158.隠し通路
アスタ・トランス・カエシウスはその気弱な性格には似つかわない趣味がある。
「よいしょ……」
それがトランス城の隠し通路を使って城から抜け出す事だった。
この隠し通路は城に住む者が未曽有の事態に襲われた際の逃亡用として幾つかの部屋に用意されており、最終的にスノラの地下水路に行くような設計になっている。そしてもう一つの特徴として隠し通路は全て繋がっており、トランス城を占拠された際の攻略用としての使い方も想定されていた。
しかし、カエシウス家が住んでいる以上そんな事態は起こらない。カエシウス家の長い歴史でもこの隠し通路を使っての戦闘はたったの一回しかなく、当然城の占拠など起こった事は無い。
アスタが自分の部屋に隠し通路があると知ったのは一昨年のことだった。隠し通路の存在は当然カエシウス家の人間全員が知っている。しかし、アスタが見つけた自分の部屋の通路は今やカエシウス家すら把握していないものの一つだった。
隠し通路は繋がっているとはいうものの、地下通路から城内の隠し通路まで行く道は巧妙に隠されていたり、簡単には行けないようになっている。アスタの部屋から行ける隠し通路も地下通路から上がる場合は床に隠された魔石に魔力を通さなければ通る事ができない。今も王都や魔法学院で使われるような魔石の仕組みが地下通路のような普段目に触れないような場所にだけ使われている事に当時見つけたアスタは感動していたほどだ。事実、トランス城内部には魔石の照明はあるものの、魔石を使って開閉する部屋の扉は無い。
「どうラナ?」
「お似合いですミスティお嬢様」
いつものようにトランス城を抜け出そうという時、通路の中まで聞こえてくる声があった。
自身の姉、ミスティ・トランス・カエシウスとそのお付きの使用人ラナの声だ。
アスタの部屋とミスティの部屋はそう遠くない。ミスティの部屋から行ける地下通路があるのはミスティ本人も知っている事だが、その通路をまさか今弟が使っているとは思いもしなかった。
「本当? ラナってば、私が何着てもそう言いそうなんですもの」
「……」
「な、何か言ってくださいまし!」
そんな会話を聞きながらアスタは歩を進める。
着替え中であろう姉の会話など聞いていいはずが無いと、アスタはそそくさとそこを通り抜ける。自分の前では良き姉の姿しか映っていないが、壁の向こうから聞こえる声からは歳相応の子供っぽさが感じられる。ラナという使用人に気を許している証拠だろう。
「……羨ましい」
つい、アスタは小さく呟いた。
アスタには気を許していると言えるような家族はいない。いや、そもそも甘えていい立場ではないのだ。
自分はカエシウス家の人間。力無き者の為に力を振るうマナリルの貴族、その頂点。
そんな自覚が十歳の少年の中にもすでに芽生えている。
そして幼いながらも理解もしている。聞こえてくる姉の声は決して甘えからきているものではない事くらい。自分の呟きが勝手な羨望である事も。
何て身勝手な呟きだったんだろうとアスタは反省する。静かに壁の向こうの姉に向けて謝罪した。
「……」
隠し通路を下っていくと、今度はもう一人の姉の声が聞こえてきた。
アスタ自身は苦手とするグレイシャの声だ。
「待っていたわ」
「いつもありがとうございます。ドレスショップ、リコリスの"マリツィア"と申します。注文されていたドレスをお届けにあがりました」
「ええええ! ようやくね!」
「グレイシャ様、私がお運びしましょうか?」
「いいのよ、気にしないで。楽しみにしていたんだもの、自分で運ぶわ」
どうやら一階の玄関付近だろうか。
姉グレイシャ以外にもドレスショップの店員の声と使用人であろう声も聞こえてくる。
「待ちわびたわ……ふふ、相変わらずリコリスのドレスは美しいわね?」
「ありがとうございます。グレイシャお嬢様自らお受け取りに来てくださるとは」
「待ちきれなかったのよ、子供っぽくて御免あそばせ」
「決してそんな事はございません。私どものドレスをそれだけ楽しみにして頂けたという事ですからむしろ光栄でございます」
「そうだ……ミスティはあなたのお店に行った? ドレスを買うならここがいいと勧めたのだけれど?」
「ええ、先日いらっしゃいました。グレイシャ様からお勧めされたとも仰っていましたので私どもも選ぶのに気合いが入りました」
「そう、ならよかったわ」
「ところで……」
ドレスショップの店員の声が少し大きくなる。
地下で聞いていたアスタはびくっとその声で不意に足を止めた。
「ミスティ様はサービスでお付けしたブローチを気に入ってくれていますでしょうか?」
「……さあ? あの子のドレス姿まだ見てないもの」
「そうでしたか……実はグレイシャ様から当店を勧められたと仰られていたのでサービスでお贈りしたものなのです」
「あら? 私本人にはサービスは無いのかしら?」
「勿論、すでにそちらのドレスにお付けしております」
「……随分気が利くわね? サービスしすぎなんじゃない?」
「カエシウス家に御贔屓にして頂けるなら当然かと」
「そう? ありがとう、当主継承式の時には喜んで着けさせていただくわ」
「はい、是非。それでは失礼致します」
「ええ、ご苦労様」
会話が終わると、馬車ががたがたと移動する音が聞こえてくる。
「……っ?」
何故かその場から逃げ出したいような衝動に駆られ、アスタは小走りで通路の出口へと走っていく。
しばらく歩くと普通なら行き止まりかと思う壁に突き当たるが、アスタは手慣れたように魔石に魔力を反応させてスノラの地下水路へ下りた。
地下水路内は暗いが、アスタにとっては一昨年から何度も通っている通路だ。壁にかかっている燭台に火を灯さずとも移動できる。
水音のする地下水路を歩いていくと、夕焼けの光が地下水路内にまで入ってきている場所が見えた。
「へ?」
途中、ぴしっ、と何か硝子のようなものを踏んだ音がした。
いつもとは違う音にアスタは立ち止まって足下を探ってみるも、靴越しにその正体はわからない。
暗い中床を這って確認しようという気にもならず、アスタはそのまま通路の先を進んでいき、出口の階段を上がっていく。
階段を上がった先の出口は格子状の扉で閉じられていて立ち入り禁止になっているものの、ここの鍵が機能していない事は知っている。
がこん、と格子状の扉は手前にずらしてやるといとも簡単に外れた。
アスタは出口から出てきたかと思うと、きょろきょろと周囲を見渡して誰もいない事を確認する。地下水路の出入り口は運河にかかる橋の下に設置されており、この時間に橋の下に来るような人間がいない事は経験上知っているが、念の為だ。
アスタは周りに誰もいない事を確認すると階段まで走って町へと上っていく。
「今日はどこに行ってみよう」
それを見られているとも知らずに、アスタはスノラの町に意気揚々と乗り出した。