237.あなたのような
自然と、二人の足はエルミラとベネッタがオススメしたパン屋に向いていた。
ここにしようと話し合ったわけではない。ただ二人とも、病院に眠るベネッタのお見舞いも買っていこうと無意識に考えていただけだった。
「よかった、まだ開いてましたね」
「はい」
通りに人が少なくなってきた頃に二人は店の前に着く。
からんからん、と扉についているドアチャイムとともにパンを買っていったであろう人が店から出てくると、通りに出る前に右手を出しながら灰色の雲が立ち込める空を見ていた。そして、ほっとしたような表情を浮かべると、大事そうに買った袋を抱えて通りを歩いていく。
すれ違ったその人に釣られて空を見ながらルクスは扉を開け、からんからんとドアチャイムの音を聞きながら二人は店に入った。
「いらっしゃ……!」
二人が店に入ると数日前に来た時も店を手伝っていた店主の子供が出迎える。
しかし、数日前に来た時とは違ってルクスとシャーフの姿を見た瞬間、元気な挨拶になるはずだった声が途切れていく。
「ママ!」
前に来た時は子供ながらもすでに店員として接客を見せていたというのに、今日はルクスとシャーフの顔を見るなり母親を呼んだ。
訳も分からずルクスとシャーフは顔を見合わせる。勿論、こんな反応をされる覚えはない。
「こらマレウス……お客さんの前で――!」
「ど、どうも……」
ルクスとシャーフを診た親子の反応は同じだった。途中まで息子を叱っていた声が二人を見かけた瞬間に途切れる。
奥から顔を覗かせる母親にルクスとシャーフが小さく頭を下げると、母親は奥で
ばたばたと何かをしまう音をさせたかと思うと、泣きそうな表情を浮かべてこちらに歩いてくる。
「あの方は……! あの方は大丈夫ですか!?」
「あ、あの方……?」
「この前ご一緒にいらした緑の目をした……数日前に怪物と戦ってらした方です……!」
「何故それを……!?」
魔法生命のことは勿論、今回負傷した生徒がベネッタという事すら公開されていない。病院の医者や看護師は平民なのでそこからという可能性も無くは無いが、それはここがベラルタでは無かったらの話。生徒の家名にすら触れないよう徹底しているここの住民が貴族であり、生徒でもあるベネッタが入院したなんて情報を言いふらすはずがない。今のベラルタはそういう街なのだ。
何より、目の前の親子は怪物の存在を知っている。ベラルタを魔法生命が攻撃している情報は一部の貴族しか知らない情報。だとすれば、この親子が知っている理由は一つしか無かった。
思えば、この店はベネッタが襲撃された場所から近くもある。
「もしかして、出くわしたんですか……?」
「はい……はい……!」
「僕が悪いんです……外に出たから……!」
親子は罪悪感からか泣きそうな表情を浮かべていた。許しを乞うような涙がマレウスと呼ばれていた子供の頬を流れる。
「掃除しようと思っただけなんです……あんな怪物が外にいるなんてわからなくて……」
「本当なんです。外で何が起こっていたかはわかりません……扉を閉めたら何も聞こえなかったんです……あの方に、言われて家にずっと隠れていて……朝になったら……生徒さんが一人負傷したってお話が……! ごめんなさい……私達のせいで……!」
そう言って母親のほうが頭を下げた。
途切れ途切れな二人の話からルクスは何となく当時の状況を理解する。
恐らくは、不意の遭遇だったのだろう。
魔法生命のほうがこの親子に矛先を向け、ベネッタがそれを止めようとした。詳細は分からないが、それに近いやり取りがあったに違いない。
結果、ベネッタはこの親子を守りきった。この店が問題なく開店しているのがその証明だった。
「あなた達のせいじゃありません。彼女はしっかり、自分の役目を果たしただけの事です。彼女は立派な貴族ですから」
「ですが……!」
ベラルタの住民は生徒についての詮索が許されていない。この親子はベネッタの名前すら知らず、そんな状態で学院や病院にその時の事を話にいこうものならスパイの可能性ありと判断される可能性すらあるだろう。
だからこの親子はずっと罪悪感を抱えながら待つしか無かったのだ。
あの時一緒に来た、ベネッタの知り合いであろう自分達を。
「ここにまた彼女が来た時……ありがとうと言ってやってください。彼女も喜びます」
「……あの方は大丈夫なんですか……?」
「はい、治療が終わって今は寝ていますよ。直に目を覚ますそうです」
安心させるように笑い掛けるルクス。その温かな声色は心底からのもので、ベネッタの状態を聞いた母親は深々と頭を下げた。母親の隣に立つマレウスも母親と同じように頭を下げる。
「お見舞いの品にはやはり彼女が気に入っているここのお菓子がいいと思いまして……いくつか頂いてもいいでしょうか?」
「勿論です! 裏に焼いたばかりのがあるんで持ってきます!」
「お代は結構ですので、私どもの商品でよければいくらでも持っていってくださると嬉しいです」
「いえ、そこはしっかり払わせてください。ベネッタはここのお菓子を気に入っています。それはあなた方の作る物に敬意を払っているという事だ。助けたお礼につけ込んで無償でというのは彼女が望むとは思えませんから」
ルクスがそう言うと、母親は涙を拭う。
その顔つきは助けられた被害者のものから、ベラルタの職人の顔つきに変わっていた。持ってくると言ったマレウスに続いて母親も奥に駆け足で戻って行く。
「そうか……ベネッタ……」
「ルクス様……」
親子が奥のほうに行くと、ルクスは窓から病院の方角に視線を向ける。
寂しそうに見つめる視線の先には病院が見えることは無い。
「君は逃げられなかったんじゃなくて……逃げなかったんだね」
何て羨ましく、誇らしい友人。
心の底から抱いた敬意は何処か嫉妬にも似ている。
窓から見える景色に、ぽつぽつ、と雨が当たり始めていた。
からんからん、というドアチャイムの音は雨で少し柔らかくなっていた。
心なしか多めに入れられたお菓子の袋を抱えて二人は店の外に出る。勿論、代金は払っている。
二人の手にはパン屋の親子に借りた傘が一本ずつ。濡れて病院に帰る心配はしなくていいようだ。
「雨が降ってますね」
「ええ、降ってますね」
意味の無い会話をしながら二人は傘を開く。
もうすぐ夜という事もあってすでに通りに人はほとんどいない。
濡れながら帰る男性が一人だけ二人の前を走っていった。
「雨が降っても、この街は綺麗ですね」
「そうですね、落ち着いた雰囲気が雨に映えます」
傘の下は外にいながら雨の降らない別世界。
二つの別世界がベラルタの通りを歩いていく。
外の世界は雨に濡れながら、夜の到来を待っていた。
「……やっぱり話してみる気にはなりませんか?」
「……何をでしょう」
シャーフの声にルクスはとぼけた返事を返す。
弱々しく、雨音にかき消されそうな声。
「だってルクス様……ずっと、浮かない顔をされてますから。どうでしょう? 話してみると少し楽になったりしますよ?」
とぼけても無駄な事はわかっていた。
数日前から自分の表情が暗い事はこの人にばれているのだ。
ふと……この状況に既視感のようなものを覚えた。
何故だろう。思い返せば、自分が何かを吐き出したい時には隣には必ずエルミラがいて、情けない愚痴のような、相談のような事を吐いては元気付けられたり、客観的な意見を貰ったりと助けられていた気がする。
「何でこう……自分の周りには優しい人が集まるんでしょうね」
「私が優しいかはともかく、ルクス様の人徳では?」
雨の下に似合わない笑顔が傘の下で輝いている。
そんなシャーフに、ルクスは観念してここ数日考えていた事を語り始めた。
「自分は何で真っ直ぐ歩けないんだろうって思うんです」
「真っ直ぐ、ですか?」
比喩であることはシャーフにもわかった。
「いつも隣にいる友人達はずっと……この一年真っ直ぐ進んでいるんです。家柄や出自なんて関係なく、感情も思考もずっと真っ直ぐで横道なんて無いかのように魔法使いとしての道を進んでる。
そんな彼らを隣で眺めてたら……いつの間にか自分は彼らの隣にいなかった事に最近気付いたんです」
いつも一緒にいる友人。この場所で出来たかけがえのない繋がり。
けれど、ここ数日感じていたのは一緒にいるのに、一緒にいないような感覚。
人間は皆その場所に立つに相応しい人間であるべき。それこそがルクスの理念であり信条。
その理念が友人達と同じ場所に自分が立てていないような情けなさをルクスに感じさせる。
先程もそうだった。
例えば、自分はベネッタのようにあの親子を庇うことが出来ただろうか。
果たして、自分はベネッタのように今この時、魔法使いである事を選べるだろうか?
魔法使いだからと……平民を守る為にその場で戦う事を選べるだろうか。
自分の理性や常識を理由にして戦うべき今からも、逃げる事を選ぶのではないだろうか? 情報を持ち帰るべきだと、尤もらしい言い訳をしながら。
自分はスノラでも、友人であるミスティ殿を見捨てるべきだと結論付けたのだから――
「僕はすでに間違えているんです。入学式の時に、やってはいけない事をした。今でさえ友人になりましたが……僕は彼と、彼の大切な人を侮辱した」
今でも忘れる事の無い入学の日。
肩書きとお世辞にもいいとは言えない試験結果。そして周囲の空気。常識で言えばそう思うのも無理はないと、言う人間もいるかもしれない。
だとしても、断言しよう。あの日ルクス・オルリックという人間は間違えたのだ。
彼の本気を悪戯だと評した。
彼の師を気取っていると揶揄した。
恥ずかしげも無く理性と常識を盾にして、向けるべき言葉を間違えた。
"お前らにそんな権利はありはしない!!"
あの時身に浴びた怒りと震える声をルクスは今でも覚えている。いつだって思い出せる。
理性や常識が下す決断が間違いだとは思わない。それでも……あの時の自分は間違いなく、自分が目指した魔法使いの姿に最も遠い自分だった。
自分だけは、大切な人をそんな風に扱われた自分だけはやってはいけない事だったのに。
「一度躓いて、間違えたくないと迷って、迷っているうちに……隣には誰もいなかったんです。皆、随分先を行っているようでした」
一度間違えた後悔とまた間違えるかもしれないという恐怖がずっと自分を迷わせている気がする。
後悔するかもと今を決断できない自分がいる。その傍らで、間違いを覚悟で今を決断する友人達がいる。
もしかすれば……自分は選ぶべき道すらも見えていないのだろうか?
だから、わかりやすい逃げるという選択肢だけを理性が浮かばせるのか?
だとすれば……こんな自分は本当に、魔法使いになれるのだろうか?
迷いと自分への疑念が目的地を見失わせる。行くべき道を見失う。皆が先に行ってると感じる。
戦うべき今を真っ直ぐに選べる友人達と比べて、自分は何て……
「滑稽だなと、自分でも思います……つまらない悩みですみません」
何が、四大貴族。大層な肩書を持っているだけの何も出来ない子供だ。
俯くルクスの表情には自分を嘲るような笑みがあった。
雨音が、妙に耳に響く。雨音が何故だか……五月蠅い。
そう思うのは自分の心が荒んでいるからだろうか。
「その……それって、いけない事なんでしょうか……?」
しばらく無言で歩くと、ルクスの隣でシャーフは首を傾げながらそう言った。
つい、ルクスの目はシャーフに向く。
「詳細はわかりませんが……要は一度間違えたから迷ってしまっている、って事ですよね?」
「まぁ、そんなところです」
「失礼ながら言わせて頂くと……別にいいんじゃないでしょうか。だって、ルクス様は迷っているだけなんでしょう? ずっと止まってるわけじゃないんですから充分御立派ですよ」
「――」
当たり前のようにそう言われて、ルクスは少し言葉を失う。
意を決して話した悩みを人間とはそういうものだと、シャーフが言っているような気がした。
「自分の間違いを自覚して迷うなんて何も悪い事じゃありません。間違えるのってやっぱり怖いですから。それに、ちょっと迷ったって、何なら一度立ち止まったっていいんですよ。人間なんてずっと歩けるわけじゃありません。大事なのは止まっても迷っても、また歩こうって思えるかどうかだと思います」
「そう……でしょうか」
「そうですよ。それに知ってますか? ルクス様?」
ルクスの顔を覗き込むように微笑むシャーフ。
何故だか、五月蠅いと思った雨音は気にならなくなっていた。
屋根と石畳に落ちる雨音。ぱしゃぱしゃと水の跳ねる足音、傘が弾く雨粒の歌。
何ら変わらないベラルタの雨の日だ。
「こういうのは先を歩いている人が休憩したりすると、案外さらっと追い付いちゃったりするんです。先に行った人が迷わないなんて保証無いでしょう? 迷宮と一緒です。迷ったかと思えば実は一本道だった事に気付かない人もいれば、暗いと思ったら自分が下を向いてただけの人もいたり……出口に着いて振り返ったら何てことなかったな、って思ったりする人もいれば、辛かったって思う人もいて人それぞれなんです。競争してるわけでもありませんし、歩いてる内に決め付けちゃうなんて早すぎますよ。こういうのは出口に着いてからわかるんですから」
言いながら、シャーフは俯いた。
自然とシャーフの歩みがゆっくりになる。
「私は貴族社会には置いていかれた庶民貴族で、魔法使いとしても大したことはありませんでした。人生は迷ってばかりで上手くいかなくて、あてつけのように迷宮を作る自分の血統魔法にいらいらしたりして、何でうちの血統魔法はこんな役に立たない魔法なんだろうって落ち込んで……自分の故郷を眺めてるだけの、魔法使いとすら言えない貴族でした」
そこまで言ってシャーフは顔を上げた。
「でも、そんな自分でも最後に自分のやりたい事を全うすることができました。決断するまでに怖くて、迷って、泣いてしまったけど……あの時決断した私はちゃんとベラルタに住む魔法使いだったと胸を張れます。だから私に後悔は無いんです。ルクス様はさっき羨ましいと言っていたけど、私も最後にわかったんですよ。後悔は無くなるものなんだって」
雨を遮る傘の下。隣に並ぶもう一つの傘の下に、広がる青空のような笑顔があった。
つい雨音すら忘れて見惚れる。
自分の悩みが当たり前だと肯定されて、止まらなければ立派だと慰められて、出口を目指せば後悔は無くなったと彼女は語った。
それはきっと同情でも悩める子供への慰めなどではなくて、シャーフの人生がシャーフ自身に教えた経験談。
本気でルクスの悩みに向き合った結果出したシャーフが示す一つの例。
後悔は無くなるもの。
それはルクスの悩みを根本的に解決するものでは無かったが、シャーフが前置きした通り……ルクスの心をほんの少し軽くする答えではあった。
「……僕も、あなたのような魔法使いになれるでしょうか?」
だからだろうか、羨望はいつの間にか憧れに似たものに変わっていた。
後悔は無いと断言した大切な人と重なるこの人に。
この人のように、自分の中にある迷いと後悔をいつか、無くせたと思えるような人生を歩きたくて、ついルクスはそう口にした。
話している内に二人は病院に着く。
通りを歩く二つだけの世界はこれにておしまい。
病院の入り口にある屋根に入ると、二人は自分達の傘を閉じる。
「実は私……雨って苦手なんです」
傘を閉じ、服に着いた雨粒を払うシャーフの言葉は、先程尋ねたルクスへの答えでは無いように思えた。
ルクスはシャーフを助けた日を思い出す。
そういえば、あの日も雨だった事に落胆していた。
些か話が飛び過ぎなような気もしたが、ルクスは気にしない事にする。さっき口にした問いは何というか、少し格好悪い気がするのだ。
「皆、外からいなくなっちゃうじゃないですか。だから外に出ても私の好きな街はあっても、私の好きな人達はいなくなっちゃうんです。それがたまらなく寂しいんです……外にいるとまるで、世界で一人になったみたいで」
「なんとなく、わかるかもしれません」
「私が死んだ日も……雨が降ってました」
遠い日を思い出すかのような声。
自分が死んだ日を思い出すとは、一体どんな感覚なのか。
雨が苦手と言った割に跳ねる雨音すら記憶しそうな熱い視線。見つめるのは愛しそうな瞳。記憶するのはここから見えるベラルタの景色だろう。
雨音だけが時間を刻む永久に続きそうな刹那
その姿は何故だか儚くて、一輪だけ咲く花のようだった。
雨を見つめたかと思えばシャーフは急にルクスのほうを向く。
自然と、横顔を見ていたルクスと目が合った。
ルクスの予想に反してその表情は穏やかで幸せそうに見えた。
「だから、私傘は好きなんです。傘が、好きなんです」
「雨は苦手なのにですか?」
「はい、傘があれば……雨の日でも出会える人達がいますから」
ルクスの視線がつい手に持ってる傘に落ちる。
シャーフはずっと、ルクスを見つめている。
街を記憶していた時と同じ、瞳に焼き付けるような視線のままで。
「私を助けてくれた日も、雨が降っていたんですよね」
呟くような、尋ねるような。優しい声。
「ありがとうございます、ルクスさん。私をまた……この街に会わせてくれて。本当に……ありがとうございます」
幸せそうな表情のままシャーフはルクスに笑い掛ける。
それはまるで別れの言葉のよう。
ルクスは何も答える事が出来なかった。
話を聞いてくれたお礼すらも、今は無粋であるような気がして。
いつも読んでくださってありがとうございます。
わかりにくい回だったらごめんなさい。