198.贈り物の光(後)
敗北した。
そう気付けたのはグレイシャがミスティに敗北し続けていたからだろう。
だが、納得は出来ない。ミスティという天からの才を授けられた子に敗北するならともかくこんな……無属性魔法しか使えない平民に敗北するなど想像もしていなかったから。
「はぁ……はぁ……!」
「……っ!」
よく見ればボロボロじゃない――!
敗北を悟った後にグレイシャはアルムの状態に気付く。逸らしたら負けのような気がして、ずっと相手の瞳だけを見ていたから気付かなかった。
自分を魔法に変えるなどといういかれた魔法の反動だろう。血塗れなのは鏡の剣を持つ右腕だけではない。黒いズボンに隠れているが、その下はきっと傷だらけ。靴には白い光を発する血がべったりとついていて、元々黒だった靴は足から流れてきた白と赤で見る影も無い。よく見ればシャツの胸の辺りにも赤色が滲んでいて、顔色を見れば疲労と失血で真っ青だ。未だ盤石なのは湧き出る魔力とその手に持つ鏡の剣だけだった。
自分を魔法に変える。それは人間という形に逆らうという事でもある。人間の体はそもそも濃度の高い魔力を流して耐えられるように作られていない。そうなったらそれはもう霊脈の在り方であり、天体の生き方だ。例えアルムという人間の世界だけの変化だとしても人間がやるには荷が重すぎる。
「こんな……やつに……!」
それでも目の前の男は止まらないだろうとグレイシャにはわかる。
ミスティの敵を、自分の敵を倒すまで。
(退きましょうグレイシャ)
「!!」
意識の裏から聞こえる紅葉の声。その声は震えていた。
(あなたは死んではいけない……! 確かにもうこんな機会は訪れないかもしれないけれど、ここであなたが殺されるよりはずっといい。生きていれば次がある。また落とせる。あなたが燃やす憎悪がある限り、ミスティ・トランス・カエシウスの心の隅にはずっと恐怖を残せる!)
「けれど――!」
それだけでは意味が無い。歴史は勝者が作る。マナリルという国が在るままではマナリルの貴族であるミスティがいたことを完全には消し去れない。ラフマーヌという国を復活させ、新しい歴史をここから作る。それがグレイシャ・トランス・カエシウスがミスティ・トランス・カエシウスの姉だったという記録を消す為に必要な事だった。
ただミスティを殺すだけでは、星を落とした事にはならない。ここで退いたら目的からどれほど遠のくかグレイシャには想像もつかなかった。
(お願いグレイシャ……私の素敵な人……! わかってる、あなたの望む形ではないと……それでも、生きていればまた目指せる。手を伸ばせる……! あなたを捨てさせてしまう事になるけれど、あなたを失うよりはずっといい! お願いよグレイシャ……あなたが生きているそれだけで、マナリルに恐怖の楔を打ち込める……!)
「……っ! く……!」
自分を捨てる。それではミスティの姉と呼ばれていた今までと同じだ。
屈辱がグレイシャの精神を凌辱し、自分の歯を砕くような迫力で歯を噛みしめる。
感情だけではどうにもならない事がある。グレイシャの魔力は度重なる魔法の連続と今唱えた血統魔法によってもうほとんど無く、紅葉にはまだ余力があるが、アルムという正体不明の人間相手に怯え切っていて戦えるとは思えない。
自分を捨てるのは我慢ならない。それでも――自分が死ぬ事であの子が安心して暮らす世界も我慢ならない。
ミスティへの執着がグレイシャの世界を折らせ、憎悪の対象をアルムとミスティの両者に広げる。
グレイシャはアルムを睨みながら通信用の魔石に手を伸ばした。
「フィチーノ! 撤退させなさい!」
夜に紛れ、この場から撤退する為に。
『フィチーノ! 撤退させなさい!』
「!!」
「な、なに!?」
トランス城城門前広場。
縛られたフィチーノのほうから女の声が聞こえてくる。トランス城のほうをずっと見ていたエルミラとベネッタは声に反応して首をぐるんとフィチーノのほうに向けた。
"了解、した……!"
その声には連絡が来た喜びなど一切無い。
何故ならこの通信は失敗の合図。ミスティを殺し損ねて計画が破綻した際の連絡だ。
自分達は完膚なきまでに敗北した。そう理解してフィチーノは最後の役割を果たす為に魔力を自分の纏う夜に捧げる。
これより行う悪あがきはカンパトーレの貴族キイチ家としての美学。それは雇い主を必ず生き残らせる事。
雇い主が生き続ければカンパトーレという国はまた立ち上がれる。再びその欲望を満たす為に。そんな信念の下、グレイシャを逃がす為だけにフィチーノはトランス城にまで纏った夜を伸ばす。
近くには自分を倒したマナリルの魔法使い。稼げるのは恐らくたったの十数秒。そんな事はわかってる。
祖国の為、雇い主の為に、命よりもやるべき事をフィチーノは選択する。
「起きて――!」
エルミラとベネッタの視界が先程のように夜に包まれ、何も見えなくなる。
エルミラは瞬時に思考する。フィチーノは夜属性。いくら速度があっても光の性質を持った魔法では消されてしまって意味が無い。フィチーノ本体は縛られていて動けないはず。何をしているかは知らないが、意識を失えば先程のようにこの周囲の闇は解除されるに違いない。
求められるのは即座に意識を刈り取る速度。闇の中を探りながら、確実にフィチーノを仕留める為の魔法。
そんなもの一つしか無いと、エルミラは最後の魔力を振り絞った。
「【暴走舞踏灰姫】!!」
闇の中に歴史の重なる声が響く。灰のドレスはエルミラを一瞬飾るが、ドレスの形はすぐに崩れてフィチーノを探す為に霧散した。
たった十数秒。
降っている雪も見えない闇夜がこの場を包んだ。
「何だ?」
「暗く……」
グレイシャににじり寄るアルムの視界が闇に染まる。
急にアルムの姿が見えなくなり、ミスティはアルムの服をぎゅっと強く掴む。白く輝く血と鏡の剣、そして感じる体温がミスティを安心させてパニックになるような事は無かった。
(見えるでしょうグレイシャ)
「ええ」
キイチ家の魔法は夜闇の中に潜む恐怖に焦点を当てた魔法。
鬼胎属性を持つ魔法生命は元々人間にとっての恐怖そのもの。ゆえに、紅葉と一体化しているグレイシャにだけはこの闇の中が見えていた。
「……っ」
夜闇に隠れてアルムの喉を裂きたい気持ちをグレイシャは声を殺して堪える。恐らくグレイシャが魔法を唱えたその瞬間に、あの男は迷わず自分を斬り殺そうと向かってくるだろう。そうなっては自分を折った意味が無い。
認めよう。私達は失敗した。失敗させられた。
これから先このような形でカエシウス領を手中に収める事は不可能だろう。カエシウス家の名前を使ってこんな絶好の状況を作れる日はもう訪れない。
憎悪の先はミスティと自分の計画を破綻させた平民へ。
このアルムという男の全てもいつか必ず奪う。そう決意して、グレイシャは袖の方に目をやった。
壇上の袖から抜ければ使用人が待機している部屋だ。記録されていないトランス城の隠し通路を知っているのは何も弟のアスタだけではない。ミスティも知らないその部屋にある隠し通路にさえ入ってしまえばそれだけで逃げられたも同然。
後はカンパトーレに帰って次の機会を待てばいい。魔法生命達の力があれば命を奪う機会などいくらでも訪れる。自分を説得しながらグレイシャは袖のほうに向かおうとする。
「……あ……?」
踏み出そうとしたその瞬間、胸に伝わる衝撃にグレイシャは声を漏らす。
視線は自然と、衝撃のあった自分の胸元に向いた。
「な……で……!?」
下を見れば、そこには胸元に突き刺さる鏡の剣。
疑問の乗った声にならぬ声と噴き出す血がこの場限りの夜へと溶けていく。
胸元にあった首飾りの魔石は鏡の剣によって破壊され、首飾りはグレイシャの首からするりと落ちた。かしゃん、と寂しい音が闇に響く。
「助かったよ。お前が欲深くてな」
相手の位置を感知する魔法など無属性魔法にありはしない。
アルムが狙ったのはたった一つの光だった。
それはグレイシャがミスティから奪った魔石の首飾り。魔石はグレイシャの魔力に反応して淡く輝き、その光は旅人を導く星のようにグレイシャの位置を照らしていた。
アルムはただその光に向けて鏡の剣を投げただけ。魔法生命すら切り裂く鏡の剣を――
「も……じ……わた……名……呼……!」
紅葉の核が植え付けられたのはグレイシャの胸。
断末魔すら聞こえる事無く、命が消失する感覚だけがグレイシャに伝わってきた。
紅葉との一体化が解け、黒い髪も額の角もグレイシャから消えていく。
名前を呼ぶ声も魔法を唱える声も存在しない。
喉奥から込みあがってくるのは屈辱でも悲しみでも無く、死を予感させる血だけだった。
口から吐き出る血と胸の傷から流れる血が、消えた紅葉の色を埋めるようにグレイシャの白いドレスを紅く染めていく。
「わ……あな……」
ぐらつく体でグレイシャはミスティの姿を見た。
最後に手を伸ばそうとするが、伸ばしたその手が届く事は決して無い。
それは星を掴むよりも難しく、たった数メートルの距離が見えぬ空よりも遠かった。
「ミス……ティ……」
その声は決して、ミスティには届かない。
白銀の髪が流れながら、グレイシャは壇上に倒れる。それはまるで姫のような美貌を持った悪い魔法使いの最後。自分を求めてあがいた一つの世界の結末。
聞こえてきた倒れる音でアルムはグレイシャの死を悟る。
「俺はお前の苦しみは否定できない。けど……お前のやった事だけは許せない。最初に言ったはずだ。お前を殺すと」
鏡の剣が消え、アルムの中に流れる魔力も正常な動きを取り戻す。
魔法でなくなったからといって決して体の傷が治るわけではない。自分の魔力に焼かれた傷を残して、アルムはその場にへたり込む。ずっと抱えていたミスティに新しく付けられた傷は無く、アルムは宣言通り自分の世界を守り切った。
「なんだこれは……!」
「一体何が起きた!?」
「きゃああああああ!!」
十数秒だけの人工の夜が終わる。外にいるエルミラがフィチーノの意識を奪ったからなどという事はこの場にいる誰もが知る由も無い。
夜は消え、グレイシャが死んだ事で氷漬けだったトランス城や貴族達も何事も無かったように元に戻った。
広間には血塗れのアルム。抱きしめられるミスティ。そして壇上に血だまりを作るグレイシャ。
止まった時間が動き出した貴族達にはここで何が起きたのかはわからない。会場のそこここから、突如現れた傷だらけの誰かを見た困惑と壇上の惨劇に対する悲鳴が聞こえてきた。
ずっとミスティを抱えて戦い、自分を魔法に変えて戦ったアルムにはそんな声を気にする余裕も無い。重い瞼の中で、全てを見ていたノルドがアルムを庇う声が聞こえてきた。
「ミスティ……よかっ……た……」
「アル……ム……」
失血と魔法の反動で意識を手放すアルム。安心して気が抜けたのかミスティも続いて目を閉じた。
意識を失う直前に互いを抱きしめ、そのまま二人は闇に落ちた。
周囲の騒ぎは夢の後。今はただ互いに身を任せて二人は眠る。
十歳の頃から明けることの無かった初雪の夜。虚構よりも虚構のような現実に抱きしめられながら、ミスティにとっての長い夜がようやく明ける。
眠るミスティの頬に輝く一筋の涙の流星。
その顔には翳りなど微塵も無く。宝物を抱いているような、少女の寝顔があるだけだった。
いつも読んでくださってありがとうございます。
グレイシャ戦決着です。
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