196.初雪のフォークロア7
「すまんミスティ。体勢を変える。しっかり掴まっててくれ」
「は、はい……」
アルムは曲げた左腕にミスティを座らせるような抱きかかえ方に変え、アルムに言われてミスティはアルムの首に両手を回してしっかり掴まる。
『……気味悪いわね』
その魔法は剣というにはあまりにみすぼらしく、鏡というには不格好。割れた鏡を研いで無理矢理剣にしたかのような中途半端な形だった。
紅葉はまじまじとその魔法を見つめる。尋常ではない魔力が迸った結果出てきたのが何故あんな物なのかという疑問。そして最も気になる点が一つ。その剣は鏡のはずが、グレイシャと一体化した自分の姿を映していなかったのだ。
紅葉がいた世界では鏡は魔除けとして使われていた。自分が自分である事の確認。何かに憑依されていないか、災いをもたらされていないかを確認する為と人間が使っていたのを覚えている。
だが――映っていない。魔除けの特性を持つのであれば、鬼である自分はともかく、少なくともグレイシャは映るはずなのに。
そんなアルムの魔法に対する疑問が解消しない中、アルムはその鏡の剣を振るった。
『なるほど、剣の形をしているから……人を殺せるようにはなったって事かしら』
両手を伸ばして襲ってきた人型の魔力体をその鏡の剣は二体切り裂く。先程の盾のような魔鏡では出来なかった事だ。
『うふふ、でもあなた……そんなんでこの数を全部倒す気なの?』
逆側から迫ってきたもう二体をアルムは切り裂いた。斬られた人型の魔力体はただの魔力となって霧散していく。
紅葉の疑問は解消しないが、その二度の斬撃に特別な事は何も起こらなかった。剣から何かが発せられたり、魔法であれば珍しくない斬撃を飛ばすような特性も存在しない。
そして何より、この世界でいう属性がその魔法に無い事を紅葉は気付いた。
『それ、無属性魔法ってやつでしょう? 今の魔法の土台になった後は捨てられた未来の無い、中途半端で出来損ないの魔法……なるほどなるほど、才能が無かったからそんなものに縋るしか無かったのねあなた』
「ああ、これが唯一の選択肢だった!」
刃物の扱いは故郷の狩りで慣れている。だが、そこに剣術のようなものは無い。ただひたすらにアルムは向かってくる人型の魔力体を切り裂いていく。
右から来た魔力体の胴を裂き、ミスティに手を伸ばそうとした人型の魔力体の喉を突く。ここでようやく、狙いがミスティである事にアルムは気付いた。
一度舌打ちしてアルムは床を蹴る。強化された肉体に任せてアルムは跳んだ勢いのまま走った。
ミスティを抱えて舞踏会場を駆ける状況はさほど変わらない。変わったのはアルムは逃げるのではなく、倒す事を選択した事。
向かってくる人型の魔力体を切り裂き、ただの魔力へと変えていく。何体いるのかなど想像する暇もない。増殖は止まったようだが、それでも気持ち悪いほどに人型の魔力体はアルムに向かって群がってくる。
伸ばした手をかわして一体。体を反転させて後ろのもう一体を。勢いのまま近寄る一体を蹴り上げて瞬きの時間を稼ぐ。
アルムは舞踏会場に無数に立つ氷像を利用して囲まれないように動いて立ち回っていた。
(懐に入られたら終わる……!)
ミスティをどれか一つの手に掴ませるだけでもそれは敗北に等しい。
紅葉の魔力は鬼胎属性。その魔力が作った魔法に触れればたちまち恐怖を流し込まれるだろう。
自分の胸の中で恐怖に震え、涙を流すほどに追い詰められたミスティにもう一片の恐怖も与えるわけにはいかない。
『ああ、納得が行ったわ。だからその子を助けに来たのね』
「何を……言ってる!?」
アルムはミスティの顔で死角になりかけている左から向かってくる魔力体を一体切り裂く。
最初よりも容易く斬られた気がしたが、量産された魔力体がどう破壊されようが紅葉は気にしなかった。
『大事な大事なコネだものね? そんな魔法を持ってこの世界でやっていくのは貴族様の言葉添えが必要だもの。あなた賢いわ……マナリルで絶大な力を持っているカエシウス家の子に借りを作れるなんてあなたみたいな人からしたらまたとない好機だものね? 気合が入る気持ちがようやくわかったわ』
人の心は覗けない。真意はわからない。
だからこそ人の心を語る言葉に人は惹きつけられる。例えそれが都合のいい騙りであっても。
決して真実である必要などない。ただ可能性を示唆させるだけで、もしかしたらと人は疑念を抱く。
『私は好きよ。そういう自分の欲望に忠実な子。自分の為にってさっきあなた自身も言ってたものね? ええ、ええ、なんて人間らしいのかしら』
紅葉の言葉が狙っているのはアルムではない。紅葉にはわかる、抱きかかえられている少女の心があと一歩で壊れる事を。男のほうは後でどうにでもなる。無属性魔法なんてものしか使えない敵だ。紅葉からすれば敗北する要素が無い。
ならば先に狙うべきはグレイシャの目的でもある少女。呪いを帯びた言葉で弱った心のひびを大きくし、疑念を膨らませ、そのしがみついた手を離させるきっかけになるだけでよかった。人間の信用と信頼の崩壊はいつだって小石のような疑念から始まるのだから。
「そうだな。確かに俺は自分の為にここに来た」
「……っ!」
紅葉からすれば予想外の肯定だった。
ミスティの顔に一瞬悲痛が浮かぶ。紅葉の言葉を肯定したのかとミスティの瞳に冷たい涙がにじんだ。
「例えば、村に捨てられた孤児を拾ってくれる人」
『は?』
「魔法使いになりたいと言っている子供に魔法を教えてくれる人」
迫ってくる魔力体を次々と切り裂きながらアルムは続ける。
「さっきまで喧嘩していた相手に校舎を駆けずり回ってまで謝ろうとしてくれる人」
「見たいと言っている誰かの為に馬鹿正直に魔法を見せようとしてくれる人」
「足を痛がる同級生の傷を当たり前に治しにきてくれる人」
その声色は穏やかで、人型の魔力体を退けながら言っているとは思えない。
壁に跳んだアルムに衝突も恐れず向かってくる二体の人型の魔力体。その二体を切り裂きながらアルムは微笑んだ。やはり、こんな黒塗りに人の心は再現されていないと確信して。
「例えば――見知らぬ迷子に、声をかけてくれる人」
『何の話かしら?』
急に何を話し始めたのか、紅葉にはわからない。
「俺と一緒にいてくれたのは、そんな優しい人達だった」
何の話をしているのかわかったのはこの場でミスティだけだった。
そう、並べられたアルムの言葉は紛れもなく自分達のお話。
「お前の言う通り、確かに人の心は見えることは無い。勿論、人の心を知った風な口して語るお前にだって見えないんだ」
『……』
グレイシャの抱いた苛立ちとは種類の違う苛立ちが紅葉に生まれる。
何だその声は、目は。さっきまで滑稽とすら思えていたのに、そんなみすぼらしい魔法を一つ唱えた程度で何故自信に溢れている。自分の言葉は呪いを帯びて、少なからず心に重圧をかけるのに。
「けど……確かにいるんだよ。この世界には当たり前のように誰かに優しくできる人達がいるんだ。例え心なんてものが見えなくても、誰かの心の中に優しさの欠片を渡せる人達がいるんだ。そうやって貰った優しさの欠片が積みあがって……誰かを助けたいと思う気持ちを生むのだと俺はもう知っている」
それはミレルの町の屋根の上。ミスティと過ごした短い時間に教えて貰った一つの答え。
「憧れから遠のいたと思っていた不安と恐怖に優しさと名前を付けてくれた人がいた。助けたいと思うのはあなたが優しくなったからだと言ってくれた人がいた。明日の俺はもっと優しいと信じてくれた人がいた。心なんて全部見える必要なんか無い。俺は俺が生きてきた時間を肯定してくれるその言葉に救われて……俺の中には一緒にいてくれた人達の優しさが確かにあると信じられる。自分の進んできた道が間違いでは無かったんだと信じることが出来る」
「あ……」
ミスティの口から不意に声が漏れる。アルムにしがみ付くミスティの腕の力が自然と強くなった。
……あった。
自分の中に無いと思っていた自分が今、アルムの中にある。
彼が救われたと感じた瞬間に、私がいる。
ずっと恐怖で忘れていた。細やかな願いに隠れていた私の憧れ。
私はお姫様に憧れた。けれど、誰かを助けたくて、魔法使いにも憧れていた。それは貴族だからなんて理由じゃなくて自分が本当に望んだ在り方だった。
何で気付けなかったのだろう。誰かを助けられる人になりたいと憧れた日は、きっと義務なんかじゃなかったのに。
「魔法使いになりたい」
何で?
「俺を救ってくれた、優しくしてくれた人達のように」
疑問は氷解する。
何故魔法使いになりたかったのか。最初に憧れたのは本の中で誰かを助ける魔法使い。けれど、なりたかったのは一緒にいてくれた優しい人達だった。
彼の出した答えは最初に描いた形ではなかったかもしれない。それでも、新しい形となってアルムの中で輝いている。
「誰かを助けたい」
誰を?
「俺を救ってくれた、優しくしてくれた人達を」
何てことは無い。自分は助けられた。それなら自分も。自分も誰かを。誰かを――!
ずっと叫び続けていた。探していた。自分は誰を助けたくて魔法使いを目指したのか。
どれだけ遠くを見ようともその誰かは見つかるはずも無い。何故なら、その誰かは自分の傍にいてくれた人達だったのだから。
「俺は自分の為にここに来た。助けたいと思った自分の気持ちを信じて、俺の世界にいなくてはならない人を失わない為に。俺を救ってくれたミスティを助けたくてここに来た!
それが俺だ。俺の夢見た魔法使いの姿だ! 俺は……俺の知っている優しい世界を守る為にここにいる! 誰かがずっと、誰かを助けたいと思える心を繋げられる世界の為に!!」
氷の世界に強く響くアルムの声。
彼は知った。優しい人を。彼は知った。魔法使いを。
彼が今見ているのは本の中にあった壮大な憧れではなく、隣にある小さな夢。
死地に飛び込む理由としてはあまりに単純で、それでいて大切なもの。
自分を助けてくれた人を助けたい。そして誰かが誰かを助けたいと思える世界を守りたい。
そこには誇りも大義も無く、ただただ純粋な欲求が生んだ我が儘のような答えをアルムは叫ぶ。
「アルム……」
ミスティの瞳から温かい涙が溢れていく。
もうどんな言葉を囁かれようとも、ミスティはしがみ付くこの腕を離さない。
知らなかった。いないと思っていた、いないと思い知らされたはずの誰かが、こんなに近くにいたなんて。
"助けてくれる誰かがこの世界にいますように"
それは子供の頃から抱いていた細やかな願い。
自分が抱きしめるこの人が助けたかったのは貴族でも、魔法使いでも無かったけれど……別の形で自分の願いを叶えてくれた。
貴族でも無く、魔法使いでも無く、"私"を助けてくれる"魔法使い"が――ここにいる――。
『馬鹿げた話ね。どんな時も人の世界は憎悪や侮蔑、怒りや殺意で溢れているのに』
そう、アルムの語る世界は夢物語。青臭い綺麗事。人の世界は人の抱くどうしようもない悪意で満ちている。だからこそ、呪いも生まれた。
だが、アルムはそんな事は承知で紅葉を見上げる。
「そんな世界がある事くらいわかってる。俺が語ったのは俺のいる世界の話だ。生き物は皆自分の世界を押し付け合って生きている。それを許容する事もあれば敵対する事もある。そして俺は俺の世界をお前らに押し付ける。ただそれだけの話だ」
『うふふ、そんな子供の理想みたいな馬鹿げた世界を?』
「……なら問おう。紅葉」
気安く名前を呼ぶその声を紅葉が咎めようとするよりも先にアルムはその問いを口にする。
「理想とは、不可能を指す言葉か?」
『――――』
しまった。紅葉の顔から一瞬血の気が引く。
理想に足掻く人の在り方を否定する。それはミスティのいない世界を作る、そんな理想を掲げたグレイシャをも否定する事ではないか。
確かに目の前の男が語る世界はあり得るはずのない夢物語だった。それでも、理想を語る姿を否定だけはしてはいけなかったのに。
……そうだ。こいつは、似ている。グレイシャと似ている。
自分の理想にただ走る者。どんな障害も押し退け自分の世界を求める者。
例えその場所に辿り着けなかったとしても、そこを目指して歩く事に価値を見出す者。
壊せない。
こいつは壊せない。こいつは何もわかっていないガキの振りをしてこちらの世界を壊すまで立ち向かってくる質の悪い破壊者だ。
向けられる悪意など歯牙にもかけず、自分という世界を信じ続ける紅葉と最も相性の悪い相手。
「どうした紅葉? お前の出した人の心とやらが止まってるぞ?」
人型の魔力体は紅葉の動揺からか、いつの間にか動きを止めていた。
その隙にアルムは一気に距離を詰める。散々邪魔してきた人型の魔力体が動き出す前に決定打を。
『しまっ――!』
床を蹴り、アルムは紅葉の目前まで跳んだ。
目の前まで迫ってきた事に動揺こそするも問題はない。この男が持っている鏡の剣は無属性魔法。
魔法生命である紅葉の"現実への影響力"はそんな中途半端な鏡の剣では突破できない。はずだった。
「ぐっ……!」
突破できないとわかってはいるものの、紅葉は反射的に少し身を引いてアルムの振るった鏡の剣をかわす。
何故か、剣を振ったはずのアルムの腕の皮膚が裂けて血が噴き出した。
そんな異様な光景を目にしながら顔の前で振るわれる横一閃。剣の軌道をその目に見たその瞬間。
『あ……ぎゃああああああああ!!』
紅葉の額のほうから激痛が走り、紅葉は呻き声を上げた。氷漬けの床に先の尖った細い骨のようなものが落ちる。
頭部を狙った鏡の刃は二本ある角の内一本を斬り落とした。
『ど、どうして……! そんなみすぼらしい剣で……!』
角を斬られたからなのか、浮遊していた紅葉は落ちるように降りてきた。
紅葉は斬られた角を手で抑えながら、先に着地したアルムを睨む。
紅葉は知らない。その鏡の剣に尋常を超えた魔力が注がれ続けている事を。
人型の魔力体を倒すその間、注がれ続ける魔力によってその鏡の剣の"現実への影響力"が上がり続けていた事を。
魔力というたった一つの美点が今、紅葉に届く。
「はは……! 案外……早かったな……!」
腕が裂けた痛みに耐えながらアルムは口元で笑う。
二人の目が合った瞬間、紅葉は後ずさった。
何だこいつは。
何なんだこいつは。
不合理への動揺と共に、今の一閃で遥か昔故郷で殺された時の記憶が蘇る。
床に落ちた角を殺された時の自分の首と幻視して、紅葉はこの世界に来て初めて……人間に恐怖した。
いつも読んでくださってありがとうございます。
活動報告の方に書きましたが、昨日は書ける時間がとれず……一気に駆け抜けたかった……。