164.継承者の願い
トランス城深夜。
スノラ含めて全ての者が眠りについているであろう時間に一つの扉がかちゃ、と静かに音を立てて開いた。
扉から出てくるのはミスティ・トランス・カエシウス。
まだ季節は秋といえる時期とはいえ、夜になると冬がひょこっと顔を出しているような寒さがある。そんな冷え冷えとした廊下にミスティは青のナイトウェアに何も羽織る事無く出てきた。ミスティにとってこの程度は寒いの内に入らない。
ミスティは扉を静かに閉めるとゆっくりと廊下を歩き出した。月明りも、星明りも無い夜。ミスティの歩みを支えるのはただ手に持つランプと行く先々に置かれている蝋燭だけ。
当主継承式まであと四日――すでに日付が変わってもう三日になる。
刻一刻と近付く自分の晴れ舞台を前にミスティの心は少しだけ落ち着かない。
ミスティは決して当主になりたいと魔法を極めてきたわけではない。
カエシウス家の当主は最も魔法の才に溢れた人間が選ばれる。姉であるグレイシャ・トランス・カエシウス。弟であるアスタ・トランス・カエシウス。共に魔法の才には恵まれている。他の家であれば間違いなく当主になる逸材だ。特に姉であるグレイシャはカエシウス家の血統魔法を継ぎ、何事も無い時点でその才は疑う余地も無い。弟であるアスタは血統魔法をまだ継げていない事に劣等感を感じているものの、グレイシャでさえ継いだのは十四歳。そんな風に自分の才能を悩めている時点で魔法に対しての意識は高く、その将来は父だけでなく使用人からも期待されている。
しかし、そんな二人よりも圧倒的なのがミスティ・トランス・カエシウス。
平然とした顏で十歳の時に血統魔法を継ぎ、今に至るまでその才を過信すらしない貴族の鑑のような少女。
グレイシャのように魔法使いの道を選ばないわけでもなく、アスタのように劣等感を抱えて自信が無いわけでもない。これ以上無いほどに貴族としての役割を果たそうと正しく振舞い、魔法使いとしても隙の無い精神性を周囲に見せてきた少女は当たり前のようにここまでの人生を歩んできた。
当主になりたいが為に歩んできたわけではない。それでも当主になればより多くの人間を助ける事ができると知っていたから、父ノルドに次期当主の話を持ち出された時も迷うことなく受け入れた。姉を差し置いて、弟の成長を待たずに、という驚きこそあったが、返事は彼女の中で一つだったといっていい。
「……」
少し気になったのは結婚相手の事だろうか。
父からその話題が出なかった事にも驚いたが、他国への牽制の意味があるとはいえまだ在学中のミスティを指名するというのがすでに異例。その辺りは慎重にという事なのかもしれない。
カエシウス家は何も早婚である必要は無い。どの社交界に参加しても引く手数多の大貴族。そこらの貴族と違って急ぐ必要は全く無い。優秀な人間を選んで選んで、選んだその人間が断ったとしても――そんな事はほとんど有り得ないが――次の世代の人間を待てるくらいには余裕がある。そんな他の貴族とは一線を画した家だ。
カエシウス家に関わらず、四大貴族の結婚相手の基準も魔法の才。魔法の才に溢れてさえいれば下級貴族でも問題ないくらいに徹底した実力主義だ。事実、母であるセルレア・トランス・カエシウスは下級貴族の出。いずれ自分自身でそんな相手を選ぶ時も来るだろうが、今のミスティにはそんな気にはなれなかった。
「静か……ですね」
ミスティは呟いて、廊下の先にある階段をゆっくりと降りていく。ランプの灯が揺れ、ミスティの影も同じように揺れた。
少し歩いて辿り着いたのは、トランス城の書庫だった。
かつて自分が逃げるようにして訪れた場所に、ミスティは今夜も辿り着く。
部屋の音より少しだけ重い音を立ててミスティは書庫の扉を開いた。中からは古い紙の匂いがする。
個人が持つには大きすぎる書庫には至る所に本棚が並んでおり、その癖空いているスペースは数えるほど。その蔵書量がどれほどか想像するのも難しい。その本の種類は魔法や魔法と魔法使いの歴史に関するものがほとんどで、中には魔法使いの物語なんかも歴史の資料として保管されている。
城の一階は舞踏会で使われる元玉座の間とこの図書館で半分以上のスペースをとっているくらいだ。
個人でここまで広い書庫を持つのは間違いなくカエシウス家だけ。これより大きいとなると王都にあるアンブロシア図書館を引き合いに出さなければいけないほどにトランス城の書庫は広かった。
本が好きなアルムが見れば喜びで天を仰ぐかもしれないほどの環境で、ミスティも幼い頃は当然この書庫の恩恵を得て魔法の鍛錬を積んできた。
「相変わらず、広いですのね」
幼い頃から少しは成長したはずなのに、書庫の広さは全く変わっていないように見えた。
ゆっくりと真っ直ぐに歩き始める。
広い。とても広い。残酷なほどに。十歳になる前は、そんな事思わなかったのに。
そして無意識に、自分の肩を擦っていたことに気付いた。
「寒い、ですね」
その感想は何もおかしい事はない。
ミスティが着ているのは防寒に優れているわけではない青いナイトウェア。北部の、しかも秋の夜にそんな恰好でいれば寒いのは当然だ。
問題なのは、それを感じるべきなのは温かくしていた部屋から廊下に出た時であるべきという事。
「寒い」
小さな体を抱えるようにしてミスティは呟く。
その姿はランプを抱えて何かを探しに来ただけの一人の少女。
「寒い」
寒さはきっと不安だった。
認めないようにミスティは寒いと言い続ける。
記憶が蘇る。十歳の夜、泣きじゃくってこの場所を駆けずり回った日の事を。
魔法使いを助ける誰かの話を探したあの日の事を。
「寒い」
無い。
そんなものは無い。
そんなお話は無い。
あるわけが無い。
今なら幼い頃に届かなかった場所にも手を伸ばせる。それでも体は動こうとしない。
魔法使いは誰かを助ける者。決して助けられる者ではない。
わかっているのに、体が震え始める。
自分はこれから雪原を歩くのだ。雪の降る場所を誰の手も借りずにただただ一人で進む――そんな人間にならなければいけないと知っているから。
「寒い」
先程していた姉との会話が頭に浮かぶ。
私はお姫様に憧れたのだと、姉は言った。
"私だって憧れた! 魔法使いにも! お姫様にも!"
心の内でミスティは叫ぶ。自分はどちらにも憧れたのだと――
「寒、い……」
それはとんでもない我が儘だとわかっている。自分がどちらになるべきなのかなんてわかっている。どちらにもなんてなれはしない。
それでも、憧れてしまったのだ。
憧れた結果が寒さに震える自分で、こうして震える姿を母が望まなかったとしても。
憧れるだけは許してほしいとミスティは母に願う。決して夢を見たりはしないから。憧れるだけは許してほしいと。
三日後にはきっと、震えながらでも歩き続ける事を約束しながら。
「寒い……!」
――今くらいはこうして言葉に出させてほしいと許しを乞う。
唇から零れ続けるその一言以上の弱音が漏れないように必死に耐えて、誰にも見せてはいけない姿を自分から伸びる影にだけ映し続ける。
誰も聞いていなくても、誰かに聞かれてもいいように。自分が望むただ一つの願いを抱えながらただただその一言だけを零していく。
「お母様……まだ雪も降っていないのに……こんなにも寒いですのね」
しばらくして、ミスティは踵を返す。
母の淹れてくれたミルクティーが飲みたい。
そう思いながらミスティは本を探すことなく、部屋へと戻っていった。震える体を抱き、一筋だけ涙を流して。
彼女の願いはただ一つ、助けてくれる誰かが世界のどこかにいますように。
そんなささやかなものだった。
今日は夜に幕間も上げます。
夜に時間が無いので予約投稿になりますが、その幕間で一区切りとなります。
その次の更新から舞踏会が始まります。誰にどんなドレス着せるかとか悩んでました。皆さんのイメージにとも合えばいいのですが……!