番外 -あれは誰だった?-
「あ……ぐ……」
とある山中で男が怪我をして倒れていた。
周囲には魔獣の死体が転がっている。
男は勇敢だった。男の傷は突如魔獣の襲撃を受けた際、一緒にいた仲間を逃がす為に囮を買って出た結果出来たものだった。
致命的なのは胸に大きく刻まれた三本の爪痕と肩の噛み傷。今まで傷の痛みで意識を飛ばしていた。
「だ……れか……」
声を振り絞っても仲間はいない。
見える範囲には仲間の死体が無い事に男は安心した。同時に、助けを望めない事に覚悟を決めた。
周囲にあるのは魔獣の死体だけ。自分もすぐにこの魔獣の仲間入りするのは明らかだった。
「大丈夫ですか?」
声が聞こえる。
若い男の声だった。
「あ……う……」
声の方に視線を動かすと、それは少年だった。
何故こんな山中に少年がいるのかはわからなかった。
魔獣では無かった事に一先ず感謝する。
「にげ……なさい……」
男の口から真っ先に出てきた言葉は助けを求める声では無かった。
男は魔法使いだった。
少年を逃がさなければという声を絞り出す。
この山のある区画は無数の魔獣が生息している。血の匂いを嗅ぎ取る魔獣がいつここに来てもおかしくはない。
弱き民を守る為にと日々を送る彼にとっては自然な選択だった。
「師匠」
少年は振り返って誰かを呼んだようだった。
「師匠? どこ?」
木の陰にでも隠れていたのだろうか?
少年がもう一度呼ぶとその人物は姿を現した。
白いフードを被って大きな杖を持った、もう絵本の中でしか見ないような魔法使いの格好をした女性だった。
「ふむ、少しおかしいね」
女性は男よりも周囲の惨状を見ているようだった。
「……"鬼"の気配がするのに人間が生きている……さて、どういう事かな?」
「おにって?」
「こちらの話だよ」
女性がそう言うと少年は追及する事は無かった。
代わりに、女性と同じように周囲の惨状を見始める。
「魔獣は"クルグス"とフォルスだ」
「ああ、過剰魔力で暴走したみたいだね」
「どっちも死んでる。同士討ちじゃない。クルグスが二体にフォルスが一体」
「ああ、そうだね。クルグスはともかくフォルスに襲われるのは運が悪かったというしかない」
少年と女性は魔獣に詳しいようで周囲にある魔獣の死体について話している。
この付近に自国の人間が住んでいるという情報は無い。
まさか逃げている内にマナリルの国境を越えてしまったのだろうか?
男は少し不安になる。
そんな男の不安を他所に、少年と女性は周囲を確認するとようやく男に目を向ける。
「他の魔獣はいないみたいだ。師匠。助けなきゃ」
「ああ、そうだね。でも君には助けられない」
女性のそれは冷たい言葉のようで、少年の事を考えているような優しい声だった。
「うん、俺には無理だ」
「でもやれる事はあるだろう」
「薬草と水」
「そうだ。運んできたまえ」
「はい!」
「き……ま……」
男が制止する間もなく、少年は山を駆けだす。
まるで行くべき場所がわかっているかのように少年には迷いが無かった。
「さて、魔獣をやったのは君かな?」
女性は男の傷をじっと見ながら質問した。
「ち……がう……」
どうせ死ぬならと男は質問に答えた。
「『治癒の加護』」
「!?」
男は驚愕で目を見開いた。
女性が魔法を唱えたからだ。胸にある三本の爪の傷痕の内一本が塞がっていく。
何故こんな所に魔法使いがいるのか。
「誰が殺したのかな?」
ようやく、女性のやろうとしている事を理解した。
これは交換だった。情報と傷の治癒の。
ほんの少しだけ楽になった喉を動かす。
「わか……らない……でも……知らない誰かが……」
男は薄れていた意識の中で見た記憶を思い起こす。
「舞うように……魔獣を手玉に取って……額に何か……」
「他には?」
「意識を……失う前に……声が……」
「どんな声だったかな?」
「男の……声で……"私には、これくらいしかできない。殺す事と……我慢する事"と……」
「……『治癒の加護』」
情報が有益だと判断したのか女性はまた一つ傷を癒す。
今度は男も治癒された場所を見た。
その"現実への影響力"は男から見て恐るべきものだった。その傷の塞がり方は間違いなく男の国の治癒魔導士がやるよりも上なのだ。
「君の所属は?」
「……」
男は口をつぐんだ。
「安心したまえ。ここはマナリルで私は魔法使いだが、機密を聞こうというわけでは無いし、私はマナリルに所属していない。ただ君が何者かを知っておく必要があるだけだ」
「……」
男が黙っているのは自分から情報が漏れる事を危惧していたからだった。
何を隠そう男はガザスの魔法使い。
男が出来るせめてもの抵抗は自国の情報を出来るだけ渡さない事だけだった。
ガザスとマナリルは友好国ではあるが、力関係は一方的なのだ。
「そうか、ならばガザスの魔法使いとだけ覚えておこう」
「助けて、貰っているのに……すまない……」
「いいさ。私のような怪しい魔法使いは信用できなくて当然だ。だが、名前だけは教えて貰いたい。家名は言う必要は無いよ」
「……"ウゴラス"」
「『治癒の加護』」
女性は再び男の傷を癒す。
流石はマナリルの魔法使いということか。
男は再び塞がっていく傷を見て感心する。
痛みはましになったが、失血しているからか体は気怠くまだ起き上がれなかった。
「ここで何をしていたかは言えないかい?」
「……任務だ」
「何だったかは聞かない事にしよう」
「すま……ない……」
「この近くにある村を攻撃しようとしたわけではないんだね?」
「だ、断じて、違う……! 本、当だ……マナリルに入る……気は無かった……信じて、くれ……」
「そうか、信じよう」
女性の声は優しかった。
何となく母の声を思い出すような温かさをウゴラスは感じていた。女性の見た目は母というには若い年齢に見えたので少し不思議に思う。
「安心したよ。そんな事を企んでいるようだったら君を殺さなければいけなかった」
だからこそ女性の言葉は恐怖だった。
想像できるだろうか。
母のようだと感じた声で殺さなければと言われる恐怖が。
その言葉を聞いても尚、その微笑みに慈愛があると信じる自分がいる事にウゴラスは困惑する。
女性はウゴラスの頭を撫でた。
優しく、眠れない子供をあやすような。
男の意識が遠くなる。
「師匠」
そんな男の意識を覚醒させたのは先程走っていった少年の声だった。
「ああ、おかえりアルム」
少年の名前はアルムというようだった。
男は目覚めた意識でその名前を覚える。
魔法使いであるこの女性を師匠と呼ぶのならこのアルムという少年も貴族なのだろうか。
しかし、男の目からはアルムという少年の服装がどうも貴族には見えなかった。
もしかすれば魔法以外の師匠なのかもしれない。
「まだ生きてる?」
「ああ、生きているよ」
「幽霊じゃない?」
「君にはまだ幽霊は見えないよ。それより薬草と水は?」
「持ってきたよ」
アルムは右手に水の入った桶のような容器を、左手には布に包んだ薬草を持ってきてくれていた。
男はアルムに感謝した。質問に答えながら喉が渇いて仕方なかったのだ。
「ありがとうアルム。では君は彼を見ないように少しだけ後ろを向いて目を瞑り、耳を塞いでいてくれないかな?」
「……何故?」
「何でもだよ。私の言う事を聞いてくれないかい? それと、少しだけ離れてくれると助かる」
「いいけど……助けてくれるんだよな?」
「それについては約束するよ」
「ならわかった」
不可解な女性の指示にもアルムは従った。
少し離れた場所でアルムは女性とウゴラスに背中を向けて耳を塞いでいる。
その間に、ウゴラスはアルムの持ってきた水をゆっくりと飲む。
生き返るとはまさにこの事。
死に体だった自分の体に生気が戻っていく感覚。
治癒された体に水分が染み渡っていく。
「た、助かった……」
「苦いが、この薬草も食べなさい。血を失いすぎている。それに魔獣の爪は少し不潔だからね」
「すまない……」
あの状況で助かった?
信じられないという表情でウゴラスは薬草を噛む。
苦い。
味を感じないようにしながらも薬草を噛み続け、苦い汁が唾液に混じるのに不快感を感じながら飲み込む。
口の中を紛らわすためにウゴラスは再び桶に入った水を飲んだ。
「うん、あんな苦いものを飲み込めるようになったのなら大丈夫だろう」
女性は微笑んだ。
ウゴラスは少しだけ体の余裕が戻ったからか女性にこんな質問を投げかける。
「当然そんな気は無いが……さっきの自分の言葉が嘘で……自分の体力が戻ったら君達を襲うとは考えなかったのか……? 自分で言うのもなんだが……私は、その、怪しい人間のはずだ……」
何故こんな質問をしたのか。
それは親切に恐怖したからだった。
女性から見れば自分は明らかに不法入国の怪しい魔法使い。
そんな自分を何故助けたのかという疑問がウゴラスにはあった。
「ああ、それは問題ないよ」
女性は静かに答える。
「君一人の体力が戻った所で、私ならどうにでもできるからね」
決して、虚勢では無かった。
その口からはただ事実だけが語られている。
女性の微笑みには変わらず慈愛があった。
ウゴラスは気付く。
この慈愛は、弱い者に向けられる強者のそれであるという事に。
「それに、君はアルムに逃げろと言った」
「言ったが……」
「君の状況で助けてより先に逃げろとは中々言えないものだ。君は確かに怪しい人間ではあるが、悪人ではない。だから私も助ける気になった」
「……感謝する」
「感謝はあの子にしたまえ」
女性は未だに少し離れて場所で耳を塞ぎ続けているアルムのほうに目をやる。
「君が例え善人でも、あの子が助けなきゃと言わなければ私は君を助けなかった。彼の善性に感謝したまえ。帰ったら彼の名前を思い出してあげてほしい」
「アルム……だったか……心配するな。少年の名前を、覚えるくらいは……」
「ああ、心配はしていないよ」
女性は杖をウゴラスに向ける。
「何を……」
「安心したまえ。ほんの少し、忘れてもらうだけだ」
ウゴラスには女性の言っている意味がわからなかった。
「あの子はまだ十四歳だからね」
「どう、いう……?」
「気にすることは無い。いずれ思い出す時が来る」
「、あ――」
「さようなら、正しく善人な魔法使い。私も君を助けた何かと同じ、これくらいしかできない存在なんだ」
女性が何かを唱えたその瞬間、ウゴラスは意識を失った。
それは泡沫の如く。
喪失する何かを感じる事すら無く。
ゆらりゆらりと消える中。
静かに眠りに落ちていく。
――――。
「ウゴラス副隊長」
「ん……あ……」
「ウゴラス副隊長!!」
ウゴラスは耳元で聞こえる大きな声で目を覚ました。
目を覚ますと、そこにはウゴラスの仲間数人の姿があった。
どうやら囮になったウゴラスを救出するべく戻ってきたらしい。
「ご無事ですか……! 血だらけだ……!」
「いや、待て。これは……」
一人が気付く。惨劇を語るようにウゴラスの服は血だらけで引き裂かれているにも関わらず、ウゴラスの体には傷一つ無い。
ウゴラスの仲間達は顔を見合わせた。
「副隊長……ここで一体何が?」
仲間の一人が問うと、ウゴラスは自分の体を見始める。
ぼんやりとした記憶の中、引き裂かれたはずの胸にも、咬まれたはずの肩にもその跡は無い。
夢だったのか?
いや違う。
周囲の魔獣の死体が現実を物語る。
「ああ、覚えてる。少年に……助けて貰ったんだ」
「少年、ですか?」
「ああ、そうだ……少年だ……名前は、何だったか……」
「話は後だ。とにかくウゴラス副隊長を運ぼう。相当疲弊している」
ここはマナリルのマットラト領。
物好きな当主の子供が治癒魔法を使ったのかもしれない。仲間達はウゴラスの不可解な状態をそう結論付けてウゴラスを運び始める。
「何だったか……ああ……名前は……何だったか……」
思い出せそうで思い出せない記憶の影を追い掛ける。
どれだけ思い出そうとしてもその影の形が掴めない。
「歳か……? 思い出せない……な……」
まるで霞がかったように。
結局……彼は国に帰っても、助けられた時の事を思い出すことは無かった。
いつも読んでくださってありがとうございます。
前回番外はあと一つとか言いましたが全然一つじゃありませんでした。ごめんなさい。もう一個大事なのありました。