218.脅威への問い
他の者が今のベネッタの心境を覗けたのなら、余裕がある、のんき、などの感想を漏らすだろう。
ベネッタは自分の背丈の三倍はあろうという怪物と遭遇してるというのに、あろう事か自分の成長を実感していた。
ベラルタに来たばかりの頃ならば間違いなく悲鳴を上げて腰を抜かし、歯をかちかちと鳴らして、上手く発声できない声で助けを乞いながら虐殺されていただろう。
対峙しているだけでもざっと十通りの死に様が思い浮かぶが、今日に至るまでの経験が、彼女を毅然と立たせていた。
シャーフの怪奇通路での対ダブラマの魔法使い。
ミレルの湖で遭遇した冗談のような大きさの大百足。
元王都の魔法使いであり転移魔法の使い手。
傭兵国家カンパトーレの魔法使い。
加えて、学院が出す魔獣討伐などの実地の依頼も滞りなくこなしている。
そう――彼女の魔法戦の経歴はすでに下級貴族の域を超えていた。
それらの経験が、ベネッタに目の前の魔法生命をどう切り抜けるか考えられる程度の冷静さを保たせ、考える事が出来る自分の成長に驚くほどの余裕を作っている。
「何でボクの命狙うんです?」
何でもない遭遇であるかのように、ベネッタは見上げるように目を合わせて問う。
「自分で言うのもなんですけどー……ボクそんな大した家系じゃないから殺してもあんまり得無いと思いますよ?」
ベネッタとミノタウロスの目が合う。
その視線に、ベネッタはつい生唾を飲み込んだ。
会話に持ち込もうとする余裕はあるものの、その存在の圧力に体はしっかりと恐怖を感じている。
似ていた。
ミレルで見た大百足を見た時と同じ感覚。ただでさえ常軌を逸した怪物との遭遇により生じる恐怖が、鬼胎属性の魔力によって膨らんでいく。
あれに比べればなんて事無いと、膨らんでいく恐怖を精神が何とか制していた。
『その問いに我が身が答える理由はあるか? 我が身はそなたの命を狙うと目的を宣言した。それ以上を聞く理由は無いと思うが』
「だって……あなたもボクがベネッタ・ニードロスかどうか聞いたじゃないですか?」
『ほう』
「ボクはそうですって答えましたし、そちらだけ質問してボクは何もわからずに殺されるって不公平だと思うんですけど……」
実際はびっくりして途中で声が出ていなかったのだが、細かい事は置いておく。
ベネッタの言葉に牛の頭の表情が変わった。
それは人間からすれば異形であったが、変わる表情は人間と似ていて、笑みを浮かべている事がわかる。
『我が身とそなたの間に不公平を語るか。我が身が一つ動くだけで虫のように潰れるであろうそなたに……公平さを尊重しろと?』
「はい、だって……虫を潰す時に一々名乗る人なんていないでしょう?」
少し、静寂が流れた。
ベネッタの頬を冷や汗が伝う。
『ハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!』
月の無い夜の中、怪物が高らかに笑った。
びりびりと音圧が周囲を鳴らし、暗闇に怪物の愉快そうな笑い声が散乱する。
(これって……?)
静寂に響くその声はマナリル中に轟くような勢いのはずが――周囲の建物からはその声を確認しにくる気配すら無い。
まるで、この世に自分と怪物しかいないような錯覚をベネッタは受ける。
『我が目的の妨げになる者を排除するだけのつもりが……まさか我が身を前にここまで堂々たる姿を見せる勇気ある者とはな! 蘇った甲斐があるというものだ……認めよう。確かにそなたの言う通り不公平であったな』
駄目元で会話に持ち込もうとしていたが、意外にも話が通じる相手であった事にベネッタは内心驚く。
頭部の異形から受ける印象とは裏腹に、気に入った相手に対する礼節が見え隠れしていた。
会話に持ち込んだ目的はこの事態を巡回している憲兵に気付かせる為の当然時間稼ぎだが……果たして時間稼ぎした所で気付いてもらえるのかと疑念が浮かぶ。ミノタウロスの声で周囲の建物から全く反応が無いのが気がかりだった。
そして――誰かに気付いて貰った所で、この怪物が気付いた人を殺そうとしない保証があるのかどうか。数の利はこの怪物に有効なのか。普段の数倍の思考がベネッタの頭を駆け巡る。
それでも今は出来る事をするしかない。殺される気は無いが、殺されてもなお誰かに情報を残せるような状況にしなければと。
『そなたを我が身が狙う理由……それはそなたが迷宮からの脱出者であるからだ』
「迷宮ってー……」
ベネッタはつい視線が下になった。
『そうだ。この町の地下にある……今は我が身が支配する迷宮のことだ』
「支配って……自立した魔法を……?」
『その通り。他の自立した魔法とやらでは不可能だが……我が世界では迷宮とは我が身を閉じ込める為に作られ、長い年月は我が身をその迷宮の支配者に至らせた。ゆえに我が身が迷宮を支配するのは必然。尤も……主導権を握るほどに我が魔力が蓄えられたのはつい最近の事ではあるがな』
ミノタウロスの言葉にシャーフの存在が連想される。
絡繰りは全くわからない。何が起きたか予想もつかない。だが、自然とベネッタの頭にはシャーフの姿が思い浮かんでいた。
『迷宮を脱出させる糸の存在は我が目的の障害となる。奴にとっては他に理由があるだろうが……それは我が身が憂う理由では無い。我が口から話してはそれこそ不公平というものであろう』
何故糸という表現を使うのかは理解できなかったが、要は『シャーフの怪奇通路』からの脱出手段を持つ自分が邪魔だという事。奴とは魔法生命を宿す宿主だろうか。それとも別に協力者がいるのか……どちらにしろ、悪い情報と言える。
『そなたの言い分であれば……次は我が身が問う番だな』
「え? あ、はい」
つい気の抜けた声になるベネッタ。
まさか質問し合う事になるとは思っていなかった。だがベネッタにとっては好都合。話が長引く分には情報を引き出せて逃げ切った時のメリットが大きくなる。
逆に言えば……ミノタウロスからの質問が無くなった時こそが、開戦の合図という事。
『我が身を見てその反応……似た経験があると見える。そなたらは我らを魔法生命と呼ぶらしいな。どの者と出会った? 宿主の方が狂ってる紅葉か? それとも趣味に興じる大嶽か? それとも裏切り者の"酒呑"か……まさかメドゥーサではあるまい? あれと我が身は同郷と呼べる間柄だが、あれと出会って生きていられるほどそなたは強者ではないだろう。表立って動いているのは今そのくらいか……どれと出会った?』
半分以上わからない挙げられた名前の数々にベネッタはぞっとする。
確かにシラツユから常世ノ国の実験によって魔法生命は二十以上はいると聞いていた。
だが、実際に名前を挙げられるとただ数を聞くよりも脅威と対面させられているようで、段違いの実感をベネッタにもたらす。
制していた恐怖がどんどんと這い上がっていくような。
「名前はわからないですけどー……大きな百足と白い龍に」
聞いた途端、ミノタウロスは目を剥いた。
『ああ、百足か……あれもある意味では裏切り者と言えよう。我らと相反する目的を持った者だった。だが……あれと出会って生存できるとは思えぬが』
「ボクは戦っていないので……」
『そうであろうな。あれは数多の霊脈を食い潰し宿主の人格を完全に乗っ取った強者の一柱。最も近き者だった。完全体になった暁にはこの国を容易く支配し、目的を達せたであろうに……まさかあれが死ぬとは我が身も思わなかった。白い龍は……宿主が百足と敵対したと聞いている、百足と敵対してはあれでは生き残れまい』
どちらも裏切り者と呼んだように、百足の死も白い龍の死も嘆いているような口調ではなかった。
むしろどちらの死も喜んでいるように、瞳の中の魔力が揺らめく。
『そうか、あの百足を知っているという事は……紅葉と百足を世界に還したというアルムという者の友人か』
「!!」
アルムの名前が出た事で、流石に感情が表情に出てしまう。
もう魔法生命側にもアルムの名前は知られているのかと。
「……次はボクの番でしたね」
ベネッタは話を逸らす。アルムの事を聞かれて動揺が顔に出るのを嫌って。
『左様。だが……我が身が問いたかったのは今の一つのみ。その質問を最後と覚悟せよ』
少しだけ、ベネッタはほっとした。
理由はともあれ、アルムについての興味はミノタウロスは薄いようだ。
だが……ほっとしたのも束の間。
死ぬ気は無くとも、自分の死が近い事を予感する。
この質問を最後に、あの巨躯が暴風のように襲ってくるだろう。
「あなた達のー……」
だから答えが返ってこない事を覚悟しながらも、少しでも核心に触れる質問をベネッタは選んだ。
「あなた達の目的はなんですか? この世界で……何をしようとしてるんですか」
『……』
沈黙が、夜の闇を重くする。
それでもベネッタは目を逸らさない。
二度、いや、【原初の巨神】の侵攻を合わせれば三度国を襲われた自分達にはそれを知る権利がもうあると思っているから。
少なくとも、何も知らずに未知の脅威と当たり前のように戦ってくれた――自分の友人には。
『我らはほとんどが個々で活動している。ゆえに他の思想を語る事はできない。たとえ知っていたとしても、我々は目的を同じとする同志の秘を漏らす事は出来ない。だが……我らが蘇った目的くらいは答えるとしよう。恐怖と戦いながら我が身と対等に話そうとしたその勇気に敬意を表して』
ミノタウロスは今まで手にしていただけの巨大な両手斧を構える。
答えを口にしたその時が、この短い質疑応答の終わり。そして開戦の合図。
ベネッタもお菓子の入った鞄を近くの家に立てかけるように置いた。
『我らが蘇った共通の目的は、"神への信仰が途絶えたこの異界で神となる事"』
「神様に……なる……?」
『そう……すなわち、神話の創造である。ゆえに我が身には英傑が必要なのだ。そして英傑を呼ぶ為の犠牲……無垢なる犠牲が』
ぴくっ、とベネッタは最後の言葉に反応する。
「どういう……意味ですか……?」
『……』
怪物は答えない。
薄々……ここベラルタに魔法生命が現れた時に予想はしていた。
今まで彼らが現れた時にはすでに、何か犠牲が生まれている。
わかってはいた。わかってはいたのに――
「子供は……あなたが――!」
『質問は、最後と覚悟せよと言ったはずだ。糸になり得る者よ』
いつも読んでくださってありがとうございます。
ちょっと遅くなってしまいました。申し訳ないです。