175.放埓のマレフィキウム2
いつも読んでくださってありがとうございます。
最近感想を多く頂けて嬉しいです。喜んで読ませて頂いてます。
「はっ……! はっ……!」
走る。走る。
アスタは走った。
舞踏会中は使用人も舞踏会場の壇上の横をいった部屋に集められていて、部屋にいた使用人は全員氷像になってしまっている。
城の外壁と会場から近い場所はほとんどが凍っていたが、城内には凍っていない場所もある。普段カエシウス家が生活している区域がそうだった。恐らく、人質となっている母親に直接手を下せるようにする為だろうという事はアスタにも予想がついた。呪法というのがどんな魔法かは知らなかったが、魔法以外にも人質として扱える選択肢を残す事にデメリットは無い。
アスタは母親の顔を一目見たいという衝動に駆られたが、そんな時間は無いと首をぶんぶんと横に振る。母親が眠る扉を未練がましく見つめながらアスタは自分の部屋に入って隠し通路に入った。
予想通り、隠し通路は凍っていない。普段抜け出すようにそっとではなく、出来得る限りの速度で暗い中を走っていく。
「はっ……! はっ……!」
舞踏会の間、緊張で話に入る事こそ無かったが、壇上でミスティとグレイシャが交わした会話の内容をアスタは覚えている。
"門前払いされたっていう平民かしら?"
グレイシャが言っていた門前払いされた平民。その人を自分は知っている。町に下りた時に姉ミスティの友人だと言った彼の事を。彼ならば、もしかしたら助けてくれるかもしれないとアスタは足を動かしていた。
城を、自分達を滅茶苦茶にした姉――今となっては姉と呼ぶのも憚られるが――の言葉を頼るのは癪だが、今は頼るしかない。
……自分が半人前だという事は分かっている。血統魔法は継げる気配も無く、学ぶ度に感じる姉二人の才能を理解し始めて。自分はきっとカエシウス家でありながら凡人の域を出ない。
だから、逃げた。
学ぶ度に感じる才能の差、カエシウス家の重圧、自分の限界、時にはただ学ぶのが嫌になった時だって。
この隠し通路は思考を止めて、全てから逃げられる自分だけのものだった。
今も……本性を現した姉から自分は逃げている。
「それでも……!」
それでも、今だけは違うとアスタは必死に足を動かした。
これは姉ミスティの言葉に動かされた足だ。ミスティは言った、自分の足で立って行動しろと。
それでも今自分は、ただ逃げる為だけに動いているわけじゃない。
自分がやるべき事、やらなければいけない事。それはあの場で玉砕する事でも、虐殺される事でもない。
ただ一人、自由に動けるカエシウス家の者として外に救援を求める事。
弱虫、腰抜け、言い訳、どんなに責め詰られたって構わない。自分の足で出来る事をアスタはすると決めた。弱虫のままでも、腰抜けのままでも、出来る事はある!
「くぬぬ……!」
地下水路を通り、橋の下に出る鉄格子をいつものように外す。
外は雪が降っていた。積もるような降雪量ではない。スノラの人間にとっては大したことない天気だった。
「『流動の水面』!」
橋の下に出た瞬間に、水属性の強化魔法を唱える。アスタの体を水が纏った。
辺りを見渡す時間は無い。スノラの町を全て回る覚悟でまずはホテルの方を探そうと駆けだす。
「あら、本当に出てきましたね」
その時、背中に女の声がかかった。
「ひっ!」
アスタはすぐさま体を反転させて声のほうに向けた。
地下水路から出てきた時には気付かなかった。橋の下の暗がりに不気味に佇む女性がいる事に。
「お初にお目にかかりますアスタ様。私、今回グレイシャ様の計画において補佐貴族の監視として参加させて頂きましたマリツィアと申します」
橋の下に佇む女は橋の下からゆっくりと歩いて出てきた。
きっちりとした服装と束ねた髪が真面目な印象を人に与える。
自己紹介しながらアスタに深々とお辞儀する。綺麗な所作と言葉遣いに一瞬騙されそうになるが、丁寧に聞こえる自己紹介はその実ただの敵対表明。
その女性はアスタにも聞き覚えがある声だった。
それが数日前門で姉のグレイシャと話していてドレスショップの店員の声そのもの。
「あ……あ……!」
強化によって水を纏っているにも関わらず、アスタは後ずさる。
あの時駆られた逃げ出したくなる衝動は苦手だったグレイシャがいたからだとアスタ自身も思っていた。
だが違う。
今対面してわかる。あの時逃げ出したくなったのはこの女のせいだ。こいつの声だ。
姉達に擦寄る貴族達を見て培われた人を見る目がこいつは危険だと信号を出している。
「お急ぎの所失礼いたします。第一段階が終了し、グレイシャ様と私との契約が終了しましたので報酬を頂きにまいりました」
「ほ、報……酬……?」
「はい。契約報酬として補佐貴族の遺体をお一つ。グレイシャ様のサービスでもう一つ遺体を頂きました。そしてこの度、成功報酬としてアスタ様……あなたのお身体を頂ける契約となっております」
「……え?」
何を言っているのかわからない。
補佐貴族の遺体が報酬? 成功報酬で自分の体?
余りにも人の意思を無視している言葉にアスタの思考が混乱する。
「申し訳ございません。わかりにくかったでしょうか?」
アスタの様子を見てマリツィアは心配そうな表情を浮かべている。
物騒な事を言っているにも関わらず、丁寧な言葉遣いと本気で人を心配しているような様子が喋る内容とどうしても結びつかない。
「つまりですね、あなたの命を好きにする権利を私はグレイシャ様から頂いております」
「!!」
「好きにすると言いましてもピンと来ないと思いますので、実例をご用意させて頂きました」
その言葉と同時に――運河の中から二つの影がマリツィアの背後に飛び込んできた。
アスタは驚いて距離をとるが、マリツィアは動じない。
「マリツィア……様……」
「……」
「どうでしょうアスタ様? 見覚えありますでしょうか?」
マリツィアは友人を紹介するかのように微笑んだ。
二つの影は人だった。虚ろな目と枯れた声。片方は頭部に傷もあり、運河の中にいたからか、開きっぱなしの口には水が残っており、開いた口から水がびちゃびちゃと床に落ちている。その二人が着ている服は濡れてはいるものの、マリツィアと同じようにきっちりとしたものを着させられていた。
「ペントラ家と……クトラメル家の方……!」
「はい、その通りでございます」
その二人をアスタは知っていた。
話した事があるわけではないが、忘れるわけがない。トランス城にも来た事があるカエシウス家の補佐貴族。ペントラ家とクトラメル家の長男であるドース・ペントラとコリン・クトラメルだったからだ。
しかし、見覚えのある顏ではあるものの、その顔は青白く生気がない。喋る声もまるで無理矢理絞り出させられているようだった。
「好きにするという意味、分かって頂けましたでしょうか? アスタ様もこのように、是非私のコレクションに加わって頂きたいと思っております」
「ひっ……!」
「カエシウス家の方の体は魔法使いの中でもさぞ極上でしょう。私の持つコレクションの中でもお気に入りになると思います。それに……アスタ様は私の好みでもありますから大切にしますのでどうぞご安心ください」
マリツィアは一歩、アスタの近付く。
アスタは近付くマリツィアから離れるように一歩下がった。
「私からの説明は以上となります。どうでしょう? 大人しく私の物になる気はございませんでしょうか?」
「こ、断る! 『氷柱断壁』!」
マリツィアの笑顔を隠すように、アスタとマリツィアの間に氷の壁が出来上がる。
ここは人通りの少ない地区だが、橋を渡る通行人がいないことは無い
突如現れた氷の壁にスノラの平民達がざわつく事が聞こえてきた。その声を背にアスタは逃げ出す。
早すぎる敵の魔法使いとの遭遇。予定を変更してアスタは門の方へと逃げ始める。
「せっかく穏便にすませようと思ってましたのに……町中で躊躇いなく魔法を使うなんて少し不作法ですが、こうなっては仕方ありませんね」
氷の壁が砕ける。マリツィアはドースとコリンの体を使って人一人通れる道を氷の壁に作った。
氷の穴から逃げるアスタの後ろ姿が見える。
「追いかけっことは……ふふ、もう遊んでいただけるなんて光栄です」
マリツィアは変わらぬ微笑みをアスタの背に向けていた。
「ドースさん。コリンさん。追い掛けてくださいな」
「マリツィア……様……」
「……」
マリツィアの声に反応し、二人の体はゆっくりと、氷の穴を通っていく。
ゆらゆらと、芯が無いように揺れながら歩く体はどこか亡霊じみていた。
「もう……急がないと見失ってしまいますよ? 急いでください」
「は……い……」
「……」
ドースは応え、コリンは無言で。二人の体は不器用な体の動かし方で走り始めた。
強化をかけたアスタの背に追いつくほどの速度で、二つの死体がスノラの町を駆ける。