚。或いは未来への期待。
口角を上げながらシャボリーは図書館の外に出る。
「【異界伝承】」
その身に朝日を浴びたような心地よい瞬間。
空無き場所に落ちる音。
数年以上住んでいた街に躊躇いなく、迷いなく。
宿主は嬉々として呪いを落とす。
「【迷宮真主・天閉の牡牛】」
今日までの犠牲の全てが前座。
宿主と魔法生命、どちらの目的も果たすために。
「隊長、少しの間任せる」
オウグスは憲兵達とともに東の城門から街中へと戻ろうとしていた時だった。
夜明けの時点で全ての城門から兵が報告に走ってきており、ベラルタの城門は全て謎の壁によって閉鎖されている事が確認された。人の多い区域での混乱に備えて、憲兵を広範囲に配置しようと先程指示を出し終わり、行動しようというところ。
しかし、自分も動くべく城門から出たその瞬間、トラブルの発生をオウグスは感じ取る。
「はい? オウグス殿?」
「東の区画から人を避難させてくれ、なるべく早く頼むよ」
オウグスの表情は険しく変わった。
指示を受けた隊長は一瞬、何のことかと疑問を浮かべるが、オウグスの指示の意味を率いる憲兵共々すぐに理解する事になる。
周囲の異常な静けさとともに――
『オウグス・ラヴァーギュだな』
突如、道の向こうから姿を現したのは怪物だった。
牛の頭に人型の巨躯。人間の三倍以上はあるあり得ない巨体は、人間の町に当然のように現れるだけでその異質さを感じさせた。
手には巨大な両手斧が握られており、鈍い金属音が静かな空間に響く。
その存在が現れるだけで隊長は勿論、憲兵達は混乱とともに震え上がった。
何だこれは――?
魔獣とも人間でも無い、そして魔法とは存在感が違う別種の脅威。重く響く声が目の前の怪物が紛れも無い生命なのだと実感させる。
「早く行きたまえ隊長」
「し、しかし……」
「悪いが……あれに勝てる自信は私には無いよ」
オウグスは怪物からの視線を受けて瞬時に理解する。
この怪物の目的は自分である事を。
『我が身の名はミノタウロス。危険人物が一人、道化師オウグス・ラヴァーギュ――そなたは我が身が求める英傑か?』
いつも読んでくださってありがとうございます。
これで一区切りなので本来なら幕間を更新するのですが、明日になります。
本編合わせて明日は二回更新です。