176.放埓のマレフィキウム3
「ひっ……! ひっ……!」
強化で水を纏った体でスノラの町を駆ける。
肩越しに背後を見れば生気を失った二人の貴族。強化をかけたアスタから引き離される事無く追いかけてきている。
しかし、その追いかけ方は尋常ではない。最短距離で追い掛ける為か、ドースの体のほうは時折壁に体をこすりつけながら追いかけてきていたり、進行方向に人がいても決してよけようとはしない。片やコリンの体のほうは人間のする挙動とは思えない跳び方で屋根の上を跳んでいる、共通するのは虚ろな目がアスタを見つめている事だった。
「なんだよぅ……! なんなんだよぅ……!」
溜まる涙を拭いながらアスタは走る。スピードを緩めればそれだけ追い付かれるだろう。
それに、先程のマリツィアという女の姿が肩越しに見えないのがまた不穏だった。足を止めれば急に顔を出してくるような不気味さが彼女にはある。それこそ 亡霊のように。
「……『光の尖刃』」
コリンの体が初めて静かに声を発する。
それは魔法名。
光の刃が走るアスタ目掛けて放たれる。
「うあああ!」
アスタは強化で纏った水を操り、光の刃に水をぶつける。
水をぶつける事で自分に向かって放たれた光の刃は霧散したが、纏った水が無くなった事でアスタのスピードが落ちる。
「し、しまった……!」
「『蛇火鞭』」
水が消えた瞬間を狙い、ドースの体の方が魔法を唱える。
その属性は火。水属性を扱うアスタならば比較的苦にならない属性だ。
「れ、『抵抗』!」
しかし、アスタには戦闘の経験など無い。
教科書通り、相手が魔法を使えるとわかれば属性の特性を緩和する『抵抗』を先に唱えてしまう。ドースの体が使った魔法は下位の攻撃魔法とはいえ、よほどの魔法の速度に自信が無ければ攻撃魔法を唱え終わっている相手を前に悠長に唱えるような魔法ではない。
その攻撃魔法が当たってしまえば、属性の影響よりも遥かな痛手を負ってしまうのだから、魔法戦に慣れた者ならここは防御魔法で防ぐか、魔法の軌道を見切る事が出来ればかわしてから唱えるだろう。
「『水流の渦』!」
そんな後手にすら回れない戦闘経験の少なさをカエシウス家の才能で何とかカバーする。
がむしゃらに唱えた魔法は鞭のようにしなる火とアスタの間に放たれ、火属性の攻撃魔法を防ぐ。中位の水属性魔法で下位の火属性魔法を防ぐなど使用する魔力の量を考えれば無駄にも程があるが、アスタに今そんな事を考えている余裕はない。
「はっ……! はっ……! で、できた……!」
アスタは姉のミスティとグレイシャに比べるとまだ十歳という年齢のせいもあって劣る。それでも"変換"の精度は同じ年齢の者達と比べればずば抜けていた。
補佐貴族とはいえコリンとドースはベラルタ魔法学院に入った魔法使いの卵。その二人の体が使う魔法と比べれば"現実への影響力"こそ劣るものの、がむしゃらに唱えても魔法として成り立つほどにアスタは魔法の基礎が出来上がっている。
「きゃあ!」
「な、なんだ?」
走っている中、聞こえるのはスノラに住む平民達の声。
スノラは発展しているゆえに、夜でもそこらで明かりが灯っている事で夜間でも人が多い。アスタが走る場所は人通りの少ないほうだが、それでも舞い散る雪を払う三つの影はどうしても目立ってしまう。
「逃げなきゃ……! 外に……!」
助けを呼ぶという目的はすでにアスタの頭から抜け落ちていた。
まだ十歳とはいえ、アスタは自分が貴族であるという事をわかっている。唐突に訪れた初めての魔法戦に混乱しながらも、自然とその足は敵を町の外に連れ出す為に城壁のほうに向かっていた
「駄目だ……みんなを傷つけるような場所にいちゃあ……! こんな不気味な奴と戦ったらみんながこわがってしまう……!」
「流石はカエシウス家の御方ですね」
「!!」
平民達の驚く声に混じって、あの女の声が聞こえる。
「その歳で貴族としての自覚あるお姿……このマリツィア感服いたしました」
「『強化』!」
苦し紛れの強化魔法をかけ、恐怖で涙を目尻に溜めながらアスタは首を回して周囲を探す。
追ってくるコリンとドースの体だけはすぐに見えた。
「でも不気味だなんて……古来より、人の死体が動き出すというのはよく紡がれるお話ではありませんか?」
「……あ」
声が前から聞こえてきている事に、アスタはようやく気が付いた。
声と共に、マリツィアはネタバラシでもしているかのように静かに跳んで宙を舞った。きっちりとした姿からは想像つかないほどに身軽で屋根や壁を自由に跳んで、走るアスタと付かず離れずの距離を保っている。
理由は見当つかないが、あちらも町の人間を巻き込む気が無いのだろう。殺す側と殺される側、マリツィアとアスタには明確な壁こそあるものの利害だけは一致していた。
何てことは無い。自分は今逃げられているのではなく、あの女に誘導されているだけなのだとアスタは悟る。
気付いた途端、逃げられないという絶望にアスタの心が折れかけた。
「でも……!」
それでも、耳に響く言葉が折れかけた心を繋ぎ止め、アスタの足を動かさせる。
足を止めるわけにはいかない。マリツィアは今住民を巻き込む気が無いだけという話だ。相手は死体を操って襲ってくるような魔法使い。これ幸いと自分が町に紛れた時、周囲の人間を襲い始めないという保証はない。例え人の目が無くなり、城壁の外に出たら殺される事になるとしても……アスタはその足を止めない。
「あぐ……ぐすっ……!」
例え、恐怖で涙が零れても。
足は止めない。止めてなるものか。
自分は劣っている。貴族としての地位、魔法使いになる為の環境、煌びやかな住居、何もかもを持っているにも関わらず全てが中途半端で何も持っていない。持っていないにも関わらず、部屋に作られた隠し通路からたまに逃げ出すような卑怯者だ。
それでも、この家名にだけは恥じぬように走る。
自分の足で立って行動しなさい、と最も尊敬する人に言われた。
次女でありながら、まだ十六歳でありながら、誰よりも貴族の理想を体現する二番目の姉。
ただ自分を逃がす為の言葉だったのかもしれない。それでも今日初めて、貴族としての在り方をその尊敬する姉に説かれたのだ。たった一言だったとしても、ずっと空洞に響いている。
この言葉にだけは応えなければいけない。自分が今行動できる最大限は貴族として、スノラの民を巻き込まない事。魔法使いと呼ぶには未熟すぎる自分にはそれしか思いつかない。
本当に小さな、コップから零れたしずくのような最低限のカエシウスの誇り。アスタはそれを守る為に、城壁を抜けて町の外へと飛び出した。
「アスタ様、追いかけっこは終わりでしょうか?」
「はぁ……! ぐ……ん……はぁ……!」
城壁を屋根伝いに飛び越えて、アスタはスノラの町を出た。
城壁の周囲には魔獣避けの松明が一定の間隔で置かれていてアスタとマリツィア、そしてドースとコリンの体を照らす。
アスタはすでに三つの影に囲まれていた。足を止めて、荒くなった呼吸をアスタは整える。走るのをやめた瞬間、自分の足が震えている事に気付いた。
「お、終わりだ……!」
ここには人などいない。スノラの門は閉じられ、憲兵も城門の中。
誰も見ていない。誰も助けにこない。
いるとすればスノラの周囲にいる無害な魔獣くらいなものだろうか。
「子供の頃に戻ったようで楽しい一時でございました。それでは私のコレクションになってくださるのですね」
「ま、町の人には……何もしないでくれますか……?」
我ながら情けないとアスタは思った。
敵の魔法使いに期待するようなか細い声は自分で聞いていても腹が立つ。
「勿論でございます。今私が欲しいのは契約に基づいたあなたの体だけでございます」
にっこりと笑うマリツィア。その笑顔は作りもののようだ。
「ほ、本当ですか?」
「はい、今回私はグレイシャ様との契約でここにいるに過ぎません。契約も終わった今、スノラに長居する理由はアスタ様の体だけでございます」
「じゃ、じゃあ……あげますので……ここから出て行ってください……」
逃げられないと悟った時、こうするしかアスタには思いつかなかった。
今頃グレイシャと戦っているであろうミスティにアスタは心の中で謝罪する。
助けを呼びに行けなかった事、未熟である事、こんな形でしか貰った言葉を果たせない事を。
「……アスタ様は町の方に慕われているのですか?」
「いいえ……自分はまだ、顔見せもしていませんから……誰も知らないですね……」
「それなのに、町に住む方々に手を出すなと仰るんですね。御立派です」
敵の魔法使いが吐くてきとうな言葉だとわかっても、欲しかった言葉だった。
「逃げた先は……いつもここだったから……」
アスタにしかわからない言葉だった。
息が詰まるような自分の部屋にある隠し通路。そこから行ける地下水路。そして鉄格子を外せばそこはスノラの町。
たまに逃げて。逃げ出して。
でも、遠くに行けるわけでも無く、逃げる先はやはり一つしか無かった。
「この町だったから……」
自分が逃げ出す先はいつも貴族として守るべき町。
個人としては何の接点も無く、誰一人自分の知り合いなどいない。それでも、自分は守るべき場所にアスタはずっと逃げていた。
「僕は……僕は貴族だから……! カエシウス家の人間だから……! そ、それだけは、し、死んでも……誇りたいから……!」
涙を流し、これから死ぬかもしれないという恐怖の中、アスタは胸を張る。
これからマリツィアがスノラに何もしないなんて保証はない。周りから見ればきっとこれはただの自己満足。
それでも逃げられない自分が出来る最低限の事は、スノラの民を巻き込まずに死ぬ事だと自分の弱さを受け入れた。
「お見事でございます」
マリツィアの声とともにコリンとドースの体が動く。
何をされるのかは全く想像はつかない。最終的に死ぬことだけは動く二つの死体から何となくわかっていた。
目の前に落ちる雪を最後に見つめて、アスタは諦めたように目を瞑る。
「『光芒魔砲』!」
「え……!」
「!!」
突如、闇を裂くように城壁の上から魔法が放たれた。
それは雪のように白い魔の光線。
降っている雪よりも早く、地上にいる一つの影に落とされる。
「あ……があ……!」
対抗する魔法を唱える余裕などあるはずもない。白い光線が呑み込んだのはドースの体だった。
魔法に呑み込まれたドースの体は糸が切れたように、白い光線によって抉れた地面に崩れ落ちる。
同時に、城壁から降り立った一つの影がこの場に増えた。
「追い掛けるのが楽だったよ。魔法をばんばん使ってくれたからな」
家以上に高く作られたアスタの氷の壁。闇を照らした光の刃。雪を裂く火の鞭。
そう、魔法を使ってスノラを駆けたアスタ達は目立っていた。スノラの住民が騒ぐほどに。
ならば――普段魔法に触れている人間が、その騒ぎを見過ごすはずがない。
「状況はよくわからんが……とりあえずアスタを囲むお前らは敵だよな?」
この場に降り立ったのはトランス城から門前払いされ、ただ一人町に下りていた招待客。
アスタが助けを求めようとしていたアルムが今ここに到着する。
ようやく主人公です。
舞踏会の時一切出してあげられなくてごめんね。