番外 -アスタの後日談-
「あなたも同じでしょう?」
透き通っていて、それでいて誰かを誘うような囁く声。
背後から聞こえるその声は僕にとって聞き慣れたものだった。
照らされたような場所で、僕は何故か立ち尽くしている。
「私と同じ、ミスティの弟。永遠に呼ばれる自分であって自分ではない声」
知っています。アスタという名前を呼ばれる日はきっと僕には無いと思う。
カエシウス家、ミスティお姉様の弟、分厚すぎる壁が僕の前には立ち塞がっている。
「同じでしょう。知っているわ、あなたの劣等感。分かるわ、何で自分はという声が」
他の人から見れば十分な才能もカエシウス家では平凡だった。
魔法を芸術に捉え、その才で最高速の魔法の"変換"を行えるグレイシャお姉様。
全ての才を持ち、血統魔法をたった十歳で自らのものとしたミスティお姉様。
とあるパーティの場で、才能の出涸らしだな、と陰口を叩かれた日の事は多分一生忘れない。
「苦しいでしょう?」
苦しいです。
「辛いでしょう?」
辛いです。
「ええ、正しいのよアスタ……あなたの感情は正しいの」
声が上機嫌になったような気がする。
肌に絡みつき、指を這うような。僕にはまだ早い感覚のような気がした。
だけど、この声は僕にではなく、自分に向けているようだった。
「内臓が引っ掻き回されるような衝動があるでしょう?」
無いと言えば多分嘘だと思います。
十歳になって血統魔法に触れようとしたその時、僕はそこで一度お姉様との距離を感じた。
血統魔法を受け止められるはずもない自分の未完成な器の小ささ。そして千年の歴史を持った血統魔法に遠さを感じた。
後数年で受け継げるなんてお父様の声に嘘だと言いたくなったのを覚えている。
氷で出来た世界。
人も魔獣も、大地でさえも氷に閉ざされた生き物のいない死地。
空気の停まった場所。
誰かを待っているかのように氷の上に立つ誰か。
我に返って気付いたのは自分の体がどうしようもなく震えていた事。僕にはまだその場所を見る資格なんて無くて、出直してらっしゃいと突き返されたような風景が広がっていた。
「体が焼き付くようでしょう?」
才能という物があると感じた。一際平凡であるわけでも無く、才に溢れているわけでもない。僕は本当に中途半端だ。
本当にミスティお姉様は十歳であの世界に踏み込んだのだろうか。
踏み込めたのだとしたら、ミスティお姉様は自分と同じ歳でどれだけ精神が成熟していたのだろう。
それとも、ミスティお姉様はあの世界に選ばれたのだろうか。氷が支配するあの世界に。
それとも、自分のように恐怖に震えていたのに……それでもあの世界に踏み出したのだろうか?
そうだとしたら何て――何て無謀な試みだろう。
「いいのよ。誰にでもそんな権利がある。私のように、自分が自分である為に。あなたにだって、その感情を解放する権利が、あるの」
追いつけないと感じる差。
ミスティお姉様の弟。弟。弟。弟。弟。おとうと。弟。おとうと。
そんな声がきんきんと反響する。
「私とは違う方法をとりなさい。あなたの苦しみを取り除けるような方法を選びなさい、辛い時間を作らぬように。笑いかけてくるあの子に……その権利を使ってみなさいな。
ああ、アスタ。私の可愛い弟。私と同じ星の下で這いつくばる子。あなたにはその権利がある」
そこで初めて、声を出せた。
「違います」
唐突に拒絶した僕に背中から聞こえる声は驚いたようだった。
「僕は這いつくばってなんかいません」
僕は足を踏み出した。何だ、普通に歩けるじゃないか。
背中の声がどんどんと遠くなっていく。僕はしっかり前に歩けている。
「ちゃんと、歩き方を教わりましたから」
歩いても景色が変わることは無かった。
空を見れば星が二つ浮かんでいる。
「待ちなさい。どこに行ってもあなたはずっと照らされたままよ」
背中から聞こえる声は引き止めているつもりだったのかもしれない。
けど、僕にとっては逆効果だ。
「それがどうかしましたか?」
歩みは止めない。
背中の声がどんどん遠くなっていく。光はずっと僕を照らす。僕を照らす光は二つの内一つの光だけだったけれど、僕の頭上にはずっと二つの星が輝いている。
「ずっと、あなたはあの子に殺されるわ。それでもいいのかしら?」
「殺されません。ずっと僕は僕のままなので」
冷たく拒否して僕は歩く。
歩いて歩いて、景色はずっと変わらなかったけど、声はとっくに聞こえなくなっていた。
このまま歩いてどこに辿り着くかはまだ、僕にはわからない。
「……」
という所で僕の見た変わった夢は終わった。
僕は目を覚まして天井をしばらく見つめて起き上がる。
寝苦しかったのか寝汗がひどくてべたべただった。寝苦しかったのは夢のせいか、それともベットが変わったからか。
僕の部屋はあの事件の日、ルクスさん達の戦いで半壊した。なので、僕は今空いている客室を部屋にしている。
部屋の扉の横には使用人の誰かが作ってくれた簡易的なネームプレートにアスタ・トランス・カエシウスと書かれて貼りつけられていて、今はここが僕の部屋だ。
「グレイシャお姉様……ここにいらしたのですか?」
夢の中で聞こえたのは間違いなくグレイシャお姉様の声だった。
もしかしたら夢なんかじゃなくて、実際に僕の枕元に立っていたのかもしれない。
でもグレイシャお姉様。あなたは来る所を間違えていると思います。
僕はずっと憧れている。子供の頃から貴族然と振舞う偉大なお姉様に。
僕はずっと憧れている。最も身近なお姉様の至高の才に。
僕はずっと憧れている。才を持ちながら謙虚で人を想うそのお姿に。
弟だからでしょうか。僕はミスティお姉様に劣等感を感じて嫉妬する事もあるけど……それ以上に、ミスティ・トランス・カエシウスという姉を持てた事を誇りに思っているのです。
ずっとずっと憧れているのです。
もしかしたら、その憧れを拗らせてしまう日が来るかもしれないと思った時もあったけど……その時はもう一つの憧れを見ればきっと僕はずっと僕らしく歩いていられると思うのです。
あの事件の日に憧れたもう一人の姿を思い出せばきっと――
「僕は、あなたみたいになる事はありません」
僕の耳には残っている。
誇りを叫ぶ最も憧れた"貴族"の声が。
僕の瞳には焼き付いている。
大切な誰かを救わんと駆ける"魔法使い"の背中が。
あの日、僕の憧れは二つになった。
僕の才能は確かに中途半端だけど、どちらにもなりたいと願うこの心は決して中途半端なんかじゃない。
ずっと抱いていたミスティお姉様への憧れと、あの日見た平民の魔法使いへの憧れが、僕に確かな道を見せてくれている。
あのカエシウス家が平民に憧れるなんて。そんな声が聞こえたってあの日の衝撃には敵わない。
「僕はずっと歩いていられる」
苦しさも辛さ、そのどちらも僕にとっては憧れの証。
自分が自分だという証明。
自分に向き合っている自分の姿だ。
これが僕。僕の名前はアスタ・トランス・カエシウス。
「さようなら、グレイシャお姉様。僕はあなたがずっとずっと恐かった」
何でもない冬の朝。
朝日も差し込まない曇りの日。
僕はようやく、もう一人のお姉様に最後のお別れを告げた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
アスタの後日談でした。