193.初雪のフォークロア4
『思ったより脆かったわね』
扇でぱたぱたと着物についた細かい氷をはたきながら、紅葉はつまらなそうな声でそう言った。
「うふふ、そうね」
切り替わったグレイシャの声は弾んでいた。
確かにミスティの心を削ろうとはした。全てを奪って突きつけて地に落とす。グレイシャの目的は達成されたといっていい。
しかし、魔法が使えなくなるほど追い詰められるとはグレイシャも思っていなかった。予想以上の状態にまで陥った喜びを声から隠し切れない。
浮遊していたグレイシャの体はゆっくりと床に降り、自分の魔法に呑まれて倒れた姿になったミスティの下に歩いていく。
「気分はどうかしら?」
「……」
纏っていた強化魔法でミスティはかろうじて無事だった。
美しいドレスはずたずたに引き裂かれていて、体の至る所には氷の刃によって出来た切り傷があってドレスにも血が滲んでいる。吹雪によって体は氷のように冷たく震えていて、吐く息はずっと白かった。
そんな体の状態よりも、ミスティの体が動かないのは心によるものが大きい。魔力が動かぬほどに追い詰められたミスティはもう抵抗する気力が無かった。
「ああ、素敵……」
「あ……う……」
グレイシャはそう言いながらミスティの顔を踏みつけた。
紅葉と一体化したグレイシャならば無抵抗の人間の頭蓋を砕く力はあるが、グレイシャはそうしない。
優越からでも、憎悪からでもなく、その表情はまるで何らかの確認作業のようだった。
「ん?」
そんなグレイシャの目にある物が入り込んでくる。
「そういえば、そんな首飾りしてたわね。あなた」
それはミスティの首にかかっていた魔石の首飾りだった。
グレイシャはミスティの頭を少し持ち上げて首から首飾りを外す。
「友人からの贈り物って言ってたかしら……外したほうがいいって言ったでしょう?」
グレイシャはそのままその首飾りを首にかけると、ミスティに見せつける。
ミスティから全てを奪う。それが当然の権利であるかのように。
「どう? 似合うかしら?」
「……っ!」
見せつけてくるグレイシャの足に、ミスティは寒くて感覚がほとんど無い手をゆっくりと伸ばす。
それがミスティに出来た最後の抵抗。その首飾りだけはと必死に体を動かそうとするも、出来るのはそれだけだった。
ゆっくりと自分の足に向かって伸びる手をグレイシャはぞんざいに踏みつける。
「あ……く……!」
「本当に、何もできないのね……ああ、何て可愛いの……」
手を伸ばす。ミスティが見せる抵抗とは思えない細やかなものにグレイシャは恍惚の表情を浮かべた。
「まるで、石ころみたい」
そして、満足そうに囁いた。
「『氷の剣』」
グレイシャが唱えたのは水属性の下位魔法。
手に現れたのは特別でも何でもないそこらの貴族の子供でも唱えられる氷の剣だった。
ミスティはもう話しかけてくる様子すら無いグレイシャを最後に見て、そのままゆっくりと、静かに目を閉じていく。最後の光景は剣の切っ先を向けるグレイシャの姿だった。
「……」
……何が貴族。
……何が、魔法使い。
貴族の在り方、誇り。お姉様の言う通り、そんな聞こえのいい言葉を自分はずっと隠れ蓑にしていただけなのかもしれない。
お姉様の言う通り、自分にはただ才能だけがあって、その才能が自分の意思だと勘違いして……自分を持たずに生きてきたのかもしれない。貴族だから、カエシウス家だからと。
違うと否定したくてもできなかった。私は不安で、恐くて、当主になる事を最後まで躊躇っていたから。
一人で歩くのが恐い。そんな自分がずっといたから。
そんな私が……当主になるのが本当に自分の意思だったのだと胸を張れるはずがない。
自分の事も、家族の事も見えていない――ただの小娘だったのに。
「……」
……たい。
会いたい。
皆さんに、会いたい。
何故だろう。死ぬ間際に思い出すのは、けして遠くない記憶だった。
こんなにも、皆さんと会いたい。
いつものカフェテリアに当たり前のように集まって話したい。
学院帰りに昼に話し足りなかった話をしながら夕暮れを見たい。
依頼の実地に行く馬車の中で一緒になって揺られたい。
話して。
歩いて。
からかわれて。
笑って。
そんな一年にも満たない記憶が未練がましく私の中を駆け巡る。
「……」
思い出すのは暖かで優しい匂い。浮かぶ景色は見ている時よりもずっと、ずっと綺麗だった。
がらがらと崩れ落ちていく記憶の中で、ベラルタで出会った彼らとの記憶が私の中で輝いている。
いつまでも続くと思っていた日常はもう過ぎ去った時の一つになっていて、かけがえの無い思い出になっていたのだと気付いて。
死ぬ間際までこの思い出に浸っていたい。そう思うほどに、彼らと過ごした時間は楽しかった。
会いたい。
最後に一目、皆さんに……会いたい。
「あ……」
ああ……そういえば一つだけ、来てくれるかもしれない言葉がありました。
こんな事を口にしたらきっと、お母様は私を思いっきり叱るだろうけれど、こんな時くらいは……最後くらいは自分の願い事を口にする事を、見逃してくださいますよね?
「……け……」
それは私がずっと言ってはいけなかった言葉。
「か……て……」
ずっとずっと、胸にしまい込んでおかなければいけないもの。
ごめんなさいお母様。私はあなたの言う事を守れませんでした。
でも、これが最後だから……今から言う言葉を、しょうがないわね、と笑って許して欲しいのです。
お母様が淹れてくれた、あの甘いミルクティーのように。
「誰か……助けて……!」
ああ、でも。皆さんに今会うような事があれば……プレゼントを奪われた事を怒られてしまうかもしれませんね。
『何!?』
いつの間にか、声は紅葉に切り替わっていたようだった。
紅葉が驚く声と共に、記憶の中と同じ匂いが私の鼻をくすぐる。
なんだろう、と不思議がっている間に体のあちこちに熱が戻ってくるような感覚がした。
『誰だ……お前は……!』
さっきまで寒くて感覚も無かったのに。もしかして私はさっきの黒い火にでも燃やされているのでしょうか。
何が起きたのだろう。諦めて閉じた目を私は再び開けてみる。
「――」
声が、出なかった。
だって、そんなわけがない。そんな都合のいい事があるはずがない。
私は確かに、来てくれるかもしれない言葉を口にしたけれど……そんな声が彼に届いているはずがないのに。
「う……そ……」
目を開けて見上げれば、そこには見知った彼の顔。
思っていたよりもごつごつとした腕が私を抱きかかえていて、その人は固い胸板で私という人間を受け止めてくれていた。
彼の触れる場所全てが温かくて、寒さで震えていた私にはほんの少しだけくすぐったい。
「ほん……とう、に……?」
視線の先に彼がいるのが信じられなくて、私は上手く言葉を紡げなかった。
だって、信じられないのも当然だと思うのです。
助けを呼んだら来てくれたなんて……そんな、そんな――物語の中のような出来事が信じられるはずが無い。
目を開いて消えたのなら、これはきっと夢なのでしょう。
瞼の中にあるだけなら、これはきっと幻なのでしょう。
でも、何度瞬きしても彼の姿は消える事は無くて。
「あなた……一体誰かしら?」
「アルム。あんたを殺す男の名前だ」
涙でぼやける現実に、私の――私にとっての魔法使いがいた――。
いつも読んでくださってありがとうございます。
お待たせしました。