113.前夜2
「むむむ……とりあえず冷ましてはみたけど……ボクも飲めないのにどうしようこれ……」
左手に持つマグカップに注がれた黒い液体ををじっと見ながらベネッタは屋敷の中に戻ってきた。
あちこちに置かれた蝋燭と窓から注ぐ星明かりがホールを照らしている。
扉を閉めて、吹き抜けになっているホールから上を見ると、手すりを背もたれにしているエルミラの後ろ姿があった。
「エ……」
「はあぁああ……」
ベネッタが声を掛けようとすると、後ろから肩が上下するほど深いため息がついたのが見えて名前を呼ぶのを躊躇った。
もしかしたらエルミラにとってみられたくない場面に出くわしたのではと一瞬思っての事だった。
「ずいぶん大きなため息だ」
そんなエルミラのため息に招かれたかのように、廊下の先からルクスが歩いてきた。
ベネッタは何となく、玄関の近くにある柱の影に隠れてみる。
"何で隠れちゃったかなあボク……!"
本人は隠れてみてから、激しく後悔するわけだが。
「二人にして大丈夫なの?」
「うん、どっちかというと二人で話したほうがいいだろうしね」
ルクスがいたのは先程まで全員がいたラーディスの部屋。
今はシラツユとラーディスしかおらず、二人で話をさせる為にルクスは部屋を出てきていた。
「それで、ため息の理由を聞かせてもらえないのかな?」
ルクスはエルミラに寄り添うように隣まで来た。
人によっては無遠慮にも見えるが、今はこの距離を少し嬉しく感じてしまう事にエルミラは少し情けなさを感じる。
「いや……私って思ったより情けないなあって思い知ってね」
そんなエルミラの口から弱音が零れた。
柱の影で会話を聞いていたベネッタはいつも自分に構ってくれる面倒見の良さとはギャップのある声で少し驚く。
相手の身を案じて何か言うのを躊躇うことはあっても自身の弱音を零すを見たのはベネッタは初めてだった。
「情けないなんて僕は思った事ないけど」
隣で聞いているルクスにも心当たりは無い。
慰めでもなんでもなく、本当にルクスはそう思ったことは無かった。
「……だって私あの百足恐いもの。アルムが言うまで戦おうなんて思っても無かったわ」
「いや、僕だって恐いよ?」
「でも戦う気はあるんでしょ?」
「そりゃそうだけど……あんなでかいの相手すると思ったらそりゃ戦いたくないって思うくらい当然じゃないかな?」
ルクスはそう言ってくれるものの、エルミラの気分はまだ晴れない。
多分ルクスと自分の心の在り方は違うとエルミラはわかっていた。
ルクスは恐いと言いながらも絶対に戦うほうを選ぶ。対して、自分は逃げる選択肢をとる事もある。
貴族であり、魔法使いとなるならばこの差は大きい。
何かを守る為に迷うことなく行動できる者こそ魔法使いには相応しい。
そういった意味では、自分は魔法だけでなく精神面ですら半人前だとエルミラは気分を落としていた。
「でもねぇ……平民のアルムがあんな感じで一直線に魔法使いになろうとしてるのに私はって思うとね……少しへこむわけよ」
「……アルムは僕達とは違うからね」
珍しく、ルクスらしからぬ発言にエルミラは少し驚いた。
アルムを一番に認めてるであろう男がまさかそんな事を言うとは思わなかったのだ。
「平民だから?」
「ある意味そうかもしれないね。アルムは平民じゃなれるはずがないって言われてるものを目指してる。
けど、僕らは違う。ある程度の実績と家を継げばなるだけなら魔法使いになれてしまう。
もちろんベラルタ魔法学院を卒業するには実力が必要だけどね。
だから……ハングリー精神とでもいうのかな? そういうものがアルムには常にあるんじゃないかな。本人見てるとそんな感じはしないけどね」
そういう事かとエルミラは納得する。
違うとは、身分の低い高いではなく、そこから来る目標への心持ちの問題というわけだ。
でも、それならなおさら。
当たり前になれる者が全力を賭せないのは果たして相応しいと言えるのだろうか?
「貴族の在り方も全うできないってのに家の復興なんて夢のまた夢よね……」
だからこうして、弱音を吐いてしまう。
アルムの言葉で背中を押される前に自分は戦うと決意してなければいけなかったと思うがゆえに。
「でもここに立ってるじゃないか」
だが、そんな弱音を吐いてもルクスはエルミラを見る目を変えたりしない。
「エルミラはまだ家を継いでるわけでもないし、ここの領主なわけでもない。それこそ逃げ出したっていい立場だ。
それに、恐がったり逃げたくなったりする時は誰だってあると思うよ。それが当り前さ、貴族だって人間だからね。
恐くて、逃げて……それでも、立たなきゃいけないとこに最後には立っている人こそ僕はその場所に相応しい人だなって僕は思う」
ルクスから逃げるという言葉が出てきた事にエルミラは少し驚いた。
ある意味アルムよりも、ルクスのほうが無縁だと思っていた言葉だった。
魔法の才に恵まれ、優秀な貴族である事が当たり前とされるオルリック家の長男。
それは生まれた瞬間に、国を守る責任を課せられるのに等しい。
没落している自分とは違う悩みを抱えていたであろう。
そんな責任が常に人生に付き纏うであろう彼の口から出た逃げるという言葉は余りに似合っていなかったのだ。
「だから恐いって、逃げたいって思っていても今ここに逃げずに立っているエルミラを僕は尊敬するよ」
嫌味も無く、爽やかな表情でルクスはそう言い放つ。
ルクスが? 私を?
一瞬、混乱した。
こんな私を尊敬するだなんて言ってくれる人がいるとは思わなかった。
しかもそれがこの国最高峰の貴族の長男。
妙に心が軽くなった。
弱音を吐いてもいい。
止まってもいい。
常に全力を賭すことなどできるはずもない。
今の弱音を吐く自分でさえ認められたような不思議な感覚がエルミラを包む。
しかし、エルミラが黙ってると、ルクスは徐々に自信無さげな表情へと変わっていき、
「えっと……励ませてるかな?」
不安そうにルクスはエルミラに確認するように問い掛ける。
その表情はつい今まで自分を励ましていたとは思えないほどに何だか歳相応で、エルミラはつい笑ってしまった。
「ふふ」
「ええ!? おかしかったかな?」
「ううん、違うの。まぁ、その……ありがと。元気出たわ」
「そうかい? ならいいんだけど……」
さてと、とエルミラはわざとらしく話を切り上げ、体を反転させてホールのほうに向く。
「じゃあそろそろ……ベネッター」
「え? ベネッタくん?」
エルミラはベネッタが隠れてる柱の影に向かって名前を呼ぶ。ルクスは気付いていなかったようで、エルミラの視線の方向を追った。
気付かれていたのかとベネッタは柱からそっと顔を出す。
「ご、ごめんなさいー……盗み聞きするつもりは無かったんだけど……」
「別にいいわよ。今更ベネッタに聞かれて困る話じゃないし」
ちょっとだけエルミラは嘘を吐いた。
不安じゃなくなったのはルクスと話してからだ。
エルミラは隠れていた事に怒っているわけではないという事にベネッタはほっとしながら柱から出てきて階段を上がっていく。
「あれ? コーヒー、ヴァン先生に持っていったんじゃなかったっけ?」
廊下まで上ってきたベネッタの手には依然としてコーヒーが全く減っていないマグカップがあった。
「先生が紅茶のがよかったみたいで、そっちとられちゃったのー」
「ふーん、あんたコーヒー飲めたっけ?」
「飲めないんだよー……だからどうしようかなって」
「ほら、私が飲むから貸しなさい」
「いいのー?」
「あれ?」
頭に疑問がよぎったルクスを気にせず、エルミラは受け取ったマグカップを口に運ぶ。
そしてぐいっと一気にマグカップと顔を上にしてコーヒーを飲み干した。
「どしたのルクスくん?」
「ああ、いや、なんでもないよ」
「変なのー?」
エルミラはコーヒーを飲み干すとベネッタに空になったマグカップを手渡しながら感想を口にする。
「……少し、冷めてるわね」
「ずっとふーふーしてたから……ごめんね?」
「別にいいわよ。ほらあんたは自分の分貰ってきなさい」
「うん! いってくるー!」
空になったマグカップを持ち、ぱたぱたと階段を小走りでベネッタは駆けていく。
キッチンに向かうその後ろ姿を見送って、ルクスが一言エルミラに問う。
たった今、エルミラがベネッタにしたのと全く同じ質問を。
「……エルミラ、コーヒー飲めたっけ?」
「にっがぁ……」
「ああ、やっぱり……」
ベネッタが見えなくなると同時に苦みの残る舌をぺろっと出すエルミラにルクスは苦笑いを浮かべる。
「僕もベネッタと一緒に何か飲み物を貰ってくるよ。エルミラの分も」
「うん、ありがと……」
「ああ、エルミラは強がりは程々のほうがいいかもしれないね」
そう言ってルクスは先に行くベネッタの後を追って階段を下りていった。
「余計なお世話ですよーだ」
いつもありがとうございます。
一章一章が少し長い作品なので一応ここに書いておきます。
この作品は第三部までは構想ががっつり固まっており、特別な理由が無い限りは少なくとも第三部まではしっかり書ききりますのでご安心ください。
ついてきてくださる方は大変かもしれませんが、その章が未完で終わる事だけはあり得ません。安心して読んで頂けると幸いです。