幕間 -落星-
星を落としたい。
数か月前に初めて会った時、姫様はそう言った。
「はあ?」
と俺は返した。ふざけてるのかと思ったからだ。誰だってそう思うだろ?
数か月前にカンパトーレのとある場所で俺は雇い主であるグレイシャ・トランス・カエシウスと出会った。傍らには紅葉っていう鬼さんがいて、俺を見定めているようだった。
そんな状態で俺は遠慮なく言っちまったわけだ。雇い主になるかもしれない相手だ、俺だって最初は相応の態度はとるんだが……でもあれは我慢ができなかった。
でも、姫様は俺に苛立つ様子も無かった。ただただ姫様の目は真剣で、傍らにいたあの鬼さんの驚きすらも今や懐かしい。
何か言いたそうな鬼さんを遮って、姫様はそのまま続けた。
「ファルバス・マーグートでよかったかしら?」
「お、おう……」
「一応言っておくけれど」
姫様は夜空を指差した。
魔法の届かぬ天の海には月と星が煌々と輝いている。
「あれを落とそうってわけじゃないわ」
「あ、ああ、そうだよな……」
「まぁ、落とせるなら落としてみたいとは思うけど」
本気なのか冗談なのか。姫様が見せたのはどちらとも判断がつかない笑いだった。
「星っていうのは、あの子の事」
「あの子……?」
「ええ、私の妹の事」
姫様の妹ミスティ・トランス・カエシウス。
姿はともかく、ここカンパトーレの貴族でその名前を知らない者はいないだろう。姫様の名前ですらカンパトーレ中の貴族は震え上がったってのに、その姫様すら超える魔法使いの逸材。十歳でカンパトーレの悪夢を継いだと言われる天才の名前だった。
「妹が星?」
なんだか、家族に使うには寂しい例えな気がした。
姫様は俺の質問を聞きながら空に手を伸ばす。
「ええ。そこにあるのに決して届かない光。暗い海に灯る天の輝き。私にとっては、近いようで遠すぎる」
「そいつを落とすって事は……なんだ? 殺すって意味かよ?」
「最終的にはそうなるでしょうね」
「?」
よく意味がわからなかった。だからわかりそうな質問をした。
「殺すって事はなんだ……仲わりいのか?」
「まさか」
ぎゅっ、と姫様は伸ばした手を掴んだ。
その手の中は当然空っぽで、掴んだ手を開いた姫様は本気で残念がっているみたいだった。
「あの子は私の事を慕ってくれているわ。たまに帰れば駆け寄ってきて、いつまでいられるのですか、と笑顔で迎えてくれる。頭を撫でてやれればいつまでも嬉しそうに頭を差し出してくれて、一緒にお風呂に入れば私を綺麗綺麗って本気で褒めてくれるし、互いの髪を梳かせば鏡に映る私を見て羨ましそうに、どうすればお姉様みたいな女性になれるのか、って聞いてくるの。
たまに、今日は一緒に寝る? って聞くととっても可愛くてね、一瞬嬉しそうな顔をするんだけど、子供っぽく思われたくないのか名残惜しそうに断るの。
流石に今はもう落ち着いていて、ここまで可愛い反応は見せてくれないけれど……それでもあの子の私を見る目はずっと変わらないわ。あの子は私にずっと憧れていてくれる」
自慢のように、姫様の口からは妹との仲睦まじいエピソードが語られた。
だからこそ謎だった。
「そんな妹がいるのに、あんたその故郷乗っ取ろうとしてんのか?」
雇い主である姫様の目的はすでに聞いている。
マナリルの貴族達を人質に取り、かつてラフマーヌという国であった北部を独立させる事。そして、姫様がそこの王様として君臨する事。
カンパトーレ側は当然そんな要求が通らない事くらいはわかってる。それでもカエシウス家の脅威を封じられるだけでも十分すぎるし、何よりカエシウス家の一人がカエシウス家を潰そうと企てているなんて誰も思いはしねえだろう。数年前、カンパトーレに辿り着いた魔法生命達の一つ。あの鬼さんも協力するとなれば、カンパトーレとしては動かないわけにもいかない。カンパトーレは魔法生命の動きをサポートしてマナリルを崩すという方針がすでに固まってる。
雇われるのは別にいい。金になるし大歓迎だ。気になるのは、聞いていた目的より先に、妹の話を出して来た事だった。
疑うのは当然。なんせ姫様はマナリルから来たカエシウス家の長女。
本当は雇ったカンパトーレの魔法使いをマナリルに連れていって尋問でもさせるんじゃねえかって思った。鬼さんと一緒にいるのも魔法生命の脅威をマナリルに伝える為で、カエシウス家だから出来る単身での潜入任務を淡々とこなしてるんじゃねえかって。
「そんな妹がいるから、よ」
そんな疑う俺の質問に姫様は普通に答えた。
「あの子はずっと、私の中で輝いてる。眩しくて眩しくて眩しくて眩しくて……目を瞑ってもずっとそこにいる。その光は私が掴むこともできなくて、遠い場所からただ私を鬱陶しく照らすだけ」
一緒に聞いてた傍らの鬼さんも不思議そうだった。
もしかしたらこの二人、結果的に目的が一致してるだけなんじゃねえか? ってその時思ったのを覚えてる。
「最初に言ったでしょう? 星を落としたいって」
「ああ、言ったけどよ……」
「壊したいんじゃなくて、落としたいのよ」
この時点でもう俺は姫様を疑わなくなっていたんだと思う。
「星を落とすってどういう事だと思う?」
「あん? えっと……」
姫様の視線は、ずっと夜空に向けられていた。
「空も、輝きも、最後にはその在り方も壊して惨たらしく、そして落ちてきた星をただの石ころのように見下ろして、それが星なんだと誰にもわからないようになって……初めて、星を落としたと言えるんじゃないかしら?
ただ壊すだけなら簡単かもしれないわ。でもそうなったら……多分あの子は一生私の手では届かないものとして輝き続けてしまう。もう見る事も触る事もできない星をずっと思い出しながら、私は生きていかなければいけなくなる」
そんなのは私じゃない。
姫様は小さくそう呟いた。
「だから、私は今度こそ手を伸ばす」
そう言って夜空を見上げている姫様の瞳には、視線の先の夜空が映っていないように見えた。
「私が私として生きる為に、私はあの子の生まれた場所に古き王国を再建する。マナリルという国を消し、歴史の中にすらあの子の存在を残さぬ為に。
あの国が在るだけで私はずっと悲しいまま、あの子がいるだけで私はずっと苦しいまま。例え笑われようとも、それが私が私らしく在る為の命題。
どんな手を使ってでも――私はあの子という光を閉ざす。この手でその光を握り潰して見せる」
いかれてる。そう思った。
姫様はたった一人。妹の存在を消す為だけに国を潰すと言っている。
この場所からも、歴史からも、ただ妹がそこに在る事が許せない。その為だけで昔の国を再建して、マナリルっていう国を無くそうとしている。
何故そう思ったのかは会ったばかりの俺にはわからない。けど、その考え方を俺は否定できなかった。
人が何かを信じた時、その信じたものには信じた人間にしかわからない価値が生まれる。
これが俺の持つ唯一の芯だった。俺はずっと信じるというのはそういう事だと思っている。だが、それは必ずいい方向に働くとは限らない。
きっと姫様は、妹にその価値を見過ぎてしまったのだ。その妹が自分の生きる上で最も大きな障害であるのだと、信じ過ぎちまったんじゃないかと俺は思う。手を伸ばしても絶対に届かない――星だと思うほどに。
「馬鹿げた話だと思うのでしょう? 当然断ってくれて構わないわ」
「お、おう……」
余りに唐突に話は現実的な話に戻ってきた。
あの時の俺はあまりにいかれた話を聞かされて忘れていたが、あの場は元々雇う雇わないの話をする場だった。
「なあ、あんたいつからこんな事考えてたんだ?」
まだ雇われるかどうかを決めかねていた俺は妙に気になってそう聞いた。
姫様はその質問が意外だったのか、一瞬ぽかんとした表情を浮かべると夜空を見上げながら首を傾げた。
「さあ? いつからだったかしら……もう覚えていないわ」
思い出そうとするかのように、姫様はもう一度夜空に手を伸ばした。
その姿は、手を伸ばしていればいつか空に届くんじゃないかと思い込んでる子供のようで。ずっと手を伸ばし続けている。
「いつからだったかしら……いつからだったかしらね……」
ずっと思い出せずにぼやき続けるその姿は、姫様が本当にその為だけに生きてきたのだと証明するかのようだった。
「でもずっと――そうしたかった」
最後のその呟きに意味もわからず震えて、俺は姫様からの依頼を快諾した。
ただ一人を消す為に国を再建する――そんな馬鹿げた理想を持ったこの人がどうなるのかを傍で見たくて。
いつも読んでくださってありがとうございます。
恒例の一区切りの幕間になります。
次からいよいよ第三部のクライマックスに突入します。