192.初雪のフォークロア3
崩れ落ちていく記憶と共にミスティの体もぐらつく。
あれは本当に自分と暮らしていた姉なのか? そんな、今更な疑問が理解から逃げるように湧きあがるも、自分の中の血があれは間違いなく姉なのだと肯定している。紅葉と一体化したことによる姿形など些細な事。あれは間違いなく自分の姉だと。
数日前、グレイシャに髪を梳かれていた時の会話を思い出す。崩れ落ちる記憶の中で、その時鏡の中にいたグレイシャだけが妙に際立っていた。
"まぁ、コンプレックスってそういうものよね。他人には永遠にわからないっていうのかしら"
"一見同じようでも境遇とか経験が違うとね。あなたみたいに可愛く気にしているだけの人もいれば、傷になりかけだったり、もう傷になってる人もいる。その傷だって本人からしたら小さかったり大きかったりしたりね。私はそういう人をずっと見てきたわ"
あの時、グレイシャはそれが自分の作品を欲しがる人だと言っていた。
もしかしたら――あれはグレイシャ自身の事だったのではと。
グレイシャの事を理解してないという言葉が改めてミスティに突き刺さる。
だって、あの時姉を見た自分は顧客の話をしてたと疑わず、顧客の暗い部分に触れてきたのかもなどという的違いの心配を抱いていたのだから。
(私はなんて……)
――滑稽なのだろう。
『あら?』
氷を踏みしめる音がした。
自分への失望に押し潰されそうにになりながらも、ミスティはぐらついた体をその足で支えて踏みとどまる。
確かに自分はわかっていなかった。妹として、家族として、当たり前に気付けない愚かさを自覚した。
それでも、倒れてはいけない。
自分は貴族。この国を守る者。決して、倒れてはいけない。歩き続けなければいけないのだ。
「……あなたが、例え私の知らないお姉様だとしても」
覚悟を思い出せ。弱音はあの時書庫に置いてきたはずだ。
自分は貴族として雪原を歩き続けると。そう決めたのだから。
「どれだけ、苦しんでいたのだとしても」
役割を果たさなければいけない。今こうして、マナリルを脅かす敵がいる。
それだけで自分が立つ理由は十分なはずだと、ミスティは自分を奮い立たせる。
「今はこの国の、この国の人の敵……ならば、私はあなたを倒します」
『ふふふ、そんなひどい顔で……随分説得力の無い宣言だこと』
いつの間にか、声が切り替わっていた。
感情を叩きつけるようなグレイシャの声から、ミスティの奮起を挫くような笑いを含んだ紅葉の声。
だが、紅葉の言う通り、ミスティの表情は強気な言葉とは違う苦しみに満ちていた。ミスティの体の震えは未だ止まらない。その震えが気温や温度によるものではないと気付けない。
「あなたに何を言われようとも……それが、貴族としての誇りです。貴族としての在り方です。この国の平穏を守る為に、私はあなたを倒す……! 国と民を守る為に、貴族はいるのだから!」
震える体で改めて宣言する。
自分はミスティ・トランス・カエシウス。カエシウス家を継ぐ者。いずれマナリルの貴族の頂点に立つ者として、貴族の在り方を損なってはいけないと。
姉からの拒絶と自分への失望。どちらを突きつけられたのだとしても、自分は決して折れてはいけない。ここに、立ち続けていなければならないと。
『らしいわよ? グレイシャ?』
紅葉はわざとらしく、パチンと音を立てて扇を閉じる。
「なら……聞きましょう。私の可愛い可愛い妹に」
声はグレイシャのものに戻っていた。
「この場に、あなたのいう貴族の誇りとやらはあるのかしら?」
ミスティの宣言を蹴り上げるように、グレイシャは手を広げる。
周りを見ろ。誇りなど自分達の手によってとうに凍り付いているとミスティに見せつけるかのように。
「『氷凍の波』!」
グレイシャの問いへの答えをミスティは魔法で返す。
ミスティの背後から氷と水が入り混じった波のようなものがグレイシャに向かって放たれた。壇上ごと飲み込むような大きさは中位魔法とは思えぬほどの"現実への影響力"を持っていた。
『【呪怒・二条風害】』
紅葉の背後に浮かぶ六つの玉の一つが輝き、黒い烈風が波を切り裂いて魔力は霧散する。当然、ミスティの魔法は紅葉には届かない。
いくら強力とはいえ、この程度の魔法ならグレイシャでも抑えられたはずだ。何故わざわざ紅葉の魔法によって防がれたのか。その意味をミスティはすぐ知る事になる。
「あったとして……貴族の誇り? 在り方? あなたには、あなたの在り方が無いだけに見えるけど」
「黙ってください」
「お母様に読み聞かされた本。それは思い出でもあるけれど、義務を植え付けられたとも言えなくて?」
「黙って、ください……」
「あなたの言う貴族の在り方は確かに立派かもしれないけれど……本当にあなたが望んだ在り方だった?」
この記憶まで穢すのかとミスティは唇を噛んで強く拳を握る。
グレイシャが迎撃しなかった意味。それはグレイシャの声が、言葉が、浮き彫りになったミスティの苦悩に一番突き刺さるから。耳を塞いでも聞こえる家族の声がミスティを効果的に傷つけるから。
グレイシャの言葉をミスティは否定出来ない。
当然、貴族の在り方自体に疑問を抱いているわけではない。国と民を守る在り方は誇り高いもの。だが、ミスティの中にはずっと引っ掛かりがある。幼少の頃からずっと思い続けてきたたった一つの願い。国と民を助けるのが魔法使いというのなら、魔法使いを助ける誰かはいないのだろうか。
今でも捨てきれずにいる、そんな子供のようなささやかな願い。
「私は少なくとも、私の在り方を自分で選んだ」
カエシウス家はこの国の貴族の頂点。誰かに助けを乞うなどと決して許されない存在。
そこに立つ勇気を、本当に自分で選択できていたのだろうか?
弱音を吐き出した書庫での記憶がミスティに蘇る。出来ていなかったから、自分は寒さに震えていたのではないだろうか?
本当に選択できていたのだとしたら、子供の頃からの願いを、理想を、未練なく捨てるべきだったのではないだろうか。
「あなたはどう? 自分の才能が自分の在り方だと錯覚していないかしら? 必ずしも、才能とやりたい事は直結しないでしょう?」
その問いには答えられなかった。
だってわからない。才能が先か自分の意思が先かなんて誰にも証明なんてできはしない。
自分は貴族として生きるとは決めている。でも果たして、この才能が無かった時に……胸を張ってそう言えただろうか?
「そうだとしたら、自分すら持っていないあなたに私達は苦しめられていたのね」
かろうじて、立てているだけだった。
心の中を声でぐちゃぐちゃにかき混ぜられたようで、耳を塞げば今度は紅葉の笑い声まで聞こえてくる気がした。
「それとも、自分がわからないから……私達の事がわからなかったの?」
「え……?」
私達。そういえば、グレイシャは何度か私達と自分以外の誰かを指す言葉を使っていた。
「物言わぬお母様、遠くから羨むお父様、劣等感に苛まれる弟、そしてあなたを憎む私……自分がわからなかったから、あなたの下でもがく私達の事もわからなかったの?」
「どう、いう……」
敵の言葉に耳を貸す必要など無いのに、弱った心が姉の声を受け入れてしまう。
グレイシャは氷像の裏に隠れるノルドのほうに目を向けた。
「そこのお父様。何であなたを助けないんだと思う?」
「……え?」
それがあなた達が脅しているから。呪法という常世ノ国の魔法で縛っているからだろうと叫びそうになるが。
「だって、やろうと思えばあなたを助けられるのよ? お母様の命さえ無視すれば、娘を救えるのよ? 人質はお母様であって、お父様にかけた呪法はお父様自身に降りかかるわけじゃないんだから」
「――」
それはさっきも教えられた当たり前の事だった。
改めて突きつけられた事で、グレイシャが何を言いたいかをミスティは理解してしまう。
「お母様を見捨てれば、普通にあなたを助けられるのよ。いくら私やあなたに才能が劣ってるからってお父様はカエシウス家の当主……血統魔法が私に通じないからって戦力としては極上よ。紅葉には血統魔法が通用するわけだし、あなた一人で戦わせるよりは遥かにこの場を切り抜けられる可能性があるわ」
言わないでくれと願ったのはミスティだけではない。氷像の裏にいたノルドもまた同じだった。
「それなのに何で、自分は無力ですと言わんばかりに手を出してこないのかしらね? 貴族の誇りというものが本当にあるのなら、お母様を切り捨ててでも、私を倒すべきだと思わない? 家族としてあなたが愛おしいのなら、今ここで私を攻撃すべきだと思わない?」
相手は異界の生命と一体化した一流の魔法使い。そのグレイシャから視線を背けていいはずがない。
そうわかっているはずなのに、ミスティの顔はゆっくりと、ノルドのほうに向いた。
「簡単よ。家族と呼ぶにはあなたは遠すぎる……お母様とあなたを天秤にかけた時、迷わずにお母様を選ぶくらいにはね」
「……っ!」
「お父様も私と同じよ。自分達から生まれた類い稀なる才能……先に生まれた私はおろかお父様もお母様も軽々と飛び越して、やがて届かなくなるほどの。そんなあなたを、カエシウス家にしては大したこと無い、才能が劣る、なんて言われ続けていたお父様が真っ当に愛せたと思う?
お母様とあなたを並べて、貴族の誇りとやらに従って国の為に、そしてあなたを本当に愛しているのならお母様を切り捨てるべきなのに……それでもあなたは選ばれなかった。お父様は、お母様の無事を選んだ」
ぱくぱくと声を出そうとするノルド。
しかし、違うと言えなかった。どの言葉が紅葉のかけた呪法に引っかかるのかノルドにはわからない。妻の命を繋ぎ止める為に、迂闊にグレイシャと紅葉の声を否定する事も叶わない。
自分達に逆らったら自分にかけたれた呪法は発動するとノルドは言われた。では……一体どこまでが逆らった事になるのか?
これもまた紅葉の呪い。こうしたら発動すると一見知らされているように見えて、その実全く目に見えない曖昧な境界線。
アスタはここから追い出して、ノルドはこの会場に残した理由。
ノルドの躊躇いと戦闘に参加しない理由は呪法の脅迫によるものではある。しかし聞いている他者の目にそう映るはずが無い。事実として、ノルドはこの場で一回もミスティを助けようとしていないのだから。
「お父……様……」
グレイシャの言葉を否定しない。それが、今心の弱っているミスティにとってどれだけの絶望だっただろうか。
たった一言、そんなことは無いと言ってくれたのなら……そのたった一言が今のミスティを支える言葉になったかもしれないのに。
脅されているからだと否定しようにも、無言と状況がミスティに否定させてくれない。
自分はきっと優先されなかった。選ばれなかった。そんな実感がミスティの体に這い上がる。
父親の一言すら貰えないのはグレイシャの言うように、自分だけが家族から遠かったからではないか。姉を理解できなかったという前例が、他の家族の心も理解できていなかったのだとミスティに錯覚させる。
その錯覚はミスティの心を切り崩すには充分だった。
敵の魔法使いの前でも、巨大な魔法生命の前でも揺るがなかった精神は家族という方向から崩されて、いとも簡単に瓦解していく。
カエシウス家の後継者。マナリルに生まれた天才。貴族の鑑。
そんな周囲に貼り付けられた人物像の中身は、当主になる事に、一人になる事に不安を覚える……ただの、十六歳の女の子。
「ああ、でも……お父様を責めないであげなさい? だってそれは自分の在り方に従っているという事だもの。お父様は貴族の責務よりも、そしてあなたよりも……お母様を愛する自分を選んだだけよ」
一人ぼっちで雪原を歩く女の姿をミスティは幻視する。
それは十歳の頃から恐くてたまらなかった、自分で生み出した未来の自分の想像図。
「ただ、それだけよ」
今の自分は夢に見たその姿のままだった。
ミスティは悟る。
家族にすら助けてもらえない自分を助けてくれる人など――この世にはいない。
子供の頃に抱いた恐怖と願い。願いだけが氷の中にに呑まれていって、ミスティの頬を冷たく、静かに涙が流れていく。
「『堕ちた氷姫の咆哮』」
話はここまでと、グレイシャはミスティを見下した目で魔法を唱えた。
グレイシャを中心に氷が舞い、やがてその氷は真っ白な風となって広がっていき、舞踏会場全てを包むような規模で吹雪は如く吹き荒れる。会場が血統魔法によって氷漬けになっていなければこの会場にある全てを破壊尽くしたであろう。
氷の刃によって吹き荒れ、天候を再現する。グレイシャが唱えたのは自身が得意とする水属性の上位魔法。その"現実への影響力"は下手な貴族の血統魔法を上回るほどの殺傷力を持っている。
「ほ、"放出領域固定"!」
放たれた魔法の危険性にミスティの意識が呼び戻される。
心の折れた体を、口を無理矢理動かしてグレイシャの魔法を止める為、カエシウス家の血統魔法で迎え撃つ。
「■■■■!」
確かに唱えた血統魔法の魔法名。
だが、それを唱えた所で周囲には何の変化も起こらなかった。
その声はたった一人、ミスティの声しか無くて。積み重なった歴史の声など、どこにもない。
「ニブルヘイム!」
もう一度唱えても結果は変わらなかった。自分だけの声が虚しく迫りくる吹雪にかき消されていく。
「なん……で……」
何度やっても魔力が動かない。ミスティの内に在るはずの魔力が。
生命に宿る魔力はその意思によって流動する。ミスティが望めば体の内にある魔力はミスティの意思によって動く。そのはずなのに。
まるで魔力までもが氷漬けになったかのような。自分の中にある魔力の動きをミスティは全く感じることが出来なかった。
「あ……ああ……」
かろうじて今まで体を支えていた足からついにその力が抜ける。
グレイシャの魔法はそんな膝をついて無抵抗となったミスティに襲い掛かった。ミスティの纏っていた水晶の鎧は砕かれ、ミスティの体はグレイシャの魔法に呑まれていく。
「ああ、私の可愛い可愛い妹……ようやく、あなたに私の手が届く」
自らの血で飾られたグレイシャの笑顔。
ミスティが自分の魔法に呑まれる姿をグレイシャはじっと見つめていた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
昨日は体調不良で更新できず……ここからは何とか第三部のラストまで突っ走りたいですね……