163.姉の告白
「あなたの髪は美しいわね」
グレイシャ・トランス・カエシウスは自室でミスティの髪を梳いていた。そよ風をうけるように穏やかに、絹を愛でるように優しく。ミスティは青のナイトウェア、グレイシャは黒のネグリジェに身を包んで鏡の前に座っている。
傍にはラナも控えており、その光景を見守っていた。
グレイシャの部屋は普段使っていないせいもあって少々殺風景だ。それでもグレイシャの趣味の置物や絵画などが置かれ、更にはアロマも焚かれていてミスティの部屋とはまた違う大人の女性らしさが漂う空間となっている。
「グレイシャお姉様に褒めて頂けるなら胸を張って誇ることが出来ますわ」
「張る胸が少しだけ慎ましいのが傷かしら?」
「グレイシャお姉様?」
「あら、ごめんなさい。気にしてたの?」
「もう……知りません」
「あらあら、拗ねちゃった」
ミスティは頬を少し膨らませる。グレイシャは鏡に映る膨れっ面のミスティを見ながら櫛を優しく動かし続ける。
「何も私みたいな大きさになったほうがいいわけじゃないのよ? あなただったらそうね……本当にもう少しだけかしらね。あなたのが私みたいに大きくなってもただバランスが悪いだけだわ、美しくならないもの」
「それでも羨ましいものは羨ましいですわ」
「ねぇ、ラナ。あなたもそう思わない? ミスティはこのくらいがいいわよね?」
「はい、私もそう思います。ただ胸が大きくなるだけではミスティお嬢様の可愛らしさを変に損なってしまうだけかと」
ラナはグレイシャに急に意見を求められても慌てる事は無い。何せミスティの事についてだ。
何を真面目に答えているのかと思う人間もいるかもしれないが、ラナは何よりも真剣な眼差しだった。
「慰めをありがとうございますラナ……納得は、その、できていませんけど……」
「まぁ、コンプレックスってそういうものよね。他人には永遠にわからないっていうのかしら」
「永遠にですか?」
グレイシャは鏡の中で頷く。
「ええ、一見同じようでも境遇とか経験が違うとね。あなたみたいに可愛く気にしているだけの人もいれば、傷になりかけだったり、もう傷になってる人もいる。その傷だって本人からしたら小さかったり大きかったりしたりね。私はそういう人をずっと見てきたわ。何より私の作品を欲しがる人は、そういう人達が多かった」
「コンプレックスを抱えてる方がですか……?」
「ええ、自分の家の輝かしい歴史に反して今はぱっとしていない人とか、逆に歴史が浅いからこそ芸術を求める人とかね。……そんな人達の中でも買って満足する人もいれば、やっぱりそれだけでは埋められなかったりする人もいたかしら。
流石にどこの家とは言えないわよ? これでも私、客の情報はしっかり守るんだから」
鏡の中で語るグレイシャの目は少し影があった。家から離れて芸術家として活動している間、顧客の暗い部分に触れてきたのだろうかとミスティは少し心配になる。姉の活躍が華々しいほどに、そんな陰に触れてきた数は多いだろう。
「グレイシャお姉様は……そういう方達の為に芸術家になったのですか?」
「いやね、そんなわけないでしょう? たまたまそういう人達に私の作品が刺さって成功したっていう自慢話よ」
グレイシャは櫛を置いて鏡の中のミスティと目を合わせる。
少しの間、グレイシャはミスティの髪をいじっていた。指を通してみたり、毛先をいじってみたり。それが終わると両肩に手を置いた。
「……あなたはお母様に似ているわね」
急に言われて、ミスティは一瞬言葉に詰まった。
姉にそんな事を言われたのは初めてだったから。
「……グレイシャお姉様もですよ。私達は姉妹ではありませんか」
「私は似ていないわ」
「似てますよ。どちらかといえば私よりグレイシャお姉様のほうが似ていると思いますが……」
ミスティはそう言うも、グレイシャは首をゆっくりと横に振る。
「似ているのは見た目だけよ」
「そう、なのですか?」
「ええ、似ているのはあなた。優しくて、お人好しで、厳しくて、意志の強い……そして家族にちょっとだけ甘い。そんな人」
じっと、鏡の中のグレイシャはミスティの瞳を見つめていた。同じ色の視線が鏡越しに交わっている。
「あなたを見ているとお母様の事を思い出すわ。あなたもお母様と一緒に寝る時に読み聞かせてもらったんじゃない? ラフマーヌに伝わる魔法使いとお姫様の絵本があったでしょう?」
「ええ、覚えています」
ミスティは顔を綻ばせて頷いた。
覚えているに決まっている。絵本の内容は北部がまだラフマーヌという国だった時に生まれた民間伝承。
かつてラフマーヌの城に住むお姫様を攫おうとする悪者がいた。
悪者はお姫様の命を使ってこの国を手に入れようとしたが、お姫様の危機を救うべく颯爽と駆け付けた魔法使いが行く手を阻む。
悪者の繰り出す魔法を駆け付けた魔法使いは物ともしない。どんな魔法も氷の魔法を巧みに操る魔法使いを止めることは出来ず、悪者は魔法使いに退治され、お姫様は魔法使いの手によって無事助け出され、国は平和を取り戻した。
そんなどこの国でもあるようなありふれたお話だ。
その魔法使いとお姫様が結婚し、カエシウス家になったのだと当時の人々は信じていたが、真実かはわからない。カエシウス家は千年前から存在する家。似たような話はあるものの千年前から今までの全ての記録が歴史に残っているわけでもない。カエシウス家が統治する前のお話とあれば尚更だ。
このお話はミスティにとっては母親セルレアがまだ元気だった頃の大切な思い出だ。グレイシャが同じように読み聞かせをして貰っていたのなら、グレイシャにとっても大切な思い出だろう。
「あれ聞かせ終わった後、決まってお母様が私に言うのよ。もしかしたらあなたもかしら?」
ミスティは小さく笑って肩を揺らした。やっぱり姉も同じだったと知って。
「はい、恐らく……同じ言葉かと思います」
「そうでしょうね……今でも思い出すわ。優しいお母様の顔が真剣な表情に変わってこう言うの。あなたはお姫様に憧れてはいけませんよ。あなたは負けてはいけないって。あなたはこの悪者を自分で倒す人間でなくてはならない、って何度も何度も言われたわ」
ミスティが聞いていたのと同じ言葉だった。
マナリルの貴族、その頂点としての在り方。それを教えてくれた母の厳しい言葉。
そして、遠い――子供の頃の優しい思い出。
「今思い返せば、ある意味民間伝承の正しい使い方なのかしらね? 物語を通じて教育や教訓にするっていう。マナリルの貴族としての心構えをあんな子供の頃からお母様は教育してくれていたのよね」
「はい、お母様はお優しい方でしたから」
「ほんとね。でも読み聞かせの時くらい浸らせてほしかったかもしれないわ」
「ふふ、そうですね。私も最初の頃悲しくて泣いてしまいました」
「でもね、あの話を聞いたからこそ――マナリルの貴族として相応しいのはミスティ、あなただと思っているわ。本当よ」
言いながらグレイシャは顔を近付け、頬をすり寄せるようにミスティの肩に顎を乗せた。果物のような甘い香りがミスティの鼻孔をくすぐる。
「グレイシャお姉様……」
「私はね、ミスティ。魔法使いにはなりたくなかったの。お姫様に憧れたの。お姫様に、憧れたのよ」
そう言ったグレイシャにミスティは私もですと言うことはできなかった。
「……」
だって、私は――家柄とかも関係なく魔法使いにもなりたかったから。
誰かを助けたかったから。
ごめんなさい。少し遅れてしまいました。
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