220.無意味の意味
「中に入って! 早く!!」
それで何が変わるだろう?
そう思いながらもベネッタは叫んだ。
「ママ……」
「"マレウス"!」
母親は怪物の姿を見て腰の抜けた子供の手をとってすぐさま家の中へと入る。
母親もまた恐怖で全身から冷や汗を噴き出させていたが、何とか体を動かし扉を閉めた。
来客を知らせる為の扉の鐘が乱暴な音を鳴らしていた。
『……無駄な事』
ベネッタを無視して、ミノタウロスはパン屋の方向に振り返る。
矛先が自分以外に向いた。ベネッタの背筋に寒気が走る。
「待ってよ! まさか戦ってる最中に背中見せるの!?」
『戦い?』
怪物は振り返らない。
無視しない事にすらほっとしてしまう自分をベネッタは腹立たしく思う。
しかし、問われたミノタウロスの声には落胆が混じっていた。
『逃亡を図ろうとした者が口にする事か?』
「っっ……!」
背中を向けられながら言われた声にベネッタは衝撃を受ける。
ここから逃げようとした事がばれている。
会話によって得た情報と血統魔法によって掴んだ核の場所。そう、自分に出来る事はやった。
だから、ここから逃げようとした。情報を持ちかえる為に。それは決して後ろ向きな理由では無く戦略的な選択。
それでも戦っていたミノタウロスからすれば不快以外の何物でもない。
何故なら彼は――英傑を求めていたから。
次代の魔法使いを担うここならば英傑とはいわずとも、器になる者がいるだろう。彼はそんな期待を胸に抱いていた。
確かに少女は物怖じしなかった。だが、戦いの途中で逃亡しようとしたのだ。
怪物との戦いから……逃げようとした。
大百足と遭遇した事のある少女でこれならば他の生徒も大差が無いだろう、ベネッタの意識が逃亡に傾いたその瞬間にミノタウロスはそう確信してしまった。
それはベネッタをここから逃がさない為の策でも無く、ただ本心からの落胆だった。
「ボクは糸? ってやつになるんじゃないの? それにあなたの核の場所も見た! それでもボクを無視していける!?」
『構わぬ』
「え……」
ミノタウロスは一瞥もしない。
ただゆっくりと、パン屋の方へと向かっていく。
『あの無垢なる犠牲を手にかけた後でも遅くは無い。我が身が三人目を手にかける刹那の間……どれだけの人間に触れ回れるだろうな?』
「あ……う……」
止める……材料が無い。
逃げ出そうとした事で最初の時に見せていた興味がすでにミノタウロスからは失われている。
あの巨躯が力を振るえば一分も経たずにあの二人は店ごと薙ぎ払われるだろう。
「どう……すれば……」
決まっている。逃げるべきだ。
核が今ある場所。そして宿主が今いる場所。ここ二日の失踪事件に関して情報が全く無いベラルタにとっては一段飛びで真相に迫れる情報だ。そしてマナリルにとって確信が得られていなかった魔法生命の目的もベネッタは直接聞く事に成功している。
ベネッタの手に入れた情報の価値は計り知れない。
それこそ……目の前の犠牲から目を背けても誰も責める事は無いほどに。
「うああああああああああああああ!!」
銀の瞳がベネッタの雄叫びに応える。
その瞳は魔を掴む。瞳はミノタウロスという魔法生命を捉えた。
「きゃっ!」
パキン!!
硝子が割れるような音と共に、銀色の魔力はベネッタの瞳から消え去る。
『何をしようとしていたかは知らぬが、その瞳で我が身を傷つけるような事でもない限り……我が身が止まる事はない』
一瞬、外部からの干渉があった事をミノタウロスという魔法の形は感じ取った。
しかし、ミノタウロスには何の変化も無い。
"魔力在る命を掴む瞳"と"命を持った魔法"。
その命に直接働きかけるベネッタの血統魔法は、元より存在そのものが魔法である魔法生命と相性が悪い。
動きを封じようとしてもミノタウロスの"現実への影響力"の高さによってその効力が弾かれる。
「【魔握の銀瞳】!」
再び魔法の唄が響く。
翡翠に戻ったベネッタの瞳が再び銀色に。
「う……くっ……!」
パキン!!
さっきと同じ音。
ミノタウロスの動きを封じようとしたその瞬間、銀色の瞳は砕け散り、ベネッタの目は元の翡翠色に戻る。
ミノタウロスはまた何かをされそうになったのを感じるが一切の変化は無い。一歩一歩、パン屋のほうに歩いていく。
「魔力を……もっとー……!」
晴れた頭の中、魔法を整理する。
一度、呼吸を整えて。
「【魔握の銀瞳】!」
三度目の合唱。
激しい魔力の消費に、肩で呼吸をし始めるベネッタ。
「う……ああ……!」
ピシピシ。
先程とは違う音が瞳から鳴った。
ひび割れる銀の瞳とベネッタの視界。
一息で破壊される段階からは脱却できた。
今度こそ――
「きゃああ!」
パキン!!
だが、顔を覗かせようとしていた希望もまた先程と全く同じ音を立てて砕け散る。
ミノタウロスの動きにはやはり変化が無い。
しかし、一度止まった。ベネッタの血統魔法が効力を発揮したわけではない。
『……思い出したぞ。宿主からの知識、それは魔眼というやつか……何をしようとしているかは知らぬがやめておけ。元より人間の眼に魔力から部位を守る機能は無い、連続して使用するには負担が大きい魔法と聞く。それ以上繰り返せばその眼、光が閉ざされるぞ』
「はぁ……はぁ……」
『我が身を止めようとしているのはわかる。だが、その瞳で我が身は止まらない。諦めろ、光無き視界になるのは……勧められたものではない』
実感の籠った、経験があるかのような声。
ベネッタを殺しに来た怪物らしからぬ、気遣うような感情がそこにはあった。
「そんな……」
光が閉ざされる。
目が……見えなくなるってこと?
そんな……そんな…
「そんな事知った事かあああああ!!」
また一歩踏み出したミノタウロスの背中に咆哮が突き刺さる。
「【魔握の銀瞳】!」
四度目。
銀色の魔力についに赤色が混じる。
目の付近に走る痛み。流れる魔力が、使い手の体内に氾濫する。
「止まれええ!! ミノタウロス!!」
『何も感じぬよ。ベネッタ・ニードロス』
パキン!!
何度目かの、割れたような音がベネッタの瞳から響いた。
「あ……ぐ……いっづ……!!」
ベネッタの目の辺りに焼けつくような激痛が走る。
"充填"で限界まで引き出した魔力が瞳を焼いて視界を赤く滲ませる。
『先程のように逃げればいい。誰も見ていない。我が身ですら、背中を向けている』
「ち……がう……」
声に何かを感じた。
先程、矛先を変えさせようとしたような軽さが無い事にミノタウロスは気付く。
『何が違う?』
「もう、逃げちゃ……いけない理由があるんだもん……!」
『理由……?』
魔法使いだからというやつかと、ミノタウロスは宿主から聞いた知識を思い出す。
魔法使い。それはこの世界における弱き者の庇護者。
掲げるには確かに便利で崇高だろう。
『義務か』
「ちがう……!」
ミノタウロスの声は即座に否定された。
「ボクには立派な才能も無いしー……家柄だって平凡で、どうしようもない平凡な人間だけどー……! こんなボクにだって夢がある!」
赤い視界でベネッタは吠える。
「治癒魔導士になりたいボクが、目の前で傷つこうとしてる人を見捨てて逃げでもしたら……きっとボクは、その夢をもう語れない……!」
治癒魔導士。
宿主から教わったミノタウロスの知識の中にもその存在はあった。
魔法使いよりも数が少なく、さらに言えば近年目指す者も少なくなってきた……言ってしまえば不人気な魔法使いの一種。
「自分の夢に嘘はつきたくない……ボクの友達が、そうしてるように!!」
ベネッタの頭に思い浮かぶは一人の平民。
赤い視界に映るのはミノタウロスの背中ではなく、その在り方で夢を語るかけがえのない友人の背中だった。
『そなたを誰も見ていなかったとしてもか?』
「自分の夢に嘘をつきたくないって言ったじゃん……ずっと見られてるよ。夢を見てるボクが自分の事をずっと見てる!」
『――』
その叫びに、ミノタウロスは首を少し動かして肩越しにベネッタを見た。
『ならば……我が身を止めてみよ』
怪物の声が冷たく突き放す。
口だけならば何とでも言えると道端に捨て置くように。
ミノタウロスは母子が入っていった店へと歩き始める。
「ずっと……そうしようとしてる!」
そう、何度も試した。
魔力も無意味だった血統魔法の発動に半分以上持ってかれている。
次唱えた所でまた無駄かもしれない。
だからって……何もしない理由にはならない!!
「【魔握の銀瞳】!」
無意味。無駄。自己満足。
視力を賭して行うには余りに不確かで、根拠の無い愚行をベネッタは何度でも唱える。
血統魔法による拘束はベネッタの魔力が続くまで。例え奇跡が起きて通用した所で魔力が切れれば結果は同じ。通用した所で何かが変わるなんてことは無い。
それでも――決して自分のやってる事は間違いなんかじゃない。
例え無意味でも、無価値でも、今ここで逃げる自分の姿こそがベネッタにとっての間違い。それこそ、夢に背を向ける愚行に他ならない。
ボクは治癒魔導士になりたいから。
そう言えない自分を捨てるのはすなわちベネッタ・ニードロスを捨てる事。
ここで逃げて自分を捨てるなら――例えその行動が無意味だったとしても、これが自分だと言える道を選ぶ――!
「止まれえええええ!!」
激痛の中ベネッタは叫ぶ。
痛みが頭を晴らし、自己満足の為の思考を巡らせる。
怪物そのものを止められないのなら――!
『なに――!?』
不意に、怪物の巨躯がぐらついた。
さっきまで干渉を知りつつも何も起きなかった。
それが何故? そして何が起きた?
巨躯をぐらつかせる中でミノタウロスは見た。
店へ踏み出そうとした右足が、石畳に貼りついたかのように動かない――!
そして、ずしん、と低く重い音が響く。
『ぬ……』
その表情は例え牛の頭であっても驚愕だとわかるほどだった。
ミノタウロスはその表情で右膝をついていた。
誰かが見ていれば、それだけかと嘲るだろう。
誰かが見ていれば、何が変わったんだと冷ややかな視線を送るだろう。
視力を失う覚悟で挑み、怪物を倒したわけでもなく止めたわけでもなく。
ベネッタが出来たのはただ一つ、怪物に片膝をつかせた事だけ。
血統魔法を維持できる魔力はすでに無く、銀色の瞳が翡翠に戻っていく。
今度は堂々と、割れる事無く。
「はぁ……! はぁ……!」
涙のように流れ落ちる血。赤く滲む視界の中で、ベネッタはミノタウロスがこちらを向いたのを見た。
膝をつかせても数秒稼げたかどうか。
怪物の巨躯はすでに立ち上がり、ベネッタのほうへと歩いてきていた。
「はぁ……! はぁ……!」
『見事』
ベネッタの前まで来て、ミノタウロスは賞賛を送る。
「はぁ……! はっ……!」
『逃亡者と甘く見た非礼を詫びよう。そなたは確かに、我が身の"敵"だった』
ミノタウロスは両手斧を構える。
それはつまり、ベネッタを逃亡者ではなく敵と再認識したという証明だった。
構えられた所でベネッタにかわす体力などもう無く、魔力も僅か。魔法を唱えられるのも後一回か二回だろうか。
「『恩寵の加護』!」
薙ぐように放たれた両手斧の一撃。
瞬間、中位の防御魔法を唱えてベネッタは最後の抵抗を見せる。
彼女は最後まで諦めていなかった。
魔法が発動した事こそその証明。
自己を守った彼女の精神は最後まで砕けない。
『――薄い』
怪物の一声。
ベネッタの使った防御魔法、そして強化の上から圧倒的な力がベネッタを捻じ伏せる。
精神は砕けずとも肉体は別。
ベネッタの体が砕ける音が、ベラルタに響き渡った。
『……甘く見ていたな』
防御魔法と最初にかけていた強化によってベネッタの肉体の原型は保たれている。
だが、両手斧の一撃を受けたベネッタの右腕はぐちゃぐちゃだった。
体と繋がっているのはミノタウロスの両手斧が刃物というよりも鈍器に近かったからであろう。
そして命が無事かという話もまた別。
壁に叩きつけられた衝撃により頭部からは血を流し、内臓も傷ついたのか口からは自然と吐血が。学院の制服に赤色がゆっくりと滲んでいった。
『我が身の……足にだけ魔法を集中させたのか』
干渉を知りつつ、何もできないと高をくくっていた相手に膝をつかせられた。
怪物と恐れられたミノタウロスにとってそれがどれほどの衝撃だったか。
自分に膝をつかせる相手を敵とみなさないほど、ミノタウロスは強さに盲目していない。
「『治癒の……加護』……」
『なに……!?』
動かない。そう思い込んでいたベネッタの左手と口が動いた。
その目は死んでいない。血に濡れた瞳がミノタウロスと交差する。
傷を治したらもう一度止めてやる。
そんな声が聞こえてくるようだった。
ミノタウロスはそんなベネッタに笑みを浮かべる。
『糸になり得る、か。馬鹿馬鹿しい……切れぬ糸があってたまるものか』
ミノタウロスがその手をベネッタに伸ばそうとしたその時。
「【気高き友人】!」
「【誇り無き敵】!」
『――!』
響いたのは二つの合唱。
ミノタウロスの視界の端に駆ける獣と耳に溶けるような魔法の音が届く。
倒れるベネッタを白い獣がミノタウロスの眼前からさらい、逃げるように距離をとる。
『ベネッタ! ベネッタ!!』
「帰ってきて早々……何の冗談よ……!」
現れたのはどちらも血統魔法によって姿を変えたフロリアとネロエラ。
タンズーク家の領地から帰還した二人は初めて、魔法生命と対峙する。
いつも読んでくださってありがとうございます。
昨日の更新時に今日は二回更新と書いたのですが、大変申し訳ありません。一区切りの幕間もあるので三回でした。