191.初雪のフォークロア2
「あなたに、何がわかるのですか」
苦し紛れにミスティの口から出てきた言葉はそんなありふれたものだった。
そんな言葉を吐き出した所で心のざらつきは収まらない。きっかけを与えたのは紅葉の言葉ではあるが、そのざらつきを許容しているのは他でもない自分と自分の記憶だった。
『そうね、私にはわからないかもしれないわ』
理解などする気もないと、紅葉はその言葉すら受け止めずに突き放す。
具体的な事を何も言わずにお前は駄目だと言うだけ言って放置する……出来の悪い指導者が無意識にやっているような事を紅葉は意図的に行う。それが最も単純にして効果的な呪いであると人間社会に生きた鬼は知っているから。
存在の否定。それは原初の呪い。誰でも出来る最も簡単な呪詛。
好きじゃない、や、嫌い、であればそれはただの個人の感想だろう。それはどんな形であっても本人が感じたかけがえの無い感性だ。
だが、駄目。出来てない。相応しくない。間違ってる。一見物事を理解していそうなこれらの言葉を相手に投げかける際には本来、何が駄目なのか、何が出来ていないのか、と、知識や経験、立場や人格など何かに伴った具体的な内容があって初めて意味を持つようになる。内容の欠けている否定の言葉はただの戯言と切り捨てられるべきものであり、そうするべきだとわかっている人間も大勢いて、そんな心無い戯言を捨てられる人間は多くいる。
しかし、必ずしもそういった受け止め方をできる者ばかりではない。誰かが戯言だと切り捨てる言葉を重く受け止め、縛られてしまう者がいる。
例えば、自分の音楽に悩みを持つ高名な演奏者がいたとしよう。道端で演奏している彼の前に道行く人々は立ち止まり、その演奏に拍手と喝采を送る。演奏者の目の前には小さなホールを埋められるほどの通行人が立ち止まっていて、彼らの存在は間違いなく演奏の価値を示してくれている。
その中で一人だけ。たった一人だけ。
「全然駄目だな」
たまたま通りかかったのは音楽などに触れたこともない、詳しく聞かれればどう駄目だと思ったのかを言う事も出来ない見知らぬ誰か。そんな誰かが演奏者にそんな心無い言葉を投げかけた。大勢の拍手を受けている演奏者に嫉妬したとか、もしかすれば、通りがかった演奏をうるさいと思ったとかそんな理由で。
周囲の通行人はこいつは何を言っているんだと思う。こんなに素晴らしい演奏をわからない者がいるのかと蔑む者もいるかもしれない。その言葉には何の重みも無く、ただの戯言だと無視して演奏者に向かって拍手を送り続けるだろう。
だが、一人だけ、そう思わない者がいるとしたら。
それは悩みを持つ演奏者。やはり自分の演奏は駄目なのかだと。芸術に値しないものなのだと。大勢の拍手よりもたった一つの声に引き攣った笑いを浮かべてしまったとすれば、果たしてそれは戯言ですむだろうか。
戯言が戯言で無くなる瞬間。それは本人が抱える苦悩にそんな戯言が乗せられた時。苦悩と向き合っていたはずの視界に、誰かの投げた言葉が映ってしまったその瞬間に、苦悩は変質する。
この変質こそが、最も簡単な呪い。
他人の苦悩の力を借りて、ただの言葉があたかも呪文のように他人を蝕んでいく。
難しい事など一つもなく、呪いという言葉が生まれる前から、人は言葉一つで誰かを呪うことが出来るのだと、人間は無意識に知っている。
無意識だからこそ、知らずにやってしまう者も当然いる。そんな言葉をつい口にしてしまう者もいる。ただの悪口でそんな気は無い者だっているに違いない。そういった者にはまだ救いがある。
……だが、もし呪いだと自覚しているとすれば、その者は鬼や悪魔と呼ぶべき邪悪だろう。呪いだと自覚して振り撒く言葉は最早戯言や悪口などではなく、周囲にとっても正真正銘の呪いとなるのだから。
『私にはわからなくても、自分自身でわかっているんじゃないかしら』
そして、それを自覚して行う者がここにいる。
芸術を理解し、自分の言い寄る男を利用して人間社会に溶け込んだ人ならざる者。
時には都で皇族の正室を呪って迫害され、時には傷ついた人を癒して慕われた――人という生き物にずっと触れてきた本物の鬼女。
故郷の国にあった呪術という術を使わずとも、彼女は人間の呪い方を知っている。
またも、その口から出る無責任な言葉はミスティの心を蝕む。紅葉が見たのは血統魔法の効果の違いだけ。血統魔法を操るミスティの奥底にある何かを垣間見たわけでもない。
ミスティ自身の苦悩が徐々に紅葉の意味の持たない呪いによって重く苦しく変えられていく。
さらには――
「あなたは本当に、ずっと一人ね」
「お姉……様……!」
身近な者の言葉によってその苦悩は更に浮彫にされていく。
聞き間違えるはずの無いグレイシャの声にミスティの表情は目に見えて変化した。紅葉の言葉を黒く彩るようにその声はグレイシャのものへと切り替わっていた。
例え鬼の証である二本の角があったとしても、その姿はグレイシャだ。例え紅葉と一体化して細部が変化したとしても、ミスティにとってはどうしようもなく姉の声と姿なのだ。
同じ血統魔法を使う姉の声は釘のようにミスティに打ち付けられていく。
「あなたは私達を見ようとしていない」
「え……?」
グレイシャの声は、妙に優しかった。
こうして敵対しているのが不思議なほどに、その声は昨日までの姉の声。
「何が地面に転がっているのか、見ようとしない」
子供の頃から聞いていた、好きだった姉のままの声にミスティの戦意が削がれていく。
「だから、たった一人で星のように輝いている。ずっと、ずっと、あなたはそういう生き方をしていくのでしょう」
「お姉――」
「そんなあなたが、私はずっと憎かった」
呼び掛けようとした声は遮られる。
優しい姉の声のまま、グレイシャはミスティに憎悪を向ける。
「見ようとしない、振り返ろうとしない。ただ真っ直ぐに進んでいくあなた……私の人生を軽々と飛び越えながら、飛び越えたものが何なのかすらわかっていない」
「何……を……」
「私が姉に見えた? 家族に見えた? あなたにとって私はずっと姉だった?」
答える事が出来なかった。記憶にいるグレイシャはずっと自分にとっては姉だった。
自分には勿体ないとても優しい姉。数日前に髪を梳かしてもらった時だってそうだ。髪に触れる指は撫でるように優しくて、話す声は心地よくて、鏡に映る姉の姿は自慢だった。たった一つ、最後に吐いた弱音でさえも信頼の証だとすら思っていた。
「ふざけるな」
紅葉と一体化して伸びた爪を、グレイシャは自分の手に突き刺す。
声にあったのは怒りだった。
「私はあなたの姉じゃない」
もうその声には優しさなど無く。
「私は私が生まれた時、私はたった一人の、グレイシャ・トランス・カエシウスという人間だった。あなたの姉なんかじゃあない。私の名前に……あなたの光など浴びさせてなるものか……!」
拒絶のみが残されていて。
繰り返し繰り返し、グレイシャは爪で自分の体を傷つけていく。
「あなたにわかる? あなたの姉と呼ばれる私の苦しみが。名前すら呼ばれない、流石はあなたの姉だと言われ続ける苦しみが。いつからか……どれだけ研鑽しても最後に言われるのはそんな、私の名前の無い私への賞賛だった。ええ、だって私の名前なんか見えるわけがない。だってあなたはずっと、私の上で輝いていたから。あなたの光がずっと、私を照らしていたから。眩しくて、眩しくて……ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっと――あなたの光が私を隠していた!!」
肉を抉る音と共に爪がグレイシャの手をえぐっていく。
やがて噴き出した血は飛び散って、氷の世界を紅く彩る。グレイシャ本人でさえも。
絶叫しながら血塗れの手でグレイシャは顔を覆った。
白い肌に施される血化粧が涙のようにグレイシャを飾る。
「それでいて、あなた自身も見ようとしない。自分の下にいる人を。自分の光に照らされる私達を。だから姉を演じている私に気付かずに、私の演じた虚像だけを愛して……それで私を理解したような気でいたのでしょう。私の事を優しい姉だとでも本気で思っていたのかしら?
あなたがいるだけで私は苦しい。私の人生を穢すあなたが憎くてたまらない。何より、私に憎まれている事にも気付かずに、私を姉として愛そうとしてるあなたが許せなかった。髪を梳く後ろで何度あなたの首を折りたいと思ったか。一緒に入った湯舟で何度湯に沈めてやろうと思ったか。あなたが私を姉と呼ぶ度、私はあなたを壊したかったのに」
苦悩を浮き彫りにされて、幸いだと思っていたはずの記憶の裏を垣間見せられて、ミスティの心が軋んでいく。
幸せだったはずの姉との記憶が本人の言葉によって穢されていく。穢された記憶はゆっくりと崩れ落ちて、やがて空洞に変わるような感覚がミスティを襲った。
自分の中に在る記憶は一人になった自分を支えてくれるものだと思っていたのに。
「でも、壊した所で変わらない。壊した所で私の世界は穢されたまま……だから、落とす。私の上で煌々と輝くあなたを落としてみせる。正面からあなたという存在を輝きを奪って捻じ伏せる。
あなたの名前をこの世から消し去れば、私は私の在りたい私で在れる。私はこの地に王として君臨し、あなたの名前を消去する――そして今度こそ私の名前を私のまま、この世界の歴史に刻んで見せる――!
あなたなんかに、グレイシャ・トランス・カエシウスは殺させない!!」
ミスティは思わず自分の肩を抱く。
どんどんと、自分の体が寒くなっていくような気がした。
いつも読んでくださってありがとうございます。
展開上暗いです。