188.暴力の問答
最も信じられるのは自分。
そう語るファルバスに相応しい魔法だった。
『悪いな……! もっと遊びたかったがよ……』
服を破いて膨れ上がる体。その皮膚は黒い毛に包まれ、ファルバスの姿は変質する。
頭部は犬型の魔獣のような骨格へと変わり、横に裂けた口からは並んだ牙が剥き出しに。手足にはおよそ人間らしさは消えて木の幹のように太く筋肉が盛り上がり、指の先には鋭い爪が生えていた。
その姿は人と獣が融合したような獣人。
ファルバスの体は倍ほどの大きさにまで膨れ、さっきまでの姿は見る影も無い。変わっていないのはルクスを見つめる銀色の瞳だけだった。
口から銀色の魔力を帯びた呼気が見えたかと思うと。
『門にいる旦那の援護にも行かなきゃいかねえんだ、何せ――』
「――!!」
剛腕となったファルバスの右腕が振るわれる。
ファルバスの変質に気を取られていたルクスが回避しようと思った時にはすでに、その右腕はルクスの体を捉えていた。
『旦那は戦闘要員じゃあねえからな』
ゴキゴキ! とルクスの体は鈍い音を立てながら後ろに勢いよく吹き飛ばされる。
纏っている強化など関係なく、右腕を振るって炸裂した衝撃がルクスを襲った。
先程までの格闘戦などお遊びであるかのような一撃。ファルバスの右腕は今、相手を殴り殺す為の武器と化している。
「ぐ、ぼっ……!」
獣化の類か、と口から血を吐きながらファルバスの血統魔法についてルクスは思考する。
変身と言ってもいい体の変化。常識外の膂力。ベースとなったのは何らかの伝説か。
何にせよその"現実への影響力"は人間の肉体を変化させるほどに高いという事。
『その強化も中々のもんだが……俺の血統魔法にゃ劣るよなあ!?』
(内臓を傷つけたな……! 骨もか……!)
体格が変わったからか、ファルバスは声まで変質している。
喉元に昇ってくる血を廊下に吐き捨てるルクス。そんなルクスに向かって床を踏み砕くような音を立てながらファルバスは突進する。体が膨れ上がったにも関わらずその速度は獣化する前と変わらない。牙と爪を突き出しながら向かってくるファルバスの姿を見れば全速力で走る馬車ですら矮小に見えるだろう。
「『氷柱断壁!』」
「なんだ!?」
『あん!?』
声とともに突如、廊下の横から現れる氷の壁。
ファルバスは構わずその氷壁に突撃する。
『おうら!!』
ファルバスの突進で氷壁は粉々に砕け散って魔力へと変わる。
その強度はファルバスの獣化の前には無力ではあったが、廊下を突進してきたファルバスの勢いを抑えた。
『姫様の弟かぁ……!』
「ひっ……! ひっ……!」
ファルバスの瞳がぎょろりと横を見ればそこはアスタの部屋。そこにあったはずの木製の扉は今の魔法を放出した時にすでに破壊されている。
風通しの良くなった部屋の中央では足をがくがくさせながら構えているアスタがいた。
手筈通りにと言われて待機していたアスタはついルクスを助けようと気付いたら横槍を入れていた。
『マリツィアから逃げ切ったんだなおめでとさん! あんたの相手も後でしてやるから待ってろよ!』
「か、かか、こい!」
獲物が増えたからか上機嫌になるファルバス。
アスタは恐怖からか回らない舌で何か言うも戦力差は歴然。体格差はざっと三倍ほどもあり、アスタの体に指でも弾けばそれだけで致命傷になりそうな差だ。いくらアスタがカエシウス家の血筋とはいえまだ未熟。血統魔法抜きではどうしようもない。
それでも、震える足は後ろに退こうとしなかった。
「『鳴神ノ爪』!」
アスタのほうに気をやった隙にルクスは魔法を唱える。
本来ならこちらも血統魔法で対抗したい所だが、ここは狭い。せめて舞踏会場ほどの大きさで無ければ【雷光の巨人】の力を振るうのは難しい。
「"疑似獣化"」
代わりに、血統魔法に次ぐ"現実への影響力"を持つ魔法を行使する。
「『招来・雷獣鳴神』!」
落雷のような轟音。
音を立てて壁と天井、そして床に雷属性の魔力が走る。
爪だけだった魔法はルクスの体を侵食していった。ルクスの体全体を雷の魔力が包みこみ、その魔法は完成に至る。
両手を前足に、足を後ろ足に。ファルバスの手足にある爪より太く、雷属性の魔力はその四足に獣の爪をもたらす。
敵の喉元に向けられた牙。稲光のような唸り声。魔力が象るは黄金の獣。
月明かりよりも明るく輝き、敵の姿をその目に捉える。
『あんだ……? そりゃあ……』
ファルバスはその姿を見て息を呑んだ。
「がああああ!!」
ファルバスが見たのは血走るルクスの瞳。廊下の空気を裂くようにルクスの体が弾ける。
『ま……じか……!』
爪と爪が交差した。
たった今軽く吹っ飛ばしたはずの敵が恐れる事無く、しかも対等に戦えるだけの力を持って向かってくることにファルバスは驚愕と歓喜の混じった声を漏らす。
先程までの格闘戦は今の状態に比べれば子供の戯れ。互いの一撃一撃が壁か床を削り取っていた。
美しい調度品は見る影も無く、ラフマーヌに伝わる伝統的な装飾も理不尽な暴力によって破壊されていく。
拮抗していた。
ルクスの唱えた魔法は急速に魔力を食らいながらもファルバスの血統魔法に引けを取らない。
『はははは! やっぱすげえよ魔法ってのはよ!』
ファルバスはルクスの爪を防ぎながら笑う。
『やっぱりあんたは姫様のとこには行かせらんねえなあ!!』
「姫様とはグレイシャの事か!」
『そうさ! この地の新しい王! 歴史に消えた古き国ラフマーヌの長となる女! 俺らの雇い主はそんな子供染みた幻想を自分は作れると信じてる!』
さしものルクスもグレイシャの目的を聞いて一瞬唖然とする。
だが、すぐにその雷の爪を振るい、その一撃の余波はカーペットを黒く焦がす。
「まさか……! そんな馬鹿げた事で……!」
ルクスの内に湧き上がる怒り。呼応するように雷獣の形をした魔力は呼応する。
雷鳴のような咆哮は衝撃となってファルバスに向かうも、ファルバスの体はその衝撃ではびくともしない。
その体は信仰属性の魔力によって固く、そして自己治癒すら早い。ただの獣化と違って半身を人とする事で"現実への影響力"によって精神が引っ張られる現象もある程度抑えられている。
『馬鹿だと笑うか!? なあ! ルクス・オルリック!』
「当然だ……! そんなくだらない理由で僕の父上まで……!」
『くだらないと吐き捨てるんかよ! くだらねえ妄想や精神は現実に具現化する! 俺達はそれを一番知ってる生き物だろうが! 魔法使いっていうよ!』
声とともに暴力が吹き荒れる。
ファルバスの爪とルクスの牙はぶつかり合い、弾いたその勢いのままファルバスはルクスを蹴り上げた。
天井に叩きつけられ、ルクスはそのまま落ちてくる。
「ぐ……ガ……!」
ファルバスの言う通り。自分を疑わない事……それは魔法という固有の現象を現実に引き起こす魔法使いにとって最も重要な精神の在り方。
魔法使いが作り合げたものは魔力という燃料を持って現実に現れる。
幻を現実に。それは確かに古代からある魔法の基本理念でもあった。彼の語る信仰は魔法の基本の形に似たところはある。
だからといって……彼らの行いを正しいとルクスが受け入れられるはずもない。
「そんな絵空事に……人の命を巻き込むなと言ってるんだ!!」
着地したルクスをファルバスは木の幹のような足で踏みつけようとするも、ルクスは着地した瞬間に横に跳ぶ。敷かれているカーペットはとっくにぐちゃぐちゃのぼろ切れに変わっており、その下にある床がガゴン、と大きな音を立てて砕けていた。
『大人がかたりゃあ馬鹿馬鹿しいか!? 子供が見れば微笑ましいか!? 俺達がどう思おうが本人にとっては確固たる信仰だ! 信仰ってのはそういうもんだ! 夢を見るってのはそういうことだ! 追いかけている本人だけに正しい価値がある! その価値が他人の命を上回っててもおかしくねえだろうがよ!!』
「君もそう思うかファルバス!」
『ああ、おかしくないね!! 理想より命が大切!? そんなのはただ恵まれたその他大勢が持ってるだけの考え方だ! 大勢が抱く偏見を普遍的な理だと勘違いでもしてんのかおい!?』
銀色の瞳が攻撃から逃れた敵を見据える。
ファルバスは獣の口でもわかる笑みを浮かべながら吠えた。
『届かないものに手を伸ばす事を馬鹿だと笑うか!? ええ!?』
膨れ上がった左腕を技術も何も無くファルバスは振るう。
ルクスは距離を取るように飛んで逃げた。先程ファルバスが通せん坊していた方向だが、ファルバスを無視して階段のほうに向かおうなどとは欠片も思っていない。
「――!!」
ファルバスの一撃でアスタの部屋の壁は音を立てて薙ぎ払われ、先程ルクスの魔法で空いた穴ごと砕けて廊下から露となった。部屋の中に飛んできた瓦礫を悲鳴を上げないように口をおさえながらアスタはかわす。
「なら……君達お仲間もその届かないものとやらに魅せられたのか?」
かわした廊下の先でルクスは静かに問う。
愚問とばかりにファルバスは鼻で笑った。
『俺はその口だ! ああ、まぁ、旦那は知らねえけどな。あの人にゃあの人の美学がある。だが、俺らは二人とも形は違えど雇ってくれた姫様を気に入ってる。あの人は馬鹿みたいに正直だ』
「……そうか」
ファルバスがこぼした雇い主への感情。それもくだらないと評するかとファルバスはルクスの表情を窺う。
しかし――ルクスの表情はファルバスの思っていたものとは違うものだった。
「思った以上に、仲間は少ないみたいだね」
ルクスは安心したように笑う。
何に対しての安心か、ファルバスには理解できない。
『あん!?』
「君を倒せば……とりあえず障害は消えるわけだ」
今のルクスの問いに敵側の思いを理解しようなどという感情は含まれていなかった。
自分のやるべきは冷静に情報を引き出し、把握する事。これからの出来事を迷わない為に。迷わせない為に。
もう一人は恐らくエルミラ達が戦っているはず。彼女達ならもう一人を倒してくれるだろう。ならば自分の役割はこいつを倒す事だとルクスは明確に見定める。
『なんだ? あんた姫様まで倒す気か!? 俺相手にそんだけ消耗しといてできるわきゃねえだろ!!』
「ああ、僕には出来ないだろうね……だが、気を付けろ、ファルバス・マーグート。僕のすぐ後ろには、僕を倒した魔法使いが控えているぞ!」
『そうかい!』
はったりだとファルバスは笑う。
どれだけ問答を重ねてもファルバスのやる事は変わらない。目の前にいる雇い主の邪魔者を消す。それこそが戦闘要員としてグレイシャに雇われたファルバスの役目。
そして何より――目の前の人間はグレイシャの理解者にはなり得ない。その事実だけでも振るう腕に力が入る。
役割を見定めたのはファルバスもまた同じ。目の前の敵を気持ちよく殺す理由がファルバスの中で芽生える。
カンパトーレの傭兵として、そして何より珍しく気に入った雇い主の為にとファルバスは鋭い爪を持った五指を向ける。
『あ?』
ファルバスの感情の勢いに水を差すかのように、パリーン、とこの場の緊張感からすれば相応しくない小さな音が廊下に響いた。
ルクスが右腕を小さく振るい、その爪から流れた雷の魔力が窓を小さく割った音だった。
理由はわからない。わかるのはその行動はこの場においてあまりに無意味という事。
『なんだそ――』
ファルバスがその無意味な行動を鼻で笑ったその瞬間、今度はファルバスの後方からガラスが砕け散る音がした。今ルクスが窓を割った音とは違う。備え付けられている窓全て叩き割るような激しい音。
音に反応し、ファルバスは咄嗟に首だけ振り向く。
その視線の先には窓から廊下に侵入する五つの影。その影の内四つがファルバスの背中に向けて牙を剥いていた。
窓を突き破ってきたのは四匹の白い魔獣エリテュマとネロエラ・タンズーク。
ルクスが窓を割った意味をファルバスは理解する。それはこいつらに向けての合図だったのだと。
「喰い殺せええええええ!!」
ずっと、ずっと隠してきた、平時でも獣のような鋭い牙。
それを今隠す事無く、ありったけの声でネロエラは敵意を吠える。