194.初雪のフォークロア5
「アル、ム……」
「ああ、遅くなった」
ミスティは名前を呼んだ。自分を救ってくれた男の名前を。
「アルム……!」
「ああ、アルムだ」
もう一度呼んだ。よく知っている友人の名を。名前を呼ぶ度、ミスティの瞳からは涙が零れる。
「アルム……アルム……! アルムアルム……! アルム……!」
「久しぶり、ミスティ」
怖い夢を見た子供のように、ミスティはアルムの名前を呼びながら泣きじゃくる。
力強く自分を抱きかかえてくれているその姿は幻でも夢でも無く、温かい現実だった。
涙を溢れさせながらミスティはアルムの名前を呼び続ける。そんなミスティを安心させるように、アルムは名前を呼ばれる度に優しく髪を撫でて応えた。
アルムの言葉は氷漬けとなった世界の中で唯一ありふれたもので、ミスティの記憶の中にある日常の続きを思わせる。
「アルム……アルム……! ごめんなさい……アルム……ごめんなさいごめんなさい……! ずるい女でごめんなさい……! ここはあなたを追い出すような場所だったのに……。アルム……行かないで……! ここにいて……いてください……!」
「どこにも行かない。ちゃんと、ここにいる」
その声にミスティは涙でくしゃくしゃになった顔をアルムの胸に埋める。伝わる体温が大丈夫だと言ってくれている気がした。
ミスティの謝罪が舞踏会での門前払いとそんな事をする場所に招待してしまった事への謝罪だったなんて、きっとアルムにはわからないだろう。
それでも言わずにはいられなかった。そんな仕打ちを受けても戻ってきてくれた、助けに来てくれたアルムに誠実な自分でありたくて。
耐えきれなくて自分勝手な我が儘も言ってしまったけれど、それでも、自分を助けてくれた"魔法使い"はどこまでも甘くて優しい言葉で応えてくれた。
「アルム……アルム……!」
「いるよミスティ。俺はここにいる」
流れる涙はさっきまで氷のように冷たかったのに、名前を呼ぶ度に溢れる涙はとても温かい。
アルムがここにいる事を実感するとまた涙が溢れてきて、諦めた振りをしていた自分はどうしようもなく恐かったのだと思い知った。感情のままにただ名前を呼ぶ、それだけの事がとてつもなく嬉しくて、ミスティは何度でもアルムの名前を呼び続ける。
自分はこんな風に守られては駄目だと。助けられては駄目だと思っても、その声は止められない。
「アルムと言ったか……あの子は……」
グレイシャはミスティしか狙っていなかったのか、グレイシャの魔法から逃れていたノルドはミスティが無事な事に思わずほっとする。そんな権利は無いとわかっていても無意識に。
そしてミスティを抱きかかえる男は確かにアルムと名乗った。忘れるはずが無い。それは自分がせめてと逃がした平民の名前だった。
「……」
泣きじゃくるミスティを腕の中で慰めながらアルムはグレイシャを睨んでいる。グレイシャもまた、そんなアルムに冷ややかな視線を送っていた。
どれだけ見てもその顔にグレイシャは覚えが無い。舞踏会場から出ていった貴族の中に男は一人。ルクス・オルリックだけだったはずだ。
ならばこいつは?
考えてようやく、直前で招待客から弾いた一つの名前を思い出す。
平民が混じっている。使用人に扮した紅葉から伝えられたノルドの伝言を聞いて、グレイシャはその平民の名前をリストから弾いた。
この舞踏会はラフマーヌ復活の場。その場に平民がいるのは相応しくない。そんな理由だった。一人入れないくらいで問題など起きるはずも無いと。
だが……その弾いた名前を名乗る男が今、最後の仕上げを邪魔した。
凄まじい勢いでミスティを自分の前から掻っ攫い、振り下ろした氷の剣は空を切った。
……予定は少しだけ狂ったものの、実際は些末な問題だ。
ほんの少し時間が伸びただけ。取るに足らない平民が増えただけ。すでにミスティに戦う意思は無く、後は石ころ未満のこの平民を殺せばそれで終わりなのだ。
たったそれだけの事。たったそれだけの事なのに。
(どうしたのグレイシャ)
紅葉はグレイシャの変化に気付き、声にはせずに意識内で声をかけた。
アルムと視線を交差させたまま、グレイシャは答える。
「何なのかしら……わからないけれど、いらつくわ」
(……憎いではなく?)
「ええ、こいつを見ていると……何でかしら、いらいらするわ」
一体化しているからこそ紅葉にはわかった。確かにミスティを殺す事は邪魔されたものの、グレイシャはあの男を憎んではいない。
言葉通り、あるのは怒りにも満たない苛立ちだ。勿論グレイシャも紅葉もあの男に会った事など無い。
ただ――このアルムという男の姿を見ているだけで、何処か落ち着かず理屈無く滅茶苦茶に踏み荒らさなければいけないような、そんな正体不明の苛立ちがゆっくりとグレイシャに積もっていく。
「姉妹喧嘩に割り込むなんて……随分野暮な男がいたものね?」
「喧嘩、か。俺にはそうは見えなかったが」
ミスティを抱えたままアルムは立ち上がる。舞踏会場に入る前にかけた強化のおかげでミスティの体重くらいは苦でもない。それはグレイシャの前で決してミスティを離さないという意思表明でもあった。
「貴族には貴族の事情があるのよ。あなたみたいな平民にはわからないね」
「ああ、わからなくていい。ミスティが殺されかける事情なんて、一生わかる必要が無い」
「あなた、その子を助けに来たの?」
「そうだ」
「あら……そう」
苛立ちの正体はわからないが、大方正義に駆られた世間知らずだろうと判断してグレイシャは動く。
この平民が何であれ、最後の仕上げを邪魔する敵である事には違いない。この平民を殺せば謎の苛立ちも晴れるだろうと魔法を唱えた。
「『愛刺の氷剣』」
「『永久魔鏡』」
グレイシャの魔法の速度に難なくアルムは付いていく。
放たれた十本の氷の剣をアルムの周囲に現れた鏡の盾が全て弾いて叩き落とす。
「こいつが噂の平民……」
一時期噂になったベラルタ魔法学院に入った平民。グレイシャの耳にも当然その情報は届いている。ミスティとの関係はそこかと、グレイシャは興味は無さそうに呟く。
だが、魔法についてはそうはいかない。噂になるだけはあるとグレイシャは表情を変えた。ミスティを狙えるようにと複数の方向から攻撃する魔法を選択したが、この平民は迷わずその全てを防げる魔法を選択した。一手で魔法への理解と何らかの戦闘経験がある事がわかり、魔法使いとしては純粋に感心する。
グレイシャという人間としては苛立ちが積もるばかりではあるが、そこらの雑草を抜くような作業にはならなそうだと認識を改めた。
「ここにいるって事は……あの二人しくじったのね……」
ミスティを落とす際、邪魔者が入らないようにカンパトーレでファルバスとフィチーノを雇ったというのに、現実はこうして邪魔されている。グレイシャは失望からか大きくため息をついた。
「……さて」
血統魔法で一気に片付ける選択肢もあるが、羽虫にも満たない平民相手にその選択は利口ではない。いくら血統魔法といえど、カエシウス家のものとなればその消費魔力は絶大だ。
まだルクス・オルリックが控えている上に、万が一ノルドが動くような事があれば血統魔法抜きで戦う必要がある。考えられるこの二つの事態に備えて魔力を温存しておきたいのがグレイシャの本音だった。こんな平民相手に血統魔法を使える魔力を消費したくない。
ならば――ここはパートナーに任せるべきであろう。
「お願い紅葉。あいつを殺してくださる?」
音を立てて、グレイシャの持つ扇が開く。
『ええグレイシャ……私の大事な大事な素敵な人。任せて頂戴、人一人壊すくらい、私にとっては容易い事だわ』
広げられた扇の下から聞こえてくるのは紅葉の声。
グレイシャの願いを叶える為、アルムの前に人の心をかき乱す鬼女が姿を現した。
アルムもまたその声の変化に気付く。
「声が変わった……?」
『異界から初めまして。私の名前は紅葉。……どうかしら? 下賤なあなたが覚えるには勿体ない、とても綺麗な名前でしょう?』
いつも読んでくださってありがとうございます。
そして感想を書いてくださった皆様ありがとうございます。昨日は更新してすぐにとはいきませんでしたが、今朝に全て見て返信させて頂きました。書くモチベーションになっております。本当にありがとうございます。