112.前夜
「ふー……」
ヴァンは白い息を吐いた。
マナリルは比較的安定した気候ではあるものの、季節ごとの気温差はそれなりにある。
今は夏も目前という時期でここミレルの気候も温かい。
そんな夏目前というこの時期に吐いている白い息は煙草の煙だった。
レンガ造りの門に肩を預け、疲れ切っている顔でヴァンは一服していた。
その視線は時折動きを見せるミレル湖の大百足に向けられている。
今からでもミレルを襲えるというのに、時折動くその姿は本気で水浴びを楽しんでいるようで気味が悪い。
実際はミレル湖から汲み上げられる魔力に打ち震えているのかもしれない。
魔法使いですら自然から発せられる魔力で調子の良し悪しを左右されたりするほど。
あの大百足が自立した魔法と同じように魔法そのものであるならば霊脈からの魔力は特に極上だろう。
「あれと戦うってのか……」
はっ、と乾いた笑いが零れる。
現実味はあるものの口にすると馬鹿らしくて仕方が無かった。
最初、山で見た大百足でさえ巨大だったというのに、今はどうだ。
丘陵地帯であるミレルの丘より遥かにでかくなっている。
まだミレル湖よりは小さいものの、霊脈から魔力を汲み上げればいつかミレル湖もあの怪物にとっては小さくなるのだろうか。
まるで子供の頃に入った湯舟が今足を畳まなければいけないほど小さくなったかのように。
「あー、ヴァン先生煙草吸うんですねー」
「あん?」
後ろからの声はベネッタだった。
銀色のトレイに湯気の上がるマグカップとティーカップを乗せ、マグカップを振り返ったヴァンへと差し出した。
「どうぞー」
「ああ、悪いな……」
ヴァンは温かいマグカップを受け取り、その中身を見て眉間にしわを寄せる。
マグカップの中では黒い液体が白い湯気を波立たせていた。
「ボク達は紅茶ですけど、ヴァン先生にはコーヒーがいいかと思ってコーヒーにしましたー」
「……ああ、悪いな」
「ふー……ふー……」
ヴァンが隣を見ると、ベネッタは少し赤の色が強めの茶色の液体に息を吹きかけて冷ましている。
「どうしたんですー?」
「いや……お前のはなんだ」
「紅茶ですよー? ボクは全く詳しくないんですけど、ミスティが感動してたんでいいものなのかなーって」
「……そうか。その……俺も紅茶には目が無いんだ」
躊躇いがちにそう言うヴァンにベネッタはわかりやすく体を一瞬跳ね上がるようにして驚く。
「意外です! 意外って言ったら失礼かもだけどー……」
「まぁ、俺はこんななりだからな。気持ちはわからなくもない」
ごほんごほんと咳払いするヴァンにどこかおかしさを感じるベネッタ。
こんな状況なのもあってその顔に気怠さが無いのはともかくして、妙に焦っているような印象を受けた。
「じゃあこの"ミークローツ"て紅茶も知ってるんですか?」
「ああ、勿論だ。有名なあれだな」
「………嘘吐きだー」
表情には出さないが、ぎくりと、心の中で図星を突かれた音が聞こえる。
目を細くしてじっと見つめてくるベネッタに気まずさを感じながらヴァンは何ともないような表情を装ってミレル湖に視線を投げている。
「これ……ミレルで生産したやつで、あんま有名じゃないってミスティが言ってましたもん。
ミスティもあんまり売ってないから飲んでみたかったんですよ、って感動してただけだし……ヴァン先生詳しくないでしょー?」
「……」
「何で嘘つくんですー?」
「………言うなよ?」
「理由によります」
ベネッタはその目でヴァンは追及し続ける。
ヴァンは気恥しさを誤魔化すようにぼさぼさの髪を掻いて、
「……コーヒーが苦手なんだ」
ぽつりと小さくそう言った。
「あ、なんだー。言ってくれればいいのに」
納得したのかベネッタの責めるように細くなった目も戻り、ベネッタは冷ましていた途中の自分のティーカップを渡す。
「苦手ならこっちどうぞー」
「……おう」
「そんな事なら先に言ってくださいよー、また冷ましなおさないとじゃないですかー」
「……おお」
ヴァンがティーカップを受け取ると、ベネッタは交換するようにコーヒーの入ったマグカップを受け取る。
「いらないお気遣いでしたねー。ふー……ふー……」
そして特に追及する事無く、ベネッタは今度はコーヒーに息を吹きかけて冷まし始める。
猫舌なのか、入念に、上がる湯気全てに的当てするのが当たり前であるかのようにずっと息を吹きかけている。
「馬鹿にしないのか」
「何でですー?」
「いや、学院長は俺がコーヒー飲めないって知った時、涙が出る程笑い転げてたからな」
「うわー……目に浮かびますね……エルミラに言っていいですー?」
「やめろやめろ」
あはは、と笑い、ベネッタはコーヒーを冷ます作業に戻る。
冗談のようにエルミラの名を引き合いには出したものの、それ以上何かを言おうとはしない。
「お前、あれ見て恐くないのか?」
会話が途切れ、ヴァンは大百足に再び目を向ける。
ヴァンはベネッタがどんな生徒か知っている。
治癒魔導士志望のニードロス家の長女。
【原初の巨神】の災害時に『シャーフの怪奇通路』に突入して魔法の核を破壊したいわば影の功労者。
なのだが……その魔法の能力はさほど高くない。一年全員で比べれば下の上といった所の、家柄も普通の下級貴族。
当然、治癒魔導士志望ならミスティやルクスといったこの国でも随一の才能を持つ者と肩を並べる必要は無いが、この場にいるのは場違いもいいところだ。
「恐いですけど、ボクはあれと戦う役目じゃないんで比較的大丈夫ですー」
先程まで、ベネッタとヴァンを含め、アルム達は明日の夜明けとともにどう動くかを全員で話し合っていた。
ベネッタの血統魔法は正面からの戦闘に向いていない。
大百足と戦う役目からは外され、ベネッタは避難する人の治療と警護に回された。
「だが……俺達が負ければ必然あれと戦うぞ」
「うーん……」
何故そこで考える?
ヴァンはよくわからず、隣のベネッタをちらりと見る。
そのマグカップの中身は全く減っていない。
「ボクってひどい貴族なんですよ」
「は?」
唐突に言いだしたベネッタに困惑するヴァン。
「エルミラには話した事あるんですけど、貴族の責務とか正直よくわかってないし、あんなでっかいのと戦うのとか正直ごめんっていう気持ちです。【原初の巨神】が来た時もそうでした」
それが普通だ、とヴァンは内心で思う。
彼女らにとって貴族の責務を果たせというにはあまりに唐突。
まだベラルタ魔法学院に入ったばかりの一年生。魔法の勉強は各自してきただろうが、まだ家も継いでいないぺーぺーだ。
そんな生徒に、勝てる見込みがあるかもわからない相手に貴族の責務を果たせと戦いの場に送り出すのはあまりにも酷すぎる。
「でも、ボクの友達はそういう人達じゃないんですよねー……迷わず誰かを助けるし、華麗に敵を倒しちゃうし……あんなでっかいのに立ち向かっちゃう人もいる。
だからしょうがないですよね、こんなボクでもそんな友達の力に少しでもなりたいって思っちゃうのは」
そう言ってベネッタは困ったように笑う。
ヴァンの隣に立つ少女は遠い目をしていた。
その視線の先にあるのは大百足ではなく、きっといつも一緒にいる誰か達。
「……お前、よくあんなのと一緒にいるな」
「アルムくん?」
「ああ、あんな純粋な馬鹿相手で疲れないか?」
真っ直ぐであまりに純粋なただ一人の平民。
窮地に晒された今なお自身の夢に沿った行動をとろうとする悪く言えば馬鹿な少年。
魔法使いの酸いも甘いも知っているヴァンにとっては部屋の中央でシラツユの手をとるアルムの姿は眩しかった。
自分もあんな時があったのかと思い返してみるがどうにも記憶はぼやけていて見つからない。
それとも、忘れているだけだろうか。
「楽しいですよー。毎日楽しい」
にへらと幸せそうにベネッタは笑う。
アルム達と友人にならなければ、もしかしたらこんな事態に出くわすことは無かったかもしれないというのに。
その表情に微塵も後悔は無かった。
「じゃあ、飲み物も届けたし、私は戻りますねー」
「おう」
マグカップを両手で持ち、脇にトレイを挟んでベネッタは振り返る。
それを引き留める理由もない。
いつの間にか、口にくわえていた煙草は思っていたよりも短くなっていた。
ティーカップを持ってない方の手で煙草を口から取り、ふー、と上に煙を吐く。
「煙草はほどほどにしないとくさくなりますよー」
「余計なお世話だ、だから学院じゃほとんど吸ってねえ」
「確かに、今日初めて見ました」
そう言い残して、ベネッタは屋敷に戻っていった。
ヴァンは視線をまたミレル湖に戻し、ベネッタから貰ったティーカップに口を付けようとして気付く。
「……あいつ、結局一口も飲んでなかったな」
コーヒーの入ったマグカップ。
あれを冷ましてはいたものの、結局戻っていくまでの間、ベネッタはコーヒーを一回も飲もうとしていなかった。
幾度も息を吹きかけ、飲むには充分な温度になっていたはずだというのに。
「あー……眩しいねえ……」
そう言ってティーカップに入った紅茶を飲み干す。
当然、普段紅茶など飲まないヴァンにその味はわからない。
ただ、丁度いい温度にはなっていた。
いつも読んでくださってありがとうございます。
決戦前っていう、大一番を目の前にした穏やかな時間が好きです。